1873年から1948年まで、2月11日は「紀元節」と呼ばれ、初代天皇とされる神武天皇が即位した記念日でした。学校では、日の丸掲揚、君が代斉唱、「御真影(天皇の写真)」の前での「教育勅語」、「皇室のありがたさ」等が説かれました。1966年、旧「紀元節」復古を願った政府によって今度は「建国記念の日」と再び制定されます。そのような中で、キリスト諸教会は抗議の意味をこめて、「信教の自由を守る日」としているのです。
いま子ども達が通う小学校では、当たり前のように「日の丸・君が代」が使われ、道徳も教科化されています。「イエス・キリストの神が私たちにとってただ一人の神」ですから、天皇は私たちにとって神ではありません。
そして日本学術会議が推薦した会員候補6名を菅首相が任命拒否するということが起こりました。このようなことが続くと何が起こるでしょうか?学者たちは、政治家の顔色を見て発言を余儀なくされていきます。学問の自由が明らかに損なわれていく時、戦前とまったく同じ道程を進むでしょう。
ナチス・ドイツに迫害されたマルティン・ニーメラー牧師の詩を噛み締めましょう。
ナチスが共産主義者を攻撃し始めたとき、私は声をあげなかった。 なぜなら私は共産主義者ではなかったから。 次に社会民主主義者が投獄されたとき、私はやはり抗議しなかった。 なぜなら私は社会民主主義者ではなかったから。 労働組合員たちが攻撃されたときも、私は沈黙していた。 だって労働組合員ではなかったから。 そして彼らが私を攻撃したとき、 私のために声をあげる人は一人もいなかった。
(有明海のほとり便り no.197)