地区交換講壇・教区互助献金の意義

本日は熊本地区交換講壇です。熊本地区では長い間、交換講壇をすることが出来ませんでしたが、昨年ようやく再開しました。10年以上も交換講壇が出来なかった背景には、教師間・教会間の信頼関係の揺らぎがありました。

けれども、それから時が経ち、教師もほぼ入れ替わりました。その間、各教会は高齢化だけでなく、コロナ禍信徒の減少に直面しています。

メソヂスト(八代・熊本白川・武蔵ヶ丘)、組合(熊本草場町)、改革長老(錦ヶ丘・合志豊岡)、ホーリネス(熊本城東)などの旧教派の伝統を大切にしている教会も、荒尾教会のような「教団の教会」として立っている教会もある熊本地区です。教会一つ一つの伝統や信仰(神学)を尊重しつつ、同時に祈り支え合う地区になっていきたいと話し合い、とても久しぶりに再開した交換講壇なのです。この交わりと出会いを喜びましょう。

O牧師が牧会するM教会は教区謝儀保障を受給しつつ歩んでおられます。荒尾教会では教区互助献金を月定献金と同様に大切にしていますが、この互助献金がM教会はじめ必要な教会の謝儀保障に使われています。しかしそれは、「与える/受ける」といった二項関係ではありません。もしそれだけの関係であったら、謝儀保障を受けている教会が、むしろ熱心に互助献金を捧げていることを説明出来ません。また、M教会で行われているこども食堂、O牧師の教区・地区での様々な働き、そして何よりもその礼拝が、この熊本地区に欠けることが出来ないものです。わたしたちの十分とは言えない互助献金を、遥かにまさる大きな恵みがあるのです。教会として地区交換講壇・教区互助献金を大切にしていきましょう。(有明海のほとり便り no.430)

連帯の渦を大きくしたい

I牧師と最初に出会ったのは、2016年9月に仙台で開催した「みんなの伝道協議会」でした。『どこで誰とつながるのか III〜3・11 地震・津波・原発事故のただ中で〜』というテーマで行われました。わたしは事務局の一人として動き回っていたので、ゆっくりお話しする機会はありませんでした。

I牧師と再会したのは、昨年10月に開催された教団総会です。全国各地から400名近くの人が東京に集まる2年に一度の会議です。そこでI牧師は「常議員選挙を半数連記(信徒、教師共に7名連記)で行う議案」を提案されたのです。この議案には深い意義があります。

いま日本基督教団が直面する課題は大きく多岐に及び、のっぴきならない状況まで来ています。それにも関わらず、深い分断があり中々議論が進まず膠着状態に陥っています。打開するために必要なことは、互いの思いに耳を傾け、神さまの前で真剣に議論する場です。けれどもいま常議員選挙は全数連記になっており、6割のグループが常議員のほぼ全員の議席を占めてしまっているのです。この常議員会の構成メンバーをより豊かなものにするために、今井牧師は半数連記という議案を出されたのです。過去に何度も同様の議案が出ていますが、今回も6割の反対によって否決されました。根強い不信感、溝を痛感した教団総会でした。

しかし九州教区をはじめ地方では、教会間で連帯することによって、互いに支え合っています。教団レベルでは意見が異なったとしても、目の前の地域・地区における宣教においては、繋がっていけるのです。まずわたしたちが、この繋がりの渦を大きくしていきたいと願っています。(有明海のほとり便り no.429)

杖くんの生き方から

義弟のJくんと初めて出会ったのは、札幌で通い始めた札幌北部教会です。当時まだ中学生だったJくんとは、すぐに仲良くなり、礼拝後に一緒に遊ぶようになっていきました。人懐っこく明るい性格のJくんの周りにはいつも沢山の子どもたちがいて、公園で一緒に遊んだり、雪の降る冬は礼拝堂(?)でサッカーをしたり、思い出は尽きません。

高校は、わたしと同じ基督教独立学園に進学しました。卒業後、Hさんが携わったベトナム・フエでのストリートチルドレン支援活動にJくんも行ったり、様々な現場に出かけていきました。

