『文学の淵を渡る』

大江健三郎(1935-2023)古井由吉(1937-2020)による22年間におよぶ対談集です。たまたま本屋で見つけたこの対談集(新潮文庫)をだいぶ前に購入していたものの、中々読むことが出来ずにいました。

1年前から、毎朝読書の時間を持つようにしました。日中は業務に追われ読めないからです。神学・マネジメント・神学雑誌・Daily Devotional(聖書日課メッセージ)・幼児教育・数学と多岐に及びます。各分野1冊ずつ、時間がなければ最低1分と決めて、コツコツ読んでいます。大分自分の中で習慣化して、以前よりも本を読み進め、学べるようになりました。

ただし、この習慣には落とし穴があります。それは、自分が読みたいと思う小説などの文学作品を、自由に読み進める時間が中々取れなくなるということです。基本的に大好きな文学ですから、わざわざ習慣化するまでもなく、夜寝る前に読みます。けれども、早起きの習慣からすぐ眠くなり😁、しかも洋書だと読み終わるのに時間がかかるため、日本語の文学作品などが積読になりやすいのです。

久しぶりの和書にまず手にしたのが、この対談集です。ノーベル文学賞を受賞した大江健三郎の作品にはほぼすべて目を通しています。けれども、古井由吉(ふるいよしきち)のことは何も知らず、今回初めて出会いました。 二人ともほぼ同年輩で、かつ東大文学部出身ですが、フランス文学専攻の大江と、ドイツ文学専攻の古井による文学談義は、味わい深いものがありました。驚くのは、随所で二人が聖書やキリスト教文学・詩を引き出し論じていく姿です。二人とも教会に通うキリスト者ではありませんでしたが、文学の魂に潜っていく時に、聖書が欠かせないことを再確認することが出来ました。おすすめの一冊です。(有明海のほとり便り no.436)

死が持つ二つの意味を覚えて

我らの肉体の復活は(おわり)の日を待つべきである。(しか)し終の日の来るまで、死後の我らは無知覚・無力のまま横たわっているのではあるまい。我らの愛する者はその死後、我らの単なる記憶の中に住む言うには余りに力強き働きを、我らの間に、又世に対して為しつつあるではないか。彼らの現実的の働きは、死後に於いて却って生前よりも強きものがある。それは一層純なるものとなったからであろう。
矢内原忠雄「死についての思ひ」(若松英輔『亡き者たちの訪れ』より)

矢内原忠雄(1893–1961)は戦後東大総長を担った経済学者であり、同時に内村鑑三の影響を強く受けたキリスト者でした。若くして両親を亡くした経験が、矢内原をキリスト教信仰へと導くきっかけとなったといいます。

キリスト教では死者を崇めたりするようなことはしません。偶像礼拝になるからです。また死後の世界は、神の領域であり、わたし達人間には到底推し量ることの出来ないものです。

けれども、肉体の死に終わることはありません。神さまは3日目にイエスさまを復活されたのです。肉体の死によって終わるような命ではない、永遠の命を、イエスさまを通して私たちに与えて下さったのです。そして肉体の死を迎えても、復活のイエスが確かにわたし達一人一人を包みこんでおられるのです。

また、愛する人の死は、それで終わりにはなりません。矢内原が指摘するように、「その死後、我らの単なる記憶の中に住む言うには余りに力強き働きを、我らの間に、又世に対して為しつつある」のです。

召天者記念礼拝では、特にこの二点を心に留めて、先達たちを覚え共に神を仰ぎましょう。(有明海のほとり便り no.435)