うめきは神の耳には祈りとして届く

随筆家の若松英輔が「コヘレトの言葉」について、次のように語られている文を読み心打たれました。

「コヘレトの言葉」を一言でいうとしたら、私は「祈りの書」だと答えると思います。ここでいう「祈り」とは、決まった言葉を唱えることでも、自分の思いを語ることでもありません。旧約聖書には、神は人間のうめきを聞き逃さないという言葉が一度ならず出てきますが、私が考えているのは、うめきは神の耳には祈りとして届くということなのです。それは私たちの心よりも一段深いところから出てきている。それを神は見逃さない、という確信は新約聖書ではパウロの手紙を別にすれば、あまり語られないことです。(『すべてには時がある』pp.67-68)

「コヘレトの言葉」を「祈りの書」として捉えたことがなかったので、わたしはとても驚いたのです。

わたしたちの心は中々安定した大地のようなものにはならず、風が吹けば波が立ち、嵐が来れば濁流となるものではないでしょうか。さらにその心の奥底(魂と言ってもよいかも知れません)には、言葉にすることが出来ないうめきが確かにあります。そのうめきこそが、神さまには「祈り」として確かに届いているのです。いまこの社会・世界にはうめきが満ちていますが、神さまはそれを見逃さず受け止めて下さっているのです。その真実によって、わたしたちはこの社会を生き抜くことが出来るのではないでしょうか。

このようなメッセージ(福音)を必要としている方たち(わたし自身も含む)と、聖書を共に読み分かち合っていくことが荒尾教会の使命です。どうか2022年度が、福音の分かち合いを、さらに広め深めていく時となっていきますようにと祈ります。(有明海のほとり便り no.254)