水口教会・水口幼稚園

滋賀県にある水口(みなくち)教会は、2010年夏に教会実習で1ヶ月以上を過ごした教会です。谷村德幸牧師には以来とてもお世話になっていて、年に何回かは電話をしていたのですが、対面でお会いするのはとても久しぶりでした。附属の水口幼稚園は、遊び中心のキリスト教保育の中で、子どもたちが本当に伸び伸びと育っていました。

決して広くはない園庭には「冒険の森」と呼ばれる大型木製遊具があります。簡単には登れないようになっていて、子どもたちのワクワクや挑戦を引き出していました。はて、どこかで聞いたことがあるような…。

いま荒尾めぐみ幼稚園で大切にしている「遊び」「子ども主体」「あたたかいキリスト教保育」、どれもがこの水口幼稚園に詰まっていたのです!実習当時は、将来牧師園長をするとは想像していませんでしたが、水口幼稚園のキリスト教保育に衝撃を受けたことは間違いありません。7名の先生方が荒尾めぐみ幼稚園を訪問して下さいました。最後に礼拝堂で質疑応答の時間を取ったのですが、どの先生からも鋭い質問が出てきてとても刺激的でした。それだけ、先生方が真剣に保育に取り組んでいることが伝わってきました。

谷村牧師からは14年前の実習報告書をお土産に😁

牧師・教師とは何か、何を生活のたつきにしていくのか、という問題を考えてもらいたい。宣教(説教)はよく準備されたものだったが、その分、机(パソコン)に向かっている時間が長かったように感じる。地方の小規模教会で働くなら“説教最優先”という思い込みは卒業前に(いつか)問われなければならないように思う。

この課題を再確認しつつ、大きな励ましをいただいた再会でした。(有明海のほとり便り no.371)

『迷える社会と迷えるわたし』②

4月に紹介した精神科医・香山リカさんの著書です。特に後半に掲載されている賀来周一牧師(1931-)との対談が非常に興味深いものでした。賀来牧師は日本福音ルーテル教会の牧師であり、長くキリスト教カウンセリンセンターの働きにも従事され、日本におけるキリスト教カウンセリングの第一人者です。香山さんの鋭い質問に対し、賀来牧師が答えていきます。

教会の働きは大きく伝道と牧会に分けられます。大まかに言えば、伝道とは教会が社会に向かって呼びかける働きと言えるでしょうし、牧会とは社会が教会に求めることに応じる働きと言えます。(p.116)

宗教でしか解決できないような問題、例えば先ほど申し上げた死の問題、それに不条理の問題ですね。「あなたはもう大丈夫。自分のことは自分で主体的に責任が取れます」では済まされない世界が広がっていて、信仰の世界が必要となる。(p.120)

考えてわかる、目で見て実証する知の世界では答えがない問題に人はぶつかることがあるのです。それこそ「スピリチュアルペイン(痛み)」の問題でWHOが取り扱うべき問題の中に加えています。(p.145)

私はよく神学生に、牧師になったら絶望と徒労に慣れなさいと言うことがあります。生身の人間としてはそのようなところに身を置くことがしばしばあるからです。 (p.166) 

印象的だったのは、キリスト教カウンセリングはあくまでキリスト教の人間観・世界観に立った上でのカウンセリングであり、信仰を求めるものではないという点です。つまり、賀来牧師の分類で言えば、社会が教会に求めることに応じる牧会の働きだということです。そして、キリスト教保育も牧会の働きの一つなのだと気付かされました。(有明海のほとり便り no.370)

神さまが建てている

高校時代の恩師・F先生から電話が園にあったのだけれど、本当に様々なことが重なり折り返す余裕もなく過ごしていたら、再び電話をいただき、何回か互いに電話をかけあってようやく繋がった。

そもそもわたしが数学を専攻しようと思ったのも、京大卒で受験勉強に詳しい(?)F先生に医学部にいきたいと相談した際に、「毎日数学と英語をしたらいい」と教えられ、まずは数学からとコツコツ問題を解き始めたことが、面白さに気付かされたきっかけだった。数学の問題でドツボにハマった時に、F先生に話すと的確なヒントを与えられた。決して答えではなく、ヒントのみ。さらに数学は鉛筆ではなくボールペンでやったらいいとも教えられた。間違えを「消す」のではなく、しっかりと「受け止める」ことが大切だから。ある時、聖書を片手に握りしめながら、「卒業してもこれだけは、どこに行っても持っていってほしい。必ずあなたたちの支えになるから」と言っていた姿を、25年経った今でも折に触れて思い出す。

そんなF先生との電話での話題は尽きない。その電話口で、「この独立学園が神さまから必要とされなくなったら潰れてもいいんだよ」とサラッと言われ、久しぶりに原点に呼び戻された。もちろん誰一人として学園が潰れていいなどと思っていないし、F先生自身、繋いでいくために日々祈り、懸命に教育に携わっている。けれども、学園を本当の意味で導き繋いでいっているのは、人間ではなく神さまなのだ。そこを見誤ってしまうと、神ならぬものを神にしたり、人が神になってしまう。十戒で示された本当の自由を失ってしまう

この荒尾教会・荒尾めぐみ幼稚園、そして霊泉幼稚園も、神さまが建てていることを忘れてはならないと、再確認することが出来た。(有明海のほとり便り no.369)