排外主義に対峙する

参議院選挙です。選挙権のある方は、しっかり投票権を行使していただきたいと願っています。人間はたった0.5%の塩分で塩味を感じ始めるそうです。「地の塩」(マタ5:13)として、その投票は微力でも無力ではないはずです。祈るだけでは神の国、神の平和は実現しません。けれども、祈らなければ神の国、神の平和は実現しないでしょう。

「参議院選挙にあたり排外主義の煽動に反対するNGO緊急共同声明」が先日出されました。わたしの父が事務局を担う「外国人住民基本法の制定を求める全国キリスト教連絡協議会(外キ協)」が呼びかけ団体の一つとして名を連ね、賛同団体は1143団体にも上りました。賛同団体には日本キリスト教団・教区・諸団体だけでなく、各個教会も含まれています。

…参議院選挙でも「違法外国人ゼロ」「外国人優遇策の見直し」が掲げられるなど、各党が排外主義煽動を競い合っている状況です。政府も「ルールを守らない外国人により国民の安全安心が脅かされている社会情勢」として「不法滞在者ゼロ」政策を打ち出しています。
 しかし、「外国人が優遇されている」というのは全く根拠のないデマです。日本には外国人に人権を保障する基本法すらなく、選挙権もなく、公務員になること、生活保護を受けること等も法的権利としては認められていません。医療、年金、国民健康保険、奨学金制度などで外国人が優遇されているという主張も事実ではありません。

イスラエルの民はエジプトで「外国人」であり奴隷でした。神さまは一人ひとりをかけがえのない命として創り、救い出して下さった。この出エジプトを信仰の核に置くキリスト者として歩んでまいりましょう。(有明海のほとり便り no.421)

1969年

「高倉徹総幹事日記②」と題された連載が『時の徴(第166号)』という機関誌に掲載されていました。日記資料を整理しかつ的確な解説を入れているのは、戒能信生牧師(千代田教会)です。戒能牧師は日本キリスト教史の研究者・教育者でもあり、農村伝道神学校で学んだ恩師の一人です。

高倉徹(1916-1986)というのは、著名な牧師・神学者です。日本神学校を卒業後、上原教会、岩国教会、日本キリスト教団総幹事農村伝道神学校校長、阿佐ヶ谷東教会を牧会後、隠退されました。特に高倉牧師が教団総幹事をされた時期は学生運動の盛り上がりと共に、教団全体も問われたときでした。日記を読むと、教団総幹事として全国を駆け回りながら、毎日誰かしらと議論を交わし、日曜日には招かれた礼拝で説教し、ほとんど休む間もなく過ごしていたことが伝わってきます。特に学生・青年たちとの対話を大切にされていた様です。驚いたのは、そこに荒尾教会関係者の名前が出てきたことです。1969年5月17日(土)の日記に、次のように綴られていました。

九時五〇分からの青山学院の特別礼拝。三〇分足らずであったが、大学の問題と関連づけながら訴えるところあったと思う。浜辺[達男]君と昼食を共にし、久し振りにゆっくり語り合うことができた。

濱邊(浜辺)達男牧師が、神学校を卒業してから最初に赴任したのが、この荒尾教会・荒尾めぐみ幼稚園だったのです。1957年から1962年まで牧会され、前原教会、そして青山学院大学へと移っていかれました。濱邊牧師と高倉総幹事がそこで何を語り合ったのかは分かりません。けれども、荒尾での日々もその対話に刻まれていたのではと想像するのです。(有明海のほとり便り no.420)

◯◯ファースト?

