『人新世の「資本論」』

冬休みに積ん読していた本に、ようやく手を付けることが出来ました。その一冊が斎藤幸平著『人新世(ひとしんせい)の「資本論」』です。2020年9月に発行されて以来、すでに40万部を突破したベストセラー書籍で、新書大賞2021を受賞しました。いわゆるベストセラーにはあまり関心がないのですが、マルクスの『資本論』についてであり、知り合いからの紹介もあり購入していたのです。新書なのでページ数はそれほど多くはありませんが、一つ一つのトピックが新鮮で深く、読み込むのに時間がかかりました。

「人新世」とは「人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代」(p.4)を指します。産業革命以降の目覚ましい経済成長が生みだしたこの「人新世」で飛躍的に増えた二酸化炭素が、地球温暖化などの気候変動を巻き起こしています。それはもはや無視して通り過ぎることは出来ず、むしろいますぐに対応しなければ、「人類」全体の存続の危機にさらされているのです。この気候変動への対応として「SDGs(持続可能な開発目標)」を国連などは掲げていますが、著者はそれでは対応として不十分であり、むしろ手遅れになることを指摘します。そして、対案として著者はマルクスの『資本論』を参照するのです。しかも、ここが特に大切なのですが、これまでのマルクス主義の焼き直しではなく、「150年ほど眠っていたマルクスの思想のまったく新しい面を『発掘』し、展開」(p.7)していくのです。それが、中国や旧ソ連の共産主義とはまったく違う、「脱成長コミュニズム」という晩期マルクスが到達したものでした。

資本主義はもはや限界に来ています。その只中で、神の国を建設していくために、様々な知恵を集め、祈りを集めていく必要があることを、この本を読んでつくづく考えさせられる冬休みでした。(有明海のほとり便り no.242)

この風景、この土地を愛して

2017年春に荒尾に赴任する際、それまでにお世話になった方たちに感謝メッセージをメールで送りました。しばらくして、真壁巌牧師(当時・相愛教会、現・西千葉教会)より、お返事をいただきました。そこには、Google mapで荒尾教会がある場所を調べたら、有明海が見渡せる場所にあることが分かったこと。美しいその風景の中で、土地を愛し、真史くん(牧師になるずっと前からお世話になっているのでこう呼んでくれています)らしく、牧会・宣教の業に励めることをお祈りしていることが、綴られており、とても嬉しかったことを覚えています。

先日、ある面談を園で終えてふと外を見ると、美しい夕焼けが広がっていました。対岸の雲仙や諫早、そして有明海の風景を見て、神さまが創造した「すべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創1:31)と言われた「良さ」が凝縮していることを思いました。そして冒頭の真壁先生からのメールを思い出したのです。随分長いこと、この美しい光景を忘れてしまっていたことを反省しました。

毎年与えられる様々なチャレンジ(挑戦・課題)を前に、この5年間は足し算ばかりでやってきました。特に両園において待ったなしの差し迫った状況が広がる中で、きめ細やかな保育の実現、丁寧な保護者対応、教職員との温かい関係づくりを出来るだけ心がけて来ました。その結果、様々なことが出来るようになったことは事実ですが、どうも牧師・園長・理事長として忙しくなり過ぎています。2022年は、引き算も真剣に検討しなければならないと感じています。 2021年も皆さんのお祈りに支えられました。この場を借りて感謝を申し上げます。

2022年が神さまの祝福に溢れた年となりますように。(有明海のほとり便り no.241)

天国ではなく地獄の中に

先日のニュースで、新型コロナウイルスの影響によって、貧困に陥った子どもたちが世界で「1億人」増えたとありました。とてつもない人数に、想像も尽きませんが、日本における全人口1億2530万の内、15歳未満は1492万5千人なので、おおよそ日本にいる15歳以上の人たちすべてに該当する「子どもたち」が、一気に貧困に陥ったと考えることが出来ます。それが子どもにどのような影響を及ぼすのか、私たちはここで立ち止まり考える必要があります。そして、本当にこのままでよいのか、これで神の国を実現できているのかを振り返りたいと願っています。

この日本でも新型コロナウイルスによる傷は広がっています。特に非正規雇用をはじめとする不安定な雇用環境で職を失った人たちも増えています。自死された女性たちの数も増加しています。そのような中で、札幌北部教会の久世そらち教師(教団副議長)が、ブログに次のように綴られていました。

