1/100に届く保育を

昨日は学校法人熊本キリスト教学園の職員研修でした。荒尾めぐみ幼稚園と霊泉幼稚園は2013年から同じ学法ですが、両園の園長交代なども重なり、ともに学び交流する場をつくることが出来ていませんでした。そのため、昨年から8月に合同研修を始めました。けれどもあいにくのコロナ禍で、Zoomを使ったオンライン開催となりました。

講師は三浦啓牧師園長(桐生東部教会・高砂保育園)でした。札幌のご出身でHさんとは小さい頃から地区で一緒に過ごし、3・11発災後は何度もわたしがいた被災者支援センター・エマオにボランティアに来てくれました。また、園運営で悩んだ時にいつも相談に乗ってくれる親友です。

リモートでしたが、三浦牧師の「熱さ」をそれぞれがしっかりと受け止めることが出来ました。今回のテーマは「保育観」。どんなキリスト教保育をわたし達が願っているのか問われ考えました。特に響いたのは次の言葉です。

保育観を大切にするのなら、1/100に届く保育をすること。99を追わない。必ずその1が次第に2、3、10に繋がっていく。良いもの(保育)は必ず伝わる、求められる!

早期教育や〇〇式、あるいはキレイな園舎・制服を安易に求めるのではなく、先生たちが子どもたち一人ひとりを本当に大切にしていることに自信を持ち、またさらに研鑽しつつ歩んでいこうと勇気をもらいました!

いま少子化の波がどんどん押し寄せる中で、「経営」責任がある園長としては新入園児が来てくれるだろうかと不安で一杯です。「分かりやすい〇〇」への誘惑は常にありますが、目の前の1人を大切にすることこそがキリスト教保育の原点であること、それを実現してくれている先生たちを祈り・支え温かさを発信していくことが牧師園長の仕事なのだと気付かされました。(有明海のほとり便り no.275)

イエスは中心にではなく

マルコによる福音書10章46〜52節

街外れで道端に佇むバルティマイはイエスに、そしてイエスはバルティマイに出会いました。なぜ彼は街外れの道端にいたのでしょうか?そこにしかいることが出来なかったからです。彼は目が見えず、極貧の生活でした。日々の食事にも困っていました。だからこそ、道の真ん中ではなく道端へ、街の中心部・繁華街ではなく、街外れにしかいることが出来なかったのです。

よく、どこかの国の首相が別の国の首相を表敬訪問することがあります。そういった際、場所はその国の首相官邸だったり、あるいは超一流のホテルだったりします。中心と言われるような所にセットアップされているのです。しかし、聖書に描かれる出会いは中心では行われません

街の外れで、道端で、イエスとバルティマイは出会うのです。私たちは街の外れで、道端で、イエスに出会うのです。街の外れに、道端に気づき出会う感性を、私たちは忘れてしまってならないのです。そこでこそ出会える神さまの息吹があるからです。

しかもバルティマイには、通りがかる一行のリーダーが、「ナザレのイエス」だと知らされます。マルコ福音書の中によく出てくるキーワードです。ナザレは、イエスの生まれ故郷ですが、誰ひとりとして救い主がここから出るなんて思いもしなかった田舎町です。「東京」でも、「大阪」でも、「博多」でもありません。むしろ「荒尾」や「長洲」です。それがナザレです。

でも、そこからイエスは生まれ、福音を分かち合っていくのです。どこか遠くにいるのではない、ここ、荒尾市増永にイエスはおられるのです。私の家に、皆さんの家にイエスはおられます。自分のことで一杯の心の中に、このイエスを受け入れ信じること。ガリラヤ地方を隈なく歩き回り、沢山のバルティマイたちと出会ったイエスの愛・平和を共に分かち合っていきましょう。(有明海のほとり便り no.274)

8/21主日礼拝→家庭礼拝へ

キリストの平和がありますように。

新型コロナウイルスに感染されたお一人お一人に、そのご家族に神さまからの癒やしと守りとがあることをお祈りしましょう。

いまも第7波がものすごい勢いで拡がっています。

そのため、8月21日(日)を家庭礼拝といたします。

8月28日(日)に関しては、三浦啓牧師をお招きした礼拝を予定通り行いますが、参加が難しい方のためにハイブリッドで行いたいと思います。

9月4日(日)に予定していた、山鹿教会での合同礼拝は10月2日(日)に延期しました。

私たちキリスト者の信仰生活にとって礼拝は欠かすことの出来ないものです。たとえ聖書を読むことだけでも、たとえ心の中で祈ることだけでも、神さまは必ず共にいて下さいます。