参議院選挙が近づいてきました。選挙に参加したくとも出来ない隣人がいます。選挙権がある方は、しっかりと選挙権を行使していただきたいと願っています。

アメリカだけのことかと思っていたら、この日本においても、「ファースト(一番)」を強調する政党・政治家が出てきています。それに対して、ある候補者は「人間にファーストもセカンドもない」と批判したとネットニュースで知り、共感しました。

2000年前、人間を「汚れ」と「清浄」で分断だらけの社会の中で、イエスはその境界線を軽々と越えていきました。「キリストの愛の『広さ』『長さ』『高さ』『深さ』がどれほどであるか」(エフェ3:17~19)を週ごとに味わう時、誰かを「ファースト」にすることの誤りを感じざるを得ません。

けれども、「ファースト」を強調する政党が賛同を集めていることも事実です。格差がどんどん広がる中で、生活に余裕がなく苦しんでいる方たちの、「助けてほしい」「無視しないでほしい」という率直な思いの現れでもあります。しかし、「ファースト」を強調し、ある集団を優先することによって、格差が解消されず、むしろ新たな分断が生まれ、ますます格差が広がります。格差だけでなく、ヘイトや差別を助長してしまうでしょう。

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(マコ10:43-44) 

このように弟子たちに命じた、イエスさまのみ言葉にわたし達は立ち返り、神の国の建設を祈り求めてまいりましょう。(有明海のほとり便り no.419)

ハッピー・バースデー

※ハッピー・バースデー 生まれてきて良かったね
 ハッピー・バースデー きみに会えて良かったよ

1 大きな宇宙の 小さな地球で きみは生まれた
 今日生まれた 僕のすぐそばで 生まれた
 きみの眼 きみの声 きみの笑い顔 みんな すてきだよ ※繰り返し

2 暑い夏の日 寒い冬の日 きみは生きていく
 ずっと生きていく 僕と一緒に ずっと生きていく
 きみの夢 きみの歌 きみの走る姿 みんな すてきだよ ※繰り返し
作詞:成井豊、作曲:林あづさ

『ハッピー・バースデー』という歌です。高校時代の恩師が紹介してくれた曲で、ダウン症の子どもと共に歩まれているお母さんたちの集まりで歌われてきたと伺っています。「神さま」は出てきませんが、これも讃美です。

 秋に予定されているらっこ組(0歳児)を除く、各クラスのクラス参観および保護者懇談会が終わりました。特に保護者懇談会では、保護者同士が我が子のストレングス(育ちや素敵なところ)を分かち合う時間を大切にしています。普段は仕事や家事に追われてしまいますが、保護者の方たちから多くのストレングスを聞くことが出来て嬉しかったです。

キリスト教保育そして育児の原点である、「きみに会えて良かった」という全肯定をこれからも大切にしていきます。(有明海のほとり便り no.418)

牧会便り

先日、北海道の久世そらち牧師より、お手紙と資料をいただきました。久世牧師は長く、わたしやHさんにとっての母教会である札幌北部教会を牧会されていましたが、いまは同じ北海教区にある美唄教会・美唄めぐみ幼稚園の牧師園長をされています。熊本にある荒尾めぐみ幼稚園と、北海道にある美唄めぐみ幼稚園で、オンラインで繋がって何か出来ないかと二人で話し合っているところです。

わたし達が通った札幌北部教会の週報には、毎週牧会便りが掲載されていました。初代の榎本栄次牧師から始まった習慣だと伺っています。わたしもその慣習に習って、荒尾教会に来てから週報に牧会便り「有明海のほとり便り」を掲載することとしました。説教だけでは、普段の牧師の思い・祈り・人柄(駄目さや弱さも?)などを分かち合うことが難しいからです。毎週説教以外にもお便りを書くため、時間的には厳しいのですが、不思議と話題が尽きることはありません。これからも忍耐して付き合っていただければと願っています。

嬉しかったのは、先日久世牧師から送っていただいた美唄教会の週報にも「そらち通信」が掲載されていたことです。(北海道の美唄市を含む空知地方で産まれたため、「そらち」と名付けられたと聞きました;)。礼拝のこと、地区・教区・教団のこと、キリスト教保育のこと、社会・地域のこと、話題は多岐にわたっていました。

