ありがとう!

「人生に悔いなし ありがとう!」

召天される日の午前中に、病床でMさんがホルダーに固定された紙に、書かれた言葉です。一週間前にご家族と話した際には、ICU病棟でしたが回復に向かっており、意識も回復し、さらには指先を使ってのコミュニケーションも出来ていると伺っていました。ICUから一般病棟に移られてすぐに病状が悪化され召されたそうです。ご本人はもちろんご家族にとっても急なことでした。しかし、いつかこんな時が来ることを、Mさんは薄々予感していたのでしょう。「ありがとう!」とご家族に向けて書き遺したのです。

Mさんは決して恵まれた生育環境ではありませんでした。生まれてすぐに実母が召され、妹も14歳の時に突然召されました。実父は、Mさんが小さい頃に再婚して家を出ていってしまい、祖父母に育てられました。さらには、14歳から10年間結核を患い入院生活を余儀なくされたのです。

けれども、まさにその入院中の19歳の時に洗礼を受けました。魂の孤独から一歩踏み出すことが出来たのです。以来、66年もの間、この荒尾教会の信徒として礼拝に出席し続けました。ご家族には何度も「教会葬でするように」と話して下さっていたそうです。

大切な教会の友を神のみもとへ送りました。また会えるその時を信じ歩んでいきましょう。Mさん、ありがとう。(有明海のほとり便り no.439)

『宙(そら)わたる教室』

(い)(よ)(はら)(しん)という作家による作品で、とても惹きつけられました。

東京・新宿にある定時制高校が舞台になっています。そこには様々な背景を持った生徒が集まってきます。年齢もバラバラです。

昼間は清掃業者で働く柳田岳人(21)は、不良グループと付き合いつつ、自動車免許を取るために通っている。文章問題が解けないことから「ディスレクシア」と呼ばれる学習障がいを抱えている。母親との関係に苦しみ起立性調節障害を抱え保健室登校を続けている名取佳純(16)。フィリピン人の母と日本人の父を持つ越川アンジェラ(43)。中学を出てすぐ集団就職したために、高校教育を受けに来ている元町工場経営者の長嶺省造(76)

この4人が新しく赴任してきた理科教師・藤竹叶(34)の呼びかけで「科学部」を作ります。最後には衝突実験装置を自作して、学会で発表しJAXAにも認められるのですが、そこに至るまでが一筋縄ではいきません。それぞれが抱えている課題が噴出して、一時は科学部解体の危機にまで至ります。

藤竹が何とか4人を集め、自分のこれまでの歩みを語ります。研究者として順調に歩んでいた中で出会った、日本の大学に根強くある「学歴重視による弊害」。科学(学問)はもっと多くの人たちに開かれていて、可能性に満ちていることを定時制高校で証明したかったのだと。そこから科学部が再び動き始めます。作品の中で最も変わった柳田の最後の言葉が胸に響きました。

藤竹の言ったことは正しかった。あそこには、何だってある。その気になりさえすれば、何だってできる。俺の居場所は、しんとした校舎に窓明かりが灯る、あの教室だ。(pp.281-282)

「その気になれば何だって出来る」ということを、子どもたちと分かち合い続けていきたいと願っています。(有明海のほとり便り no.438)

恐れではなく信じることを

1946年11月13日(水)、浅野順一牧師(美竹教会)松木治三郎牧師(熊本坪井教会)を招き、宮崎貞子さんご自宅にて初めての家庭集会を持ちました。18名の参加がありました。以来、松木牧師が月1・2回、熊本から荒尾まで来て下さり、貞子さん共々基盤を作っていったのです。

この79年間は決して順風満帆ではありません。どの時代を切り取っても、よくこれで持ちこたえることが出来たと、驚くことばかりです。何よりも先達たちの祈り・奉仕・献金・支え合いがあってこそです。そして、イエス・キリストの信仰が中心にあってこそ、荒尾めぐみ幼稚園共々歩むことが出来たのです。神さまに心から感謝しています。

昨日、本当に久しぶりに会堂のトイレ掃除をさせていただきました。普段は、礼拝・説教準備や役員会・理事会準備のために、会堂掃除まですることが出来ていません。けれども、会堂を掃除し、週報を折り、奏楽の練習をし、諸々の準備をして下さる方たちがいるからこそ、毎週の礼拝を守ることが出来るのです。地味でスポットが当たることはありません。けれども、そのような働きこそがこの79年の荒尾教会を支えてきたのです。