数十年前、日本基督教団では「職域伝道」を掲げ、労働者の課題を担おうとしていました。そんな中で炭鉱での働きに携わった矢島信一牧師が、芦別で目のあたりにした炭鉱事故を報じ、「地獄化した様相は、炭鉱のみならず各方面で進行している。教会の使命と責任は天国ではなく地獄の中にある」と記しました。いま、まさしく「地獄化した」労働の現場に、教会の使命と責任があることを自覚すべきではないでしょうか。
救い主キリストの到来をまず知らされたのは、夜通し働いていた羊飼いたちであったことを思うのです。

「教会の使命と責任は天国ではなく地獄の中にある」という深いメッセージを、このアドベントのひと時、改めて胸に刻みましょう。(有明海のほとり便り no.240)

『宣教の未来 五つの視点から』

教団出版局より、『宣教の未来 五つの視点から』という本が出版されました。5名の方たちがまったく異なる視点で宣教について論じています。

実は先週教区の委員会があった際に、著者の一人である深澤奨教師(佐世保教会)から近々出ることを伺っていたので、早速読みました。深澤教師は「教会のダウンサイジングと持続可能性」というタイトルで、九州教区教会協力委員会(教会同士の互助を呼びかけ運用する)の働きを通して考えたことを綴られています。

能楽師の話しが紹介されていました。能楽師の世界では、師匠から笛を引き継ぎますが、すぐにいい音は鳴りません。何年も稽古を積み重ねてようやくいい音が鳴るようになります。鼓の革も「この革は今は鳴りません。でも、毎日打ち続けて50年経てば鳴り始め、一度鳴れば600年は使えます」と言われたりするそうです。

これは能の世界のお話しですが、教会においても全く同じだと思いながら読みました。今はまだ良く鳴らない笛や鼓のような教会が、九州にはたくさんあるのではないでしょうか。伝道を始めてから50年経っても、100年経っても、思うような福音の音色を町に鳴り響かせることができない。でも、鳴らないかと言って吹くこと打つことをやめてしまったら、それが鳴り始めることは絶対にないのです。いい音を出すのは100年、いや150年後かもしれません。もしかしたら、わたしたちの代では成し遂げられないのかもしれない。そうであってもあきらめずに、信じて吹き続け、打ち続ける。次の代に引き継いでいく。それができるように互いに支え合い続けるのが、わたしたちの互助の働きだと思うのです。(p.58-59)

荒尾教会のような小さな地方教会が、それぞれの地で福音を高く鳴り響かせる時を信じ、互助献金を捧げていきましょう。(有明海のほとり便り no.239)

創立75周年記念礼拝を終えて

創立75周年を迎え、先週は岩高澄(きよし)牧師を大阪よりお招きし無事創立記念礼拝を行うことが出来ました。礼拝には小平善行牧師もお越し下さり、愛餐会では丁寧なご挨拶をいただきました。

岩高先生を新大牟田駅にお送りした次の日、先生より御礼のメールをいただきました。

私にとっては、懐かしさと、旧知との出会いと、新たな出会い。
荒尾教会の今日の姿と佐藤先生の働き、75年の歴史。からだ一杯に感謝と喜びを頂いた3日間でした。

3年間という短い間だったにも関わらず、ものすごい熱意を持って荒尾教会・荒尾めぐみ幼稚園のために尽くされ、寝る間を惜しんでの日々でした。その頃に教諭として働かれた、Nさんのお話しを一緒に伺う機会がありました。すると涙ながら岩高先生との当時の出会いを語って下さったのが心に響きました。

また、最終日のインタビューを通して驚いたのは、岩高先生が目指された幼児教育も、小学校のような一斉保育ではなく、素材(遊具・環境)を整えて子ども自らが遊びを深めていく教育だったということです。子ども自らに育つ力があることを信じ、応答的・対話的に関わっていく保育は、いままさに注目されている保育ですが、元来キリスト教保育が願ってきたことです。なぜならキリスト教保育において、子どもたちは神の子(かけがえのない命)であり、豊かな賜物(タラント)を一人ひとりに授けて下さっているからです。岩高先生が始めていった保育は後に、小平善行牧師にも継がれていきますし、まさにいまのめぐみ幼稚園が目指しているキリスト教保育です。

最後に、記念礼拝の準備のために祈り多くのご奉仕をして下さった、教会員の方たちに心より感謝いたします。(有明海のほとり便り no.238)

岩高澄牧師(6代目、1971年春~1974年春)

岩高澄(きよし)牧師は、越生教会、東梅田教会、須崎教会を経て71年に荒尾教会に赴任。荒尾教会の後は、郵便局長を引き継ぎ、協力牧師として東梅田教会を支えました。先生より荒尾時代を振り返る文章を送って下さいました。