小さな発信です。けれどもこの言葉が、どこかで思いもかけない不思議な繋がりへとなっていくことを願っています。(有明海のほとり便り no.417)

霊泉新園舎献堂式メッセージより

スペイン・バルセロナの世界遺産「サグラダ・ファミリア」をご存知でしょうか。大きな大きな教会です。建築開始から140年以上経っていますが、いまだに建築が続いています。当時この教会を設計した、建築家アントニ・ガウディは、その晩年を「サグラダ・ファミリア」のためだけに捧げました。私財も捧げたガウディの、晩年の服装はみすぼらしいものであったと記録されています。

あまりに壮大な教会建築に、資金繰りにも困難を覚え、継続も危ぶまれる中で、ガウディは周りの人々から一体いつ完成するのかと問われます。その時に、ガウディはこう答えました。

サグラダ・ファミリアの工事はゆっくり進む。なぜなら神さまは急がれないから。

そうです。神さまは完成を急がれません。霊泉こども園の新園舎が出来たから、霊泉こども園が完成したわけではありません。 「キリストにおいて、共に建てられ、神の住まいとなる」(エフェ2:22)ように、山鹿の地に生きる子どもたちのとまり木となるように、これからも、わたし達は霊泉こども園の働きを、急がず、焦らず、けれども一歩ずつ歩んでいくことを、神さまは望んでおられるのです。神さまが与えて下さったこの新園舎と共に、心をこめて、子どもたちを愛し、子どもたちに仕えていきましょう。(有明海のほとり便り no.416)

霊泉献堂式を前に

いよいよ土曜日には霊泉こども園の新園舎献堂式が執り行われます。原野先生はじめ霊泉の先生たちが心を込めて準備して下さっています。今回参加できない方も、来月7月27日には山鹿教会での合同礼拝を予定していますので、ぜひご一緒しましょう。ちょうど6年前のペンテコステ礼拝での「有明海のほとり便り」に、こんなことを綴っていました。

山鹿教会の代務を担うこととなり、正直戸惑っています。荒尾教会に赴任してからの2年間、よもやこのような形で山鹿教会に関わることになるとは、まったく思いもしませんでした。山鹿教会の現状は、決して明るいものではありません。…けれども確かなことは、山鹿教会の歴史の中で日曜の主日礼拝は、必ず続けてきたということです。福音のともしびを消すことなく、ともし続けてきたということです。それを安易に消すようなことはしてはならないと感じています。いやむしろ、代務者として精一杯、山鹿の地における福音の分かち合いに努めたいと願っています。
…今は始まったばかりで何も見えていません。しかし、3年後・5年後・10年後に振り返ったときに、きっと神さまの思い・意図・計画が見えてくるのではないでしょうか。どうぞお祈り下さい。

あれから、6年。いま振り返ると見えてくること。この荒尾教会と山鹿教会とが、そして荒尾めぐみ幼稚園と霊泉こども園とが、共に手を携えて歩んでいくようにと、神さまが望まれたということです。その一つの業として、新園舎建築という幻が与えられたのです。

神さまはわたし達にさらに風(プネウマ=聖霊)を吹き続けていくに違いありません。その風に励まされ歩んでいきましょう。(有明海のほとり便り no.415)

正門工事

長年の懸案だった正門工事が無事終了しました。とても味わいのある正門でしたが、作って数十年(?)となる門は、老朽化が進んでいました。ここ5年間は、度々車輪が回らなくなっていました。その都度、教会員の舛田さんにお願いして直していただきました。また、鉄製門でしたが、特に下の部分は錆によってボロボロで、車輪を受ける箇所が使えなくなり、車輪自体をズラして付けなければならない状態でした。さらに、昔ながらのガラガラと引いて開ける門だったため、子どもたちの挟み込み事故が心配でした。役員会・理事会を中心に話し合って来ましたが、予算の心配もあり踏み出せずにいました。けれども、霊泉こども園に出来た新たな正門が、荒尾めぐみ幼稚園のイメージとも重なるもので、早速象設計集団にデザインをお願いしたのです。木をふんだんに使ったもので、温かみある門となりました。予算的にも三和建設さんにかなりご協力いただきました。

