キリスト者の「自由」が持つ二側面

引き続き『ルターの心を生きる』(江藤直純著)を読み進めています。

宗教改革者マルチン・ルターの最も有名な著作は『キリスト者の自由』(1520年)でしょう。世界史の授業の中で、その名前を聞いたことがあるのではないでしょうか。ルターはその冒頭で2つの命題を示しました。

「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない」
「キリスト者はすべてのものの仕える僕(しもべ)であって、だれにも服する」

「自由な主人」であると「同時」に「すべてのものに仕える僕」であると言うのです。矛盾しているように聞こえますが、ルターの中ではまったく矛盾していませんでした。ポイントは「自由」理解にあるようです。

自由は社会的な拘束からの自由にとどまらないのです。パウロやルターが強調したのは、「罪からの自由」であり、善い行いという律法の軛からの自由なのです。身体的束縛や抑圧からの外的自由に加えて、内的、霊的な自由が強調されています。(p.146)

キリスト者には、この一方的な恵み(十字架の福音による「赦し」と「解放」)が与えられているからこそ、「自由な主人」なのです。けれども、ルターが示す「自由」はそこに留まりません。

「福音」とは「…からの自由」だというのは、事柄の半分だということです。自由にはもう一つの側面があるのです。それが「…への自由」なのです。…自由になったのだから、一切の義務から解放されたのに、あえて愛すること、つまり、そうやって他者に関わること、その相手のためにわざわざ苦労を引き受けること、すなわち仕えること(p.146-147) 

ますます「自由」が束縛されている日本社会で、「…からの自由」と「…への自由」を、キリスト者として胸に刻みたいと願っています。(有明海のほとり便り no.210)