建物としては礼拝堂が主で、後方に三畳程の集会室と、側面に更に八畳程の部屋、それに隣接した職員室、ここで三歳児までの三クラスの幼稚園の業が行われていたのです…園児数が四〇名にも充たない中、三名の教諭は奉仕的な報酬でそれでも教育熱心な者ばかりです。それだけにこじんまりと母の会を中心に、家族的な雰囲気の幼稚園です。…自由保育、幼児期の発達を考慮した領域的対処教育、思い出すばかりですが、真剣に取り組んでいたのは事実です。…お母さん達の口コミは大変効きました。母の会が集めて来た願書で何と次年度の園児数が増えてしまったのです。

献身的な岩高先生たちの働きがあり、記録によると小平先生が引き継いだ時には100名以上の園児数になっていました。

私にとって或意味で一番充実した時期だったように思います。激しく、戦いのような三年間でしたが、遣り甲斐のある三年間でした。しかし、一段落ついた時期でもありましたから、もしかするとこの上は、私が傲慢になるので、神さまがストップをかけられたのかもしれません。…僅か三年で荒尾を去ることとなったのです。
教会は、私たちのために牧師館まで建てて下さり、今後に期待も寄せていて下さったのです。幼稚園でも、母の会や園児のご家族からどうして辞めるのかと、ある方は転任させないように陳情に行くなどと言われて…一所懸命断りを言ったことでした。私としても去り難い、心残りの思いがつのるばかりでした。

本日は、岩高先生を大阪よりお招きします。何よりもこの出会いをつくって下さった神さまに感謝する時としましょう。(有明海のほとり便り no.237)

樋口義也牧師(5代目・1966年春~1971年春)

樋口義也牧師は、64年神学校を卒業し、坪井教会伝道師また原水伝道所の主任者として過ごします。荒尾教会の後は、大阪相川教会に赴任されます。好善社の働きにも深く関われました。

教会は各聖日毎の御言葉によって立つことを純粋に信じ、ひたすら、説教の準備に多くの時間を用いました。一生懸命説教をしていたら、必ず、聞く耳を持つ人を増して下さる。という思いで、毎週の礼拝を迎えていました。…短い間ですが、若い伝道者を忍耐して、育てて下さったと感謝しています。
…当時の教会付属幼稚園は、無牧の影響で、園児20名にもとどかない、いつ閉園になっても不思議でない幼稚園でした。長老会でも、もし、伝道に不要なら、閉園してもかまわないという、意見も聞かれていました。私にも意見を求められましたが、荒尾市街から、かなり離れたところで伝道の使命を果たしていくには、幼稚園の働きは大きいと考え、めぐみ幼稚園の継続を決意いたしました。とは言え、園児募集の激戦区である荒尾では、駆け出しの若い牧師には、並大抵のことではありませんでした。…ほとんどの園は、スクールバスで送迎していましたから、めぐみは、私がキャロル360を運転して、朝夕の送り迎えをいたしました。

園の歴史の中で、園児20名にも届かない状況になったことがあったことを、初めて知りました。経営的にはどん底であったであろうことが、容易に想像できます。もしこの頃に閉園していたら、今とはまったく違う教会になっていたでしょう。そして岩高牧師や小平牧師が赴任することもなかったはずです。

何よりも伝道の使命として園が建てられていること、そしてどん底にも関わらず、懸命に、祈りながら、樋口先生そして先達たちが園の働きを担って下さったのです。(有明海のほとり便り no.236)

井柳福次郎牧師(4代目・1963年春~1965年春)

井柳福次郎牧師は、静岡県に生まれ、63年日本聖書神学校卒業し、荒尾、鳥羽、四日市教会を牧会し、02年隠退。2018年18年11月10日に87歳で召天されました。

神学生時代、宮崎姉と同じ東京の美竹教会で教会生活を許された私に、荒尾教会を奨めて下さったのは同姉と恩師浅野順一先生でした。先ず、夏期伝道ということになって、1962年の夏に荒尾教会を訪ねた時が最初の出会いでした。ドラマチック?な夏期伝道を体験して帰京し、荒尾教会に赴任しましたのは翌年の4月でした。三池炭鉱労働争議の直後のことでその波紋は教会にも伝わっていました。…その秋、三川鉱の爆発事故があり、458名の犠牲者が出ました。全国からのお見舞品の分配や、関係組合員の御宅にお伺いしました。
…こうした尽きぬ楽しい想い出の背後には教会に仕える諸兄姉の厚い祈りと支えがあったことを忘れません。独身時代の半年、そして結婚後、私共家族が主に仕える諸兄姉から暖かい交わりと励ましをたくさん頂きましたことを合わせて感謝致します。荒尾在任中に生まれた長男(基名)も今は結婚して聖和大学の教師として、妻みどりもささえられてこひつじ幼稚園にそれぞれ勤務しております。

