非言語としての聖餐式

本当に久しぶりに聖餐式を再開します。聖餐式のたびに思い出すのは、神学生時代に通っていたまぶね教会の時のことです。当時、中原牧師のお連れ合い・Yさんは難病で寝たきりの状態が続いていました。私自身、教会でお会いしたことは一度もありませんでした。

ある主日礼拝の聖餐式で、司式をしていた中原牧師が、突然講壇脇にある通用口から外に出て隣接する牧師館にパンを持っていったのです。そして、寝たきりのよしこさんのベッドに行き、「Yさん、これはキリストの体です」とやさしく語りかけ、配餐されたのです。中原牧師は無線マイクを胸に付けていたので、会堂にいる私たちにもそのやり取りがよく聞こえました。

そのやり取りに耳を傾けながら、これが本当の聖餐式だと感じ心が熱くなりました。教会はついつい「言葉」が中心になりがちです。「説教」や「祈り」は確かに大切ですが、神さまの恵みは、私たち人間の言葉に限定されるものではありません。もっと広く、もっと深いものです。寝たきりのYさんには、「説教」の言葉は届きません。けれども、復活のキリストの体としてのパンを、神さまの恵みを共に分かち合うことは出来る。そのことに気付かされたのです。

「言葉」ではない、パンとぶどう酒を通して分かち合われる聖餐式を通して、私たちは「人を立ち上がらせ、活き活きと人を活かす」イエスの復活を分かち合うことが出来るのです。

保育の現場で、泣く子どもをただただ抱きしめるような非言語のやり取りがとても大切だと気付かされています。同じようにこの聖餐式を通して、ただただ神さまの愛に包まれていきましょう。(有明海のほとり便り no.200)