「窓」 作:Y.H.

小さな部屋の戸を閉め
目を閉じる
小さな感謝を一つ一つ
小さな懺悔を一つ一つ
小さなとりなしを一つ一つ
閉じた目の奥に光が差してくる
大空が見えてくる
この小さな祈りの部屋の中にも
あなたにつながる窓がある

教会員であるYさんの詩が、『信徒の友10月号』で選ばれました!6月に引き続きの選考で、教会としてもとても嬉しくまた感謝です。 この詩の中に「小さな」という言葉が5回も出てきます。神さまを前にして、わたし達はいかに「小さい」存在であるか、信仰者にとって大きな気づきが込められています。また、「一つ一つ」という言葉も3回出てきます。神さまは「小さな」わたし達の感謝・懺悔・とりなしを、見過ごすことはされません。たとえ「小さく」とも、確かに神さまは聞き届けて下さっています。そして、イエスさまの「窓」を通して、神の愛・赦し・和解・希望の「大空」へと導いて下さっていることに、改めて気付かされました。

「祈りのための小部屋が持てれば幸せだが、この詩では、作者自身が光に満ちた部屋になって上昇していくようだ。祈りとは天に近づくことなのかもしれない。」(選者・岡野恵理子)

この祈りを共に分かち合っていきましょう。(有明海のほとり便り no.279)

『LGBTとキリスト教―20人のストーリー』

この本の監修は、敬愛する平良愛香牧師(川和教会・農村伝道神学校)です。20人が通う(関わる)教会は、教団だけでなく、カトリックから福音派教会まで様々です。そしてセクシュアリティも様々であり、神さまの創造の豊かさを表しています

特に心に残ったのはSさんが書かれた「トランスジェンダーの教師と歩む学校―教育現場での取り組み」です。わたしの母校・基督教独立学園高校の後輩で、2009年から教師として戻られました。そのSさんがトランスジェンダーであることを、学園でカミングアウトしていくのです。

うまく説明できませんが、このこと(カミングアウト)をとおして自分は神さまに見捨てられたのではなく、この世界に私の道がきちんと与えられていると感じられました。…それは私にとって、1人で生きる人生から他者と共に生きる人生への大きな変化でした。(p.58)

平和や非暴力、農や環境など非常に社会的関心の高い学校です。けれどもいま振り返れば、セクシュアリティの意識は、まだまだ低いものでした。

あるベテランの先生にカミングアウトをしたときのことです。私の話をいろいろ聞いてもらい、最終的にその先生は「パウロは間違っていたってことだな」と言いました。パウロ書簡の中には、同性愛を否定しているように解釈ができる箇所がありますが、そのことを指してそう言ったのだと思います。私は「私のことを話していたのに、そっち?」と笑ってしまったのですが、聖書を大切にして生きるその先生が、目の前にいる他者の事実を前に、自分が持っていた価値観や聖書の言葉の受け取り方を相対化した。これはなかなかできることではないと思います。(p.61) 

イエスが出会いに生きた人であったことを覚える時、20人のストーリーがキリスト者に投げかける問いと意義は大きいものです。(有明海のほとり便り no.278)

9・11同時多発テロから21年

9・11同時多発テロから21年が経ちました。史上最悪のテロ事件とも言われる9・11で召された人たちは2977人にも及びます。そこからアメリカ主導で「対テロ戦争」が始まり、2003年にはイラク戦争が起こります。その死者は10万人以上であり、不安定な状況はいまだ続いています。暴力では暴力の連鎖は止められないことも、わたし達人類は学ばなければなりません。

2001年当時、わたしはアメリカの大学に留学して初めての新学期を迎えたばかりでした。ニューヨーク州バッファローにいたのですが、あのときの異様な緊張感をよく覚えています。そして「対テロ」の中で、中東諸国からの留学生たちやムスリムの学生たちが、様々な差別やヘイトクライムの不安の中で過ごしたことも。ショックだったのは、イラク戦争が起こると同級生たちが、徴兵されていったことです。アメリカで学生の多くが学費を軍隊から借りる代わりに、有事の際に徴兵される契約をするのです。「経済的徴兵制」の犠牲の多くは貧困層の学生たちであり、アメリカ社会の矛盾を痛感しました。