荒尾教会創設に尽くした宮崎貞子先生は東京の恵泉女学園で1953年から1962年まで英語と聖書の教師として働かれました。当時出席されていたのが、著名な旧約学者でもある浅野順一牧師が牧会する美竹教会でした。そこに神学生として出席していた井柳先生が初任地として荒尾教会に遣わされたのです。新任教師として、三池炭鉱労働争議そして三川鉱炭じん爆発事故という激動の中での働きに困難は尽きなかったはずです。けれども何よりも教会員の「厚い祈りと支えがあった」こと、その多くの先達がすでに召されていることを召天者記念礼拝の今日、覚え繋いでいきたいと願っています。(有明海のほとり便り no.235)

田中従夫牧師(代務、1962年度・1965年度)

田中従夫牧師は、1954年春から1966年春まで、熊本坪井教会を牧会されましたが、その間、荒尾教会が無牧師になった際に代務教師となり支えて下さいました。

あのなだらかな丘の上の教会堂内外の光景が目に浮かびます。山羊が飼われていたこともありました。山羊の乳を食料の補給とされた牧師先生のご苦労も想い出します。私も時々御教会が無牧の時などに礼拝説教に招かれ参上したこともあります。…牧師をなさった方の中で唯今東洋英和女学院大学で宗教主任をしておられる浜辺達男先生には、東北で神学会の折にお逢いして、坪井教会と荒尾教会の合同の夏期修養会が楽しかったことなど話し合いました。四日市教会の牧師井柳福次郎先生には改革長老教会協議会で何度かお目にかかり、御健闘ぶりに接し嬉しく思いました。必ず年賀状を下さる工藤真二兄は熊大(花陵会)出身で、唯今も荒尾在住ですね。オーガニストをしておられ、唯今は高松在住の平尾昌子様(旧姓がどうしても想いだせません)が東北旅行の序に、仙台東一番丁教会の牧師館をお訪ねくださいまして、折柄の七夕祭りのご案内をしたこともありました。

田中先生はあくまで「時々」手伝っただけに過ぎないと書かれていますが、実際の働きにはもっと深く多岐に渡ったようです。坪井教会(現・錦ヶ丘教会)との夏の合同修養会は無牧期間中も続き、5代目の樋口牧師の際も聖餐式のために毎月のように通って下さったと記されています。経済的にも坪井教会からの大きな援助がありました。その背景には、田中先生をはじめとする坪井教会の方たちの祈りがありました。

田中先生が赴任された仙台東一番丁教会には、私が仙台にいた際に何度も訪問しお世話になった教会の一つです。

ここにも不思議な導きを感じています。(有明海のほとり便り no.234)

濱邊(浜辺)達男牧師(3代目・1957年~1962年)

濱邊(浜辺)達男牧師は、神学校を卒業してから荒尾、前原を牧会、1966年青山学院大学経営学部宗教主任、弘前学院大学教授、東洋英和女学院大学教授を経て2003年退職。茅ヶ崎堤教会を経て14年隠退。2020年4月15日87歳で召天されました。

卒業直後の未熟な私が担当した5年間はよき成果を上げたとはとても思えません。…地域に伝道を協力に進めるための力が色々の点で不足していましたが、何よりも指導者であるべき私の力不足が大きかったと、悔やまれてなりません。…1959年秋から炭住街を舞台に、指名解雇の是非をめぐって、炭鉱マンとその家族が、隣り同士で口論したり、相互に不信を増していった様子が、あちこちで見られるようになりました。…このように地元を襲った嵐のような社会問題が、未だ十年余の歴史しか経ていない荒尾教会にまで影響を与え、その争いが教会内部にまで浸透してくるのを防ぐのは全く不可能なことでした。
…このような嵐の中にあって、附属幼稚園の経営も大きな難問にぶつかっていました。園児募集がうまく行きませんでした。それでもやめなかったのには、教会員の頑張りがあったからだと思います。妻敬子も幼稚園教諭に加わりました。今日まで幼稚園が継続している様子をうかがい、あの時に細々ながらも続けて来て、本当によかったと思っています。・・・私にとって、荒尾教会での五年間の経験は、それ以後歩んできた私の人生を規定するほどの、大きな影響を与え続けてきました。

このように振り返る濱邊(浜辺)先生の文章を読み、荒尾教会・荒尾めぐみ幼稚園が通ってきた道が決して平坦で順風満帆ではないこと、むしろ葛藤の中をくぐり抜けてきたことに、私は気付かされました。けれども神さまは今日まで繋げられたのです。(有明海のほとり便り no.233)