沖縄・辺野古で米軍の新基地建設が強引に推し進められていることに心を痛め、名護市に移住し、地元の方たちやキリスト者と共に反対運動を担っていくようになりました。沖縄で暮らしていく間に、子どもに直接関わる仕事を始めていきます。いまでは資格も取得し、保育園と学童でダブルワークをしながら生計を立てています。そして地元の女性と出会い結婚し、5月には第一子の出産に恵まれました。先日は「First Family Gathering」と称して、両家族が集まりました。聞くと、Jくんは地元の区(町内会)に積極的に参加し、青年会などのメンバーになっていきました。そこで彼女のご家族(お父さんが長く区長をされている)と出会い、親しくなっていったそうです。先方のご家族が、北海道出身のJくんを、家族の一人として温かく迎え入れてくださっていることがヒシヒシと伝わってきました。

まったく知らない土地・文化・言葉の中で、自分から出かけていき出会いを広げていく生き方に、イエスさまの面影を感じた沖縄の旅でした。(有明海のほとり便り no.428)

ほっとしなけりゃ福音じゃない

8月23日に行った法人研修で、輿水基園長(阿久根めぐみこども園)がわたしたちに教えて下さった「おもしろいをおもしろがる」が胸に響きました。ここには、「子どもがおもしろがっていることを、一緒におもしろがれる保育者である」、「一人の保育者が見つけた子どものおもしろいを思わず伝えたくなる関係性がある」といった思いが込められています。このようなキリスト教保育を実践することが出来たとき、初めて保育の質が高くなっていくのだと思います。ただ単に放任する保育でも、惰性でする保育でもありません。そこには子どもたちはもちろん大人たち教職員の積極性が求められます。どのような「おもしろい」を、子どもたちが感じているのか?どうしたら、さらに「おもしろい」が広がり深まっていくのか?そのような問いかけを抱きつつ、大人もワクワクしながら園生活をつくっていきたいと願っています。

さて、わたしたちのこの荒尾教会で大切にしたいことは何でしょうか?もちろん、「おもしろいをおもしろがる」ような、イエスや聖書との出会いにワクワクする気持ちも大切にしたいことです。

わたしが3年間過ごした山形にある基督教独立学園は、内村鑑三の無教会の流れを汲む学校です。そこには、毎年様々な方たちが来校し、証しを聞かせてくれました。その一人が、独立伝道者・藤尾正人先生です。固くなりがちな聖書講話において、ユーモアに満ちた分かりやすいメッセージを覚えています。その藤尾先生が、「ほっとしなけりゃ福音じゃない」と度々語られました。眉間にシワを寄せてではなく、心からの深い安心「ほっと」を与えるのが、イエス・キリストの福音なのです。(有明海のほとり便り no.427)

野の花を見なさい

金曜日の朝。出発前に終わらせないといけない仕事で頭が一杯だった。そんな時に限って、登園してきたAくんがモヤモヤしている。自分が遊んでいるおもちゃに、友達が触れただけで手が出る。クラスで過ごすのが難しかったのだろう、しばらくするとE先生と一緒に他のクラスへ遊びに来ていた。しかし、そこでもまた大声で友達に怒りをぶつけ、果ては手を上げたり、ものを引っ張ったりしていた。Aくんを抱っこして、二人になれる部屋へ。しかし、カンシャクが収まらない…。Aくんも僕も汗だくになってきた。

モヤモヤしていない時のAくんは、とても優しいし、楽しく遊ぶことが出来る。そしてお手伝いをよくしてくれる。そのことを思い出して、「Aくん、正門を閉めるお手伝いをしてくれない?」と聞いてみる。すると、カンシャクが少し収まり、「うん、いいよ」と答えてくれた。Aくんご希望のおんぶで、二人で正門まで行く。この頃にはすっかりカンシャクも収まっていた。あーでもないこーでもないと二人で言いながら正門を無事閉めると、何だか園庭が僕らを呼んでいた。おんぶのままでお散歩をすると、トンボやバッタ、蝶(おそらく蛾😉)、さらには空の上の飛行機を見つけて嬉しそう。

