預言者をめぐって

「預言者をこの世界は求めている」。そのように感じることが度々あります。日本社会も世界も、暴力と傷で溢れています。宗教も政治も行政も、それぞれが出来ることをなしているとはいえ、不十分なものであり、時に自らも過ちを犯すものです。旧約学者・並木浩一と文学者・奥泉光の対談で預言者を次のように描いています。

並木 預言者は国家機構の外に身を置く個人です。そして国家と社会、宗教のあり方に痛烈な批判を展開する。…彼らは社会を捨ててしまった宗教者ではない。この世界における社会倫理の実践を重視する者たちです。彼らは、民や指導者が社会倫理の実践を怠って不正を行うと、神の怒りと裁きを招くということを強烈な言葉で語った。

奥泉 これがすごいですよね。普通は神が怒るのは、儀式で失敗するとか、聖所を汚すとかですよね。しかしそうではない。問題にされるのは、要するに人々の日常の倫理です。日常のモラルが退廃していることが神の怒りの根拠となる。これは人類史上、画期的です。

並木 …現実を重視するということですね。それはまた現実のあり方の破壊、もしくは理想の完成としての将来に注目する姿勢をも生む。「終末論」という独特の見方を生み出した。その伝統の出発点が預言者にある。…「神の国」として、新約聖書にも引き継がれていくし、キリスト教に引き継がれていく。 (『旧約聖書がわかる本』pp.150-151) 

毎週の主の祈りでは、「御国が来ますように」、つまり「神の国が来ますように」と祈っています。預言者はモーセのような偉大な人物ばかりではありません。わたし達も小さな預言者としてこの祈りを分かち合っていきましょう。(有明海のほとり便り no.365)