十字架の位置に悩みましたが、あえて左側に寄せて、教会との繋がりを意識しました。開き戸にしたため、門を引くスペースがいらなくなり、その分園庭が少しですが広くなり、安全性もかなり向上しました。霊泉のようにインターホンや電子錠も検討しましたが、予算的な問題と共に、教会・牧師館・園舎が同じ敷地にある中で、鍵はせずに代わりに閂と子どもが届かない場所にある簡易なロックにしました。

門につける看板は、いままでの看板を磨いていただきました。この門を通る一人ひとりに祝福がありますように。(有明海のほとり便り no.414)

negative capability

「negative capability」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。わたしがこの荒尾に来て初めて参加したキ保連の園長研修で、講師の神学者が「negative capability」を「解決出来ないことに耐える力」だと説明されたことがありました。そしてこの「negative capability」は、責任を担う皆さんにとってとても大切なものだと。どうしても変えられないもの、直せないものがある。様々な課題の中で、今すぐには解決できないものがある。幼稚園・保育園の責任者は悩む。しかし、それを受け止め耐えて生きていく。なぜなら、今は無理でも、神さまがいつか必ず解決される時が来るから。その希望を抱きつつ、いま解決出来ないことに耐えていくことが大切だと。

この話しを折に触れて思い出しています。特に難しい課題に直面した時に、このnegative capabilityを大切にしようと思っています。

けれども、このnegative capabilityが必要になるのは、園の現場に限ったことではありません。人それぞれの人生の中で、どうしても解決出来ない課題や出来事に直面することがあります。その時に、わたし達はその課題を受け止め、時を待つ力が必要です。しかし、果たして耐えることが、待つことが出来るでしょうか。正直なかなか出来ないかもしれません。無駄なことや失敗をしでかしてしまうかもしれません。でもそれでも必ず、神さまは私たちの予想をはるかに越えて、収穫の喜びの時を与えて下さるのです。その希望をイエスさまは様々な譬えによって伝えています。

わたしたちキリスト者にとって、この「negative capability」はまさにイエス・キリストが指し示す希望から来るのです。(有明海のほとり便り no.413)

目に見えない根を

5月2日、牧師園長として大先輩である、輿水正人先生が88歳で召天されました。鹿児島県阿久根市にある、阿久根伝道所の牧師として、そして阿久根めぐみこども園の園長として50年近く仕える姿に、ただただ頭が下がる思いでした。いま園は、息子の基先生が引き継いでおられます。阿久根市(現17,970人)では人口減少が著しい中で、阿久根めぐみこども園は、「おもしろいをおもしろがる」をテーマとして、とても温かい子ども主体のキリスト教保育を実践されており、8月に予定されている法人研修の講師に基先生をお招きします。阿久根めぐみこども園のHPに次のように綴られています。

目に見えない神さまを通して子ども達は感受性を伸ばします。大きな存在に守られていること、保育者からたくさんの愛情を受けること、友だちから受け入れられることで、子どもの心は安定し、どっしりと地に足の付いた育ちを見せます。優しさも育ちます。

めぐみでは年齢の違う子ども達が一緒に活動する「縦割り保育」にこだわっています。縦での年齢のつながりは、きょうだい体験につながります。発達の違いの大きな子ども達が共に生活することで「みんなちがってみんないい」と思えるようになります。これもまた、違いや多様性を受け入れる優しさにつながります。

このように、めぐみの保育のこだわりはあまり目立つものではありません。しかし、樹木が目に見えない根をしっかりと地に張るように、人間形成の土台となる乳幼児期の根っこ育てにこだわっています。

荒尾めぐみ幼稚園でも、神さまの愛の中で、しっかりと「根っこ」を育てていきたいと願っています。(有明海のほとり便り no.412)