このままおんぶでもいいけれど、Aくんはもっと自由に遊ぶことが出来ることを知っている僕は二人で木登りすることを提案した。最初はゆっくり、でも段々しっかりした動きで登り始める。難しい箇所も、試行錯誤の末、新たなルートを見つけた。登った先のAくんの笑顔は最高だった。

木や自然は僕らのモヤモヤを受け止め、癒やしてくれる。「野の花をよく見なさい」(マタ6:28)と言ったイエスの言葉を思い起こした。(有明海のほとり便り no.426)

「間違い」

先週のメッセージで八木重吉の「草にすわる」という詩を引用しました。この詩から、詩人・谷川俊太郎がさらに「間違い」という詩を詠んでいたことを知りました。

わたしの まちがいだった わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる

そう八木重吉は書いた(その息遣いが聞こえる)
そんなにも深く自分の間違いが 腑に落ちたことが私にあったか
草に座れないから まわりはコンクリートしかないから
私は自分の間違いを知ることができない
たったひとつでも間違いに気づいたら すべてがいちどきに瓦解しかねない
椅子に座って私はぼんやりそう思う
私の間違いじゃないあなたの間違いだ あなたの間違いじゃない
彼等の間違いだ みんなが間違っていれば誰も気づかない
草に座れぬまま私は死ぬのだ 間違ったまま私は死ぬのだ
間違いを探しあぐねて

谷川の詩を読むとき、わたしはどこまで己の間違い(罪)を分かっているのか、ほとんど分かっていないではないかと気付かされました。神さまの前で、分からないという謙虚さを持って歩んでいきましょう。(有明海のほとり便り no.425)

戦後80周年を迎えて

太平洋戦争そして植民地支配によって殺され、傷ついた命を覚えて祈りましょう。

この80年間、日本はどことも戦争を行っていません。そのことを評価しつつも、手放しで喜んでいいとは、とても言えない状況が広がっています。関連経費も含めた「防衛費」という名の軍事費予算が9兆9000億円にまで上がってきています。また、世界の軍事費の合計は約400兆円にまで膨らみ、「新たな軍拡の時代」に突入しています。

いまパレスチナのガザ地区ではイスラエルの攻撃が止むことがありません。さらにイスラエルはガザ地区への支援物資搬入を妨害し、その結果深刻な食糧不足が広がっています。ガザ地区での死者が6万1020人にもなっています。この数は、荒尾市と長洲町の人口に匹敵します。

また、特に栄養失調で死んだ方たちの内、約半数が子どもたちなのです。さらに、配給所の援助物資を求めて集まって来ていたガザ地区の人々が、イスラエル軍に攻撃されて、国連人権高等弁務官事務所によると、少なくとも1760人が殺害されたと発表しました。

戦争は、「殺してはならない」という神さまとの十戒に明らかに反するものです。戦争は、子どもたちの命を奪います。その構造は戦後80年経ったいまも変わっていないのです。(有明海のほとり便り no.424)

核をなくすために

8月15日を何と呼びますか?

韓国では「光復節」と呼び「独立記念日」としています。何からの独立でしょうか?もちろん、日本からです。では日本では何と呼ぶでしょうか?「終戦記念日」と呼んでいます。確かに長かった戦争がようやく終わった、その意味を噛みしめる言葉として「終戦」は相応しいかもしれません。けれども、「加害者としての日本人」という反省に立つ時、「敗戦記念日」と呼ぶ方が、意味があるのではと考えています。

ノーベル平和賞を受賞した被団協が「被爆80年声明」を発表されました。

広島・長崎に原爆が投下され、人類が核時代に入って80年。…今や、被爆者健康手帳所持者は10万人を割り、平均年齢は86歳を超え、残された時間は少なくなりました。一方で、核リスクは極限に達し、科学者が警告する「世界終末時計」が終末まで89秒とこれまでで最短時間を示すなど、かつてない危機に直面しています。…、「唯一の戦争被爆国」を自称する日本政府の役割が不可欠ですが、同条約の締約国会議へのオブザーバー参加さえも拒否。防衛費を増大し、有事を想定した日米演習に核使用を求めるに至っては、「核共有」へ進む危うさがぬぐえません。国是の非核3原則の破壊、「核なき世界」への逆行を到底、許すことは出来ません。…私たちは、核兵器が人間とは共存できないことを、命ある限り訴えてまいります。国民と世界の皆さん、平和国家の道を確かにして人類の危機を救うため、ともに核兵器も戦争もない人間社会を求めてまいりましょう。