マイカル・ジャッジ神父は9・11同時多発テロが起こった際、いつも祈る次の祈りを祈ってから出かけていき、最後は世界貿易センタービルの崩壊に巻き込まれ召天されました。

主よ、あなたが行かせたいところに 連れていってください。/あなたが会わせたい人に会わせてください。/あなたが語りたいことを示してください。
わたしがあなたの道をさえぎることがありませんように

荒尾教会ではいま礼拝の祝祷でこの祈りを祈るようにしています。21年前のマイカル神父の祈り、非暴力への祈り、平和への祈りをここに重ねていきましょう。(有明海のほとり便り no.277)

1/100に届く保育を

昨日は学校法人熊本キリスト教学園の職員研修でした。荒尾めぐみ幼稚園と霊泉幼稚園は2013年から同じ学法ですが、両園の園長交代なども重なり、ともに学び交流する場をつくることが出来ていませんでした。そのため、昨年から8月に合同研修を始めました。けれどもあいにくのコロナ禍で、Zoomを使ったオンライン開催となりました。

講師は三浦啓牧師園長(桐生東部教会・高砂保育園)でした。札幌のご出身でHさんとは小さい頃から地区で一緒に過ごし、3・11発災後は何度もわたしがいた被災者支援センター・エマオにボランティアに来てくれました。また、園運営で悩んだ時にいつも相談に乗ってくれる親友です。

リモートでしたが、三浦牧師の「熱さ」をそれぞれがしっかりと受け止めることが出来ました。今回のテーマは「保育観」。どんなキリスト教保育をわたし達が願っているのか問われ考えました。特に響いたのは次の言葉です。

保育観を大切にするのなら、1/100に届く保育をすること。99を追わない。必ずその1が次第に2、3、10に繋がっていく。良いもの(保育)は必ず伝わる、求められる!

早期教育や〇〇式、あるいはキレイな園舎・制服を安易に求めるのではなく、先生たちが子どもたち一人ひとりを本当に大切にしていることに自信を持ち、またさらに研鑽しつつ歩んでいこうと勇気をもらいました!

いま少子化の波がどんどん押し寄せる中で、「経営」責任がある園長としては新入園児が来てくれるだろうかと不安で一杯です。「分かりやすい〇〇」への誘惑は常にありますが、目の前の1人を大切にすることこそがキリスト教保育の原点であること、それを実現してくれている先生たちを祈り・支え温かさを発信していくことが牧師園長の仕事なのだと気付かされました。(有明海のほとり便り no.275)

イエスは中心にではなく

マルコによる福音書10章46〜52節

街外れで道端に佇むバルティマイはイエスに、そしてイエスはバルティマイに出会いました。なぜ彼は街外れの道端にいたのでしょうか?そこにしかいることが出来なかったからです。彼は目が見えず、極貧の生活でした。日々の食事にも困っていました。だからこそ、道の真ん中ではなく道端へ、街の中心部・繁華街ではなく、街外れにしかいることが出来なかったのです。

よく、どこかの国の首相が別の国の首相を表敬訪問することがあります。そういった際、場所はその国の首相官邸だったり、あるいは超一流のホテルだったりします。中心と言われるような所にセットアップされているのです。しかし、聖書に描かれる出会いは中心では行われません

街の外れで、道端で、イエスとバルティマイは出会うのです。私たちは街の外れで、道端で、イエスに出会うのです。街の外れに、道端に気づき出会う感性を、私たちは忘れてしまってならないのです。そこでこそ出会える神さまの息吹があるからです。

しかもバルティマイには、通りがかる一行のリーダーが、「ナザレのイエス」だと知らされます。マルコ福音書の中によく出てくるキーワードです。ナザレは、イエスの生まれ故郷ですが、誰ひとりとして救い主がここから出るなんて思いもしなかった田舎町です。「東京」でも、「大阪」でも、「博多」でもありません。むしろ「荒尾」や「長洲」です。それがナザレです。

でも、そこからイエスは生まれ、福音を分かち合っていくのです。どこか遠くにいるのではない、ここ、荒尾市増永にイエスはおられるのです。私の家に、皆さんの家にイエスはおられます。自分のことで一杯の心の中に、このイエスを受け入れ信じること。ガリラヤ地方を隈なく歩き回り、沢山のバルティマイたちと出会ったイエスの愛・平和を共に分かち合っていきましょう。(有明海のほとり便り no.274)