14日に、髙橋真人牧師(会津坂下教会)が62歳で召天しました。東北教区でとてもお世話になった大好きな先輩で、5日に電話したばかりでした。すでに緩和ケア病棟のベッドの上でしたが、涙ぐむわたしに向かって、むしろわたしを励ますように言われた言葉が耳にこだましています。

「真史、行き先が決まっているから怖いことはない。ただ、残念だし、寂しいんだ。夜寝る時、どうぞ明日、目覚めさせて下さいと祈ってる」

恐れではなく信じること。創立80年の歩みを、ここから、イエス・キリストと共に始めていきましょう。(有明海のほとり便り no.437)

『文学の淵を渡る』

大江健三郎(1935-2023)古井由吉(1937-2020)による22年間におよぶ対談集です。たまたま本屋で見つけたこの対談集(新潮文庫)をだいぶ前に購入していたものの、中々読むことが出来ずにいました。

1年前から、毎朝読書の時間を持つようにしました。日中は業務に追われ読めないからです。神学・マネジメント・神学雑誌・Daily Devotional(聖書日課メッセージ)・幼児教育・数学と多岐に及びます。各分野1冊ずつ、時間がなければ最低1分と決めて、コツコツ読んでいます。大分自分の中で習慣化して、以前よりも本を読み進め、学べるようになりました。

ただし、この習慣には落とし穴があります。それは、自分が読みたいと思う小説などの文学作品を、自由に読み進める時間が中々取れなくなるということです。基本的に大好きな文学ですから、わざわざ習慣化するまでもなく、夜寝る前に読みます。けれども、早起きの習慣からすぐ眠くなり😁、しかも洋書だと読み終わるのに時間がかかるため、日本語の文学作品などが積読になりやすいのです。

久しぶりの和書にまず手にしたのが、この対談集です。ノーベル文学賞を受賞した大江健三郎の作品にはほぼすべて目を通しています。けれども、古井由吉(ふるいよしきち)のことは何も知らず、今回初めて出会いました。 二人ともほぼ同年輩で、かつ東大文学部出身ですが、フランス文学専攻の大江と、ドイツ文学専攻の古井による文学談義は、味わい深いものがありました。驚くのは、随所で二人が聖書やキリスト教文学・詩を引き出し論じていく姿です。二人とも教会に通うキリスト者ではありませんでしたが、文学の魂に潜っていく時に、聖書が欠かせないことを再確認することが出来ました。おすすめの一冊です。(有明海のほとり便り no.436)

死が持つ二つの意味を覚えて

我らの肉体の復活は(おわり)の日を待つべきである。(しか)し終の日の来るまで、死後の我らは無知覚・無力のまま横たわっているのではあるまい。我らの愛する者はその死後、我らの単なる記憶の中に住む言うには余りに力強き働きを、我らの間に、又世に対して為しつつあるではないか。彼らの現実的の働きは、死後に於いて却って生前よりも強きものがある。それは一層純なるものとなったからであろう。
矢内原忠雄「死についての思ひ」(若松英輔『亡き者たちの訪れ』より)

矢内原忠雄(1893–1961)は戦後東大総長を担った経済学者であり、同時に内村鑑三の影響を強く受けたキリスト者でした。若くして両親を亡くした経験が、矢内原をキリスト教信仰へと導くきっかけとなったといいます。

キリスト教では死者を崇めたりするようなことはしません。偶像礼拝になるからです。また死後の世界は、神の領域であり、わたし達人間には到底推し量ることの出来ないものです。

けれども、肉体の死に終わることはありません。神さまは3日目にイエスさまを復活されたのです。肉体の死によって終わるような命ではない、永遠の命を、イエスさまを通して私たちに与えて下さったのです。そして肉体の死を迎えても、復活のイエスが確かにわたし達一人一人を包みこんでおられるのです。

また、愛する人の死は、それで終わりにはなりません。矢内原が指摘するように、「その死後、我らの単なる記憶の中に住む言うには余りに力強き働きを、我らの間に、又世に対して為しつつある」のです。

召天者記念礼拝では、特にこの二点を心に留めて、先達たちを覚え共に神を仰ぎましょう。(有明海のほとり便り no.435)