皆さまに祝福と守りがありますことをお祈りしています。

2022年8月18日 荒尾教会牧師 佐藤真史

中田善秋と宣撫工作

終戦=「敗戦」から77年を迎えます。

『BC級戦犯にされたキリスト者―中田善秋と宣撫工作―』(小塩海平著)を読み衝撃を受けました。「宣撫工作」とは「被占領地住民が敵対せず協力するよう住民を懐柔する行為」(p.2)です。キリスト教会は、「福音宣教」の名の下で植民地政策に協力し「改宗」させ、そのためには暴力も辞さなかった歴史があります。日本のキリスト教会においても、日本の植民地政策に積極的な協力をしてしまった歴史があります。

その一つが、1941年26名のキリスト者たちが「宣撫工作班」としてフィリピンに派遣されたという事実です。その中に、当時まだ神学生で英語が堪能であった中田善秋(旧・日本基督教会)がいました。計画は1年でしたが中田だけは「日比両国のかけ橋になりたい」(p.46)と願い、残りました。けれども、戦局が泥沼化していく中で、日本軍は「一般住民の虐殺を行うようになっていった」(p.47)のです。1945年2月24日「サンパブロ事件」が起きます。日本軍はサンパブロ教会に集めた中国人500余名、フィリピン人80余名を教会裏で殺害しました。中田は計画時から反対しますが強行される中で、教会からフィリピン人10余名と華僑協会の元会長を助け出しました。

けれども戦後、この事件に関するBC級戦犯として重労働30年の刑が言い渡されました。直接的な指導者たちが偽り自己保身に努め刑を逃れる中で、中田は日本が犯した罪を正面から受け止めていったのです。10年後、中田は釈放されますが、教会に戻ることはありませんでした。

私は、あの中華系の住民たちが殺されることを確かに肯定を心の中でしていたと、はっきり認めざるを得なかったのだ。私はうなづいていたのだった。その意味において、確かに「有罪」と云われても仕方がない。(p.86) 

わたし達は、このような歴史を繰り返してはなりません。(有明海のほとり便り no.273)

うふざと教会の働きを覚えて

終戦=「敗戦」から77年を迎えます。「キリストの平和」とはますますかけ離れていくような日本社会であり、そして世界です。けれども、そのような中でも「キリストの平和」を絵空事とはせず、真剣に祈り、聖書を読み、そして仕える働きを続けているキリスト者たちがいます。

その一人が、うふざと教会(沖縄)の島しづ子牧師です。しづ子牧師は農村伝道神学校の大先輩で、長く名古屋の教会と障がい者通所施設の働きを担われ、2年前に沖縄へ72歳で赴任されました。うふざと教会は、「新基地建設反対行動は牧師の公務」としているそうです。「新基地」とは、沖縄の辺野古湾で進められている米軍基地建設工事を指します。

わたしも二度、辺野古を訪れたことがあります。とても美しい海岸で、物々しい警備員たちや海上保安庁の職員たちが、抗議行動を人的・物的に押しつぶす姿があり、心を痛めました。辺野古にせっかく来たので、ぜひ一度訪問したいと願い向かったのが、うふざと教会でした。当時牧会されていたY牧師も、辺野古に通い、抗議活動に参加されていました。驚いたのは、うふざと教会があるのは、辺野古から車で1時間もかかるところにあるということです。わたしはてっきりもっと近い場所にあると思っていたのです。

訪問したのはちょうど祈祷会の時でした。小さな教会の一室で、3名ほどの信徒の方たちとイザヤ書を読み、牧師と福音を分かち合い、熱心に祈り合う姿がありました。

「人の目」から見たらそれは小さな祈りの姿かもしれません。けれども、イエス・キリストはガリラヤの村々でこのように生きたのではないかと、深く心に残った経験でした。

真剣に祈り、聖書を読み、そして「キリストの平和」に仕えていきましょう。(有明海のほとり便り no.272)