8/21主日礼拝→家庭礼拝へ

キリストの平和がありますように。

新型コロナウイルスに感染されたお一人お一人に、そのご家族に神さまからの癒やしと守りとがあることをお祈りしましょう。

いまも第7波がものすごい勢いで拡がっています。

そのため、8月21日(日)を家庭礼拝といたします。

8月28日(日)に関しては、三浦啓牧師をお招きした礼拝を予定通り行いますが、参加が難しい方のためにハイブリッドで行いたいと思います。

9月4日(日)に予定していた、山鹿教会での合同礼拝は10月2日(日)に延期しました。

私たちキリスト者の信仰生活にとって礼拝は欠かすことの出来ないものです。たとえ聖書を読むことだけでも、たとえ心の中で祈ることだけでも、神さまは必ず共にいて下さいます。

皆さまに祝福と守りがありますことをお祈りしています。

2022年8月18日 荒尾教会牧師 佐藤真史

中田善秋と宣撫工作

終戦=「敗戦」から77年を迎えます。

『BC級戦犯にされたキリスト者―中田善秋と宣撫工作―』(小塩海平著)を読み衝撃を受けました。「宣撫工作」とは「被占領地住民が敵対せず協力するよう住民を懐柔する行為」(p.2)です。キリスト教会は、「福音宣教」の名の下で植民地政策に協力し「改宗」させ、そのためには暴力も辞さなかった歴史があります。日本のキリスト教会においても、日本の植民地政策に積極的な協力をしてしまった歴史があります。

その一つが、1941年26名のキリスト者たちが「宣撫工作班」としてフィリピンに派遣されたという事実です。その中に、当時まだ神学生で英語が堪能であった中田善秋(旧・日本基督教会)がいました。計画は1年でしたが中田だけは「日比両国のかけ橋になりたい」(p.46)と願い、残りました。けれども、戦局が泥沼化していく中で、日本軍は「一般住民の虐殺を行うようになっていった」(p.47)のです。1945年2月24日「サンパブロ事件」が起きます。日本軍はサンパブロ教会に集めた中国人500余名、フィリピン人80余名を教会裏で殺害しました。中田は計画時から反対しますが強行される中で、教会からフィリピン人10余名と華僑協会の元会長を助け出しました。

けれども戦後、この事件に関するBC級戦犯として重労働30年の刑が言い渡されました。直接的な指導者たちが偽り自己保身に努め刑を逃れる中で、中田は日本が犯した罪を正面から受け止めていったのです。10年後、中田は釈放されますが、教会に戻ることはありませんでした。

私は、あの中華系の住民たちが殺されることを確かに肯定を心の中でしていたと、はっきり認めざるを得なかったのだ。私はうなづいていたのだった。その意味において、確かに「有罪」と云われても仕方がない。(p.86) 

わたし達は、このような歴史を繰り返してはなりません。(有明海のほとり便り no.273)

うふざと教会の働きを覚えて

終戦=「敗戦」から77年を迎えます。「キリストの平和」とはますますかけ離れていくような日本社会であり、そして世界です。けれども、そのような中でも「キリストの平和」を絵空事とはせず、真剣に祈り、聖書を読み、そして仕える働きを続けているキリスト者たちがいます。

その一人が、うふざと教会(沖縄)の島しづ子牧師です。しづ子牧師は農村伝道神学校の大先輩で、長く名古屋の教会と障がい者通所施設の働きを担われ、2年前に沖縄へ72歳で赴任されました。うふざと教会は、「新基地建設反対行動は牧師の公務」としているそうです。「新基地」とは、沖縄の辺野古湾で進められている米軍基地建設工事を指します。

わたしも二度、辺野古を訪れたことがあります。とても美しい海岸で、物々しい警備員たちや海上保安庁の職員たちが、抗議行動を人的・物的に押しつぶす姿があり、心を痛めました。辺野古にせっかく来たので、ぜひ一度訪問したいと願い向かったのが、うふざと教会でした。当時牧会されていたY牧師も、辺野古に通い、抗議活動に参加されていました。驚いたのは、うふざと教会があるのは、辺野古から車で1時間もかかるところにあるということです。わたしはてっきりもっと近い場所にあると思っていたのです。