核兵器はもちろん原子力発電を含め核が人間とは共存できないことを、歴史が示しています。被団協の方たちの訴え・祈りをわたし達も共にしていきましょう。(有明海のほとり便り no.423)

「おばあちゃんの歌」

終戦から80年を迎えます。キ保連熊本地区園長会である先生が、「おばあちゃんの歌」を紹介してくれました。6月23日沖縄慰霊の日に戦没者追悼式で、城間一歩輝さん(小6)の詩です。

…一年に一度だけ おばあちゃんが歌う「うんじゅん わんにん 艦砲ぬ くぇーぬくさー」 泣きながら歌っているから悲しい歌だと分かっていた 歌った後に「あの戦の時に死んでおけば良かった」と言うからぼくも泣きたくなった

…五歳のおばあちゃんが防空壕での歌を歌い 「艦砲射撃の食べ残し」と言われても
生きてくれて本当に良かったと思った
おばあちゃんに 生きていてくれて本当にありがとうと伝えると
両手でぼくのほっぺをさわって
「生き延びたくとぅ ぬちぬ ちるがたん」生き延びたから 命がつながったんだね
とおばあちゃんが言った 八十年前の戦争で おばあちゃんは心と体に大きな傷を負った
その傷は何十年経っても消えない
人の命を奪い苦しめる戦争を二度と起こさないように
おばあちゃんから聞いた戦争の話を伝え続けていく
おばあちゃんが繋いでくれた命を大切にして 一生懸命に生きていく

約20万人もの尊い命が奪われた沖縄戦。せっかく生き残った人たちに対して、辛い言葉を投げかけられたことがあったのです。2000年前の十字架を覚え続けるキリスト者として、沖縄戦の歴史、広島・長崎の歴史、日本による植民地支配の歴史、その一つ一つの十字架を覚え続けていきましょう。(有明海のほとり便り no.422)

排外主義に対峙する

参議院選挙です。選挙権のある方は、しっかり投票権を行使していただきたいと願っています。人間はたった0.5%の塩分で塩味を感じ始めるそうです。「地の塩」(マタ5:13)として、その投票は微力でも無力ではないはずです。祈るだけでは神の国、神の平和は実現しません。けれども、祈らなければ神の国、神の平和は実現しないでしょう。

「参議院選挙にあたり排外主義の煽動に反対するNGO緊急共同声明」が先日出されました。わたしの父が事務局を担う「外国人住民基本法の制定を求める全国キリスト教連絡協議会(外キ協)」が呼びかけ団体の一つとして名を連ね、賛同団体は1143団体にも上りました。賛同団体には日本キリスト教団・教区・諸団体だけでなく、各個教会も含まれています。

…参議院選挙でも「違法外国人ゼロ」「外国人優遇策の見直し」が掲げられるなど、各党が排外主義煽動を競い合っている状況です。政府も「ルールを守らない外国人により国民の安全安心が脅かされている社会情勢」として「不法滞在者ゼロ」政策を打ち出しています。
 しかし、「外国人が優遇されている」というのは全く根拠のないデマです。日本には外国人に人権を保障する基本法すらなく、選挙権もなく、公務員になること、生活保護を受けること等も法的権利としては認められていません。医療、年金、国民健康保険、奨学金制度などで外国人が優遇されているという主張も事実ではありません。

イスラエルの民はエジプトで「外国人」であり奴隷でした。神さまは一人ひとりをかけがえのない命として創り、救い出して下さった。この出エジプトを信仰の核に置くキリスト者として歩んでまいりましょう。(有明海のほとり便り no.421)