1969年

「高倉徹総幹事日記②」と題された連載が『時の徴(第166号)』という機関誌に掲載されていました。日記資料を整理しかつ的確な解説を入れているのは、戒能信生牧師(千代田教会)です。戒能牧師は日本キリスト教史の研究者・教育者でもあり、農村伝道神学校で学んだ恩師の一人です。

高倉徹(1916-1986)というのは、著名な牧師・神学者です。日本神学校を卒業後、上原教会、岩国教会、日本キリスト教団総幹事農村伝道神学校校長、阿佐ヶ谷東教会を牧会後、隠退されました。特に高倉牧師が教団総幹事をされた時期は学生運動の盛り上がりと共に、教団全体も問われたときでした。日記を読むと、教団総幹事として全国を駆け回りながら、毎日誰かしらと議論を交わし、日曜日には招かれた礼拝で説教し、ほとんど休む間もなく過ごしていたことが伝わってきます。特に学生・青年たちとの対話を大切にされていた様です。驚いたのは、そこに荒尾教会関係者の名前が出てきたことです。1969年5月17日(土)の日記に、次のように綴られていました。

九時五〇分からの青山学院の特別礼拝。三〇分足らずであったが、大学の問題と関連づけながら訴えるところあったと思う。浜辺[達男]君と昼食を共にし、久し振りにゆっくり語り合うことができた。

濱邊(浜辺)達男牧師が、神学校を卒業してから最初に赴任したのが、この荒尾教会・荒尾めぐみ幼稚園だったのです。1957年から1962年まで牧会され、前原教会、そして青山学院大学へと移っていかれました。濱邊牧師と高倉総幹事がそこで何を語り合ったのかは分かりません。けれども、荒尾での日々もその対話に刻まれていたのではと想像するのです。(有明海のほとり便り no.420)

◯◯ファースト?

参議院選挙が近づいてきました。選挙に参加したくとも出来ない隣人がいます。選挙権がある方は、しっかりと選挙権を行使していただきたいと願っています。

アメリカだけのことかと思っていたら、この日本においても、「ファースト(一番)」を強調する政党・政治家が出てきています。それに対して、ある候補者は「人間にファーストもセカンドもない」と批判したとネットニュースで知り、共感しました。

2000年前、人間を「汚れ」と「清浄」で分断だらけの社会の中で、イエスはその境界線を軽々と越えていきました。「キリストの愛の『広さ』『長さ』『高さ』『深さ』がどれほどであるか」(エフェ3:17~19)を週ごとに味わう時、誰かを「ファースト」にすることの誤りを感じざるを得ません。

けれども、「ファースト」を強調する政党が賛同を集めていることも事実です。格差がどんどん広がる中で、生活に余裕がなく苦しんでいる方たちの、「助けてほしい」「無視しないでほしい」という率直な思いの現れでもあります。しかし、「ファースト」を強調し、ある集団を優先することによって、格差が解消されず、むしろ新たな分断が生まれ、ますます格差が広がります。格差だけでなく、ヘイトや差別を助長してしまうでしょう。

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(マコ10:43-44) 

このように弟子たちに命じた、イエスさまのみ言葉にわたし達は立ち返り、神の国の建設を祈り求めてまいりましょう。(有明海のほとり便り no.419)