訪問したのはちょうど祈祷会の時でした。小さな教会の一室で、3名ほどの信徒の方たちとイザヤ書を読み、牧師と福音を分かち合い、熱心に祈り合う姿がありました。

「人の目」から見たらそれは小さな祈りの姿かもしれません。けれども、イエス・キリストはガリラヤの村々でこのように生きたのではないかと、深く心に残った経験でした。

真剣に祈り、聖書を読み、そして「キリストの平和」に仕えていきましょう。(有明海のほとり便り no.272)

イエスの「非暴力」

「イエスは「暴力の時代」に生きた」

 先日、九州教区反核・平和セミナーがオンラインであり、講師の志村真教師(飯塚・直方教会)が、講演の冒頭で指摘したことです。自分の認識を新たにされました。

・前63年からのローマ帝国支配、前57年の総督ガビニウスによるナザレ近郊タボル山で約1万人の虐殺、前4年のセフォリス(ナザレから6km)の破壊で約2000人の十字架刑死を、イエスは間近で聞いていた。
・圧倒的なローマ帝国に対して、ゲリラ戦やテロが展開されている、そのような暴力の渦中にイエスは生まれ、育ち、そして宣教の旅路へと出かけていった。
・イエスのメッセージは「暴力」でも「服従」でもなく、「非暴力」に徹している。
・「レギオンにとりつかれた人の癒やし」(マルコ5章)には、軍事用語が使われており、戦争被害による戦争性精神疾患だったと考えられる。イエスの癒やしの多くは、暴力被害者の癒やし。
・「バルティマイの癒やし」(マルコ10章)において、バルティマイは故意の身体的毀損と奴隷的使役である可能性がある。「人々が叱りつけて」とあるように、凄まじい差別・暴力を受けいていたバルティマイがイエスとの出会いから癒やされ、そしてエルサレム入場最後の弟子としてイエスに従った。
・「あなたの敵を愛せよ」(マタイ5章)を巡って、当時のユダヤにとっての敵は①サマリアおよびサマリア人、そして②ローマ帝国およびローマ人だった。イエスはサマリア人へのヘイトスピーチを即座に叱り(ルカ9:55)、「善いサマリア人」(ルカ10章)を通してユダヤ人の偽善性を問う。また、ローマ兵の百人隊長の部下も癒やす(ルカ7章)。

2000年経ったいまも「暴力の時代」が続いている中で、イエスが指し示す「非暴力」のメッセージに耳と心を開いていきましょう。(有明海のほとり便り no.271)

アリス・フィンレー宣教師

鹿児島加治屋町教会より『敬愛幼稚園創立100周年記念誌 光のこどもたち』をいただきました。1916年の創設ですから、荒尾めぐみ幼稚園よりもずっと古い歴史のある教会です。いくつも深い共感を覚える文章に出会い、キリスト教保育という同じ根っこに気付かされました。

記念誌の中で、特に興味深かったのが創立者アリス・フィンレー宣教師に関するものです。フィンレー宣教師は1878年アメリカ・オハイオ州で生まれ、1910年31歳で鹿児島に米国メソジスト教会からの宣教師として遣わされました。1916年に敬愛幼稚園が始まった時には園舎もなく、フィンレー宣教師が住む宣教師館で5名の園児を預かることから始まったそうです。以来、文字通り献身的に敬愛幼稚園と教会に仕え、1940年に休暇でアメリカへ一時帰国しますが、半年後に開戦した太平洋戦争のため日本への再入国が出来なくなってしまいました。アメリカでいくつかの教会や施設に遣わされますが、それぞれの地で日本のことを祈り伝えていかれたそうです。卒園生からは「私達のお母さま」と親しまれました。1959年80歳で召天されました。Kさんという当時の卒園生が朝日新聞の記事に次のように記しています。

先生はとても優しい方で、毎朝、私たちが登園すると、高い背をかがめて一人ひとりに声をかけ、ぎゅっと抱きしめてくださいました。…育ち盛りの子どもたちのために、すきやき会をされたり、元気がない女の子には添い寝をしてあげたり。温かい母のような振る舞いは、多くの人の心に残っています。…30代のころに結核を患い指宿で療養していた私に、当時の日本ではなかなか手に入らなかったストレプトマイシンを米国で入手しておくってくださいました。

フィンレー宣教師は鹿児島の地で、神さまの愛を分かち合う働きをされたのです。(有明海のほとり便り no.270)