『わたしが「カルト」に?』

東北教区時代、親しくさせていただいた先輩牧師二名による本です。先月行われた熊本地区2・11集会で旧統一協会問題について学んでから、改めてカルト問題について深く学びたいと願い購入しました。

著者の竹迫之牧師(福島・白河教会)は、元統一協会の信者でしたが、東北教区においてこのカルト問題に長く取り組まれています。非常勤講師をされている宮城学院女子大の礼拝へ度々招いていただきました。また、齋藤篤牧師(仙台宮城野教会)は、被災者支援センター・エマオでわたしの前々任者であり、ドイツや東京の教会に離れてからもいつも支えてくれた方です。元エホバの証人だったことを、この本を通して初めて知りました。

脅迫を下地に、いわば呪いをかけることで人々を支配しようとする「カルト」と、今を生きている人たちに対してその存在を祝福する「健全な宗教」との違いは、既存の宗教団体においてもいまだに明示されていないといわざるを得ない現実があります。(p.41)
わたし自身、旧統一協会の元信者であるから言えることなのですが、「支配されている状態」というのは実は大変気持ちいいことなのです。自分自身で選択肢、自分自身で決断し、その結果について自分自身で責任を負うことは、現代では誰もが普通にやっている当たり前の生き方のように感じられますが、実は大変なタフネス(強い精神力)を必要とする、しんどい生き方なのです。…カルトのマインド・コントロールは、究極的には人生そのものを休憩に委ねてしまうように仕向けていきます。(pp.85-86) 

カルト被害が広がっている中で、わたし達は「カルト」と「健全なキリスト教」の違いを明確に語っていく必要があることを痛感しました。(有明海のほとり便り no.352)

Tさんからのお手紙

東北教区被災者支援センター・エマオは、ほぼ毎朝「七郷中央公園仮設」(仙台市若林区)の集会室へ通わせていただいた。その仮設で出会ったTさんは津波でお連れ合いを亡くされた。住んでいた荒浜は、災害危険区域に指定され集団移転になってしまったので、帰れなくなった。けれども、孝子さんはギリギリまで仮設から次にどこに引っ越していくのか、どうしても荒浜に帰りたかったから、決めることが出来なかった。仮設の退去期限が迫ってくる中、最後の最後に隣の多賀城という隣町に引っ越すことを決めた。運転が出来ないTさんは、荒浜の友人を訪問することが難しくなる。

そんなTさんが多賀城に移る直前に、エマオに宛てて一通のお手紙を書いて下さった。

みんなもこれからは別々の生活になると思います。これからが大変だと思います。これから私もどのような生活が待っているか分かりません…エマオさん、どこで会っても声をかけて下さい。…今までくらしてきた荒浜を忘れることは出来ません

手紙の最後には、「仙台市若林区荒浜」の住所が記されている。Tさんご家族が震災前まで住んでいた場所であり、今はもう更地になっている。仮設に住まれていた時は、この住所に送れば仮設に転送されていたが、もうそれも出来なくなる。この住所を使う最後のお手紙を、エマオに宛てて下さったのだ。

3・11から13年が経つけれど、Tさんは荒浜を決して忘れてはいない。荒浜でお連れ合いと過ごした日々、飼われていた犬、ご近所の方たち、すべてが詰まった歴史(herstory)。被災された方たちを忘れずに覚え続けていきたい。細くとも、小さくとも、ささやかな活動を繋げていこう。(有明海のほとり便り no.350)

九州教区災害対応準備小委員会

昨年春の総会で九州教区に災害対応準備小委員会が設置され、委員長を引き受けることとなりました。委員は3人だけですが、他2人の教師は、被災者支援活動を通して出会った「震友」なので、とても建設的な議論を交わすことが出来ています。

1月1日に起こった能登半島地震によって石川県では、241人が死亡されました。また石川県の避難者は 1万1735人にのぼります。荒尾教会としても祈り続け、出来ることをなしていきましょう。

もともとは大災害に備えての備蓄整備が小委員会の目的だったのですが、このような状況の中で、同時並行で教区としての災害時対応について文案を作成することとしました。

28日(水)に、その文案について色々と話し合ったのですが、九州教区として災害時には、教会・教師・家族のいのちを守りつつ、被災された方たちへの支援活動も同時に行っていくことを提案することで一致しました。教会は真空にあるのではありません。地域に根ざし、地域と共に歩む中で、「神と人とに仕える」教会・教区でありたいという願いが込められています。

緊急事態対応(災害発生時から約3日間)、応急対策(3ヶ月から6ヶ月くらいまで)とまとめていきました。そして、復旧・復興対策(それ以降)をこの文案に含めるかどうか議論になりました。災害によって状況が大きく異なる中で、教区としてそこまで果たして出来るのかという課題があるからです。けれども、「仮設住宅から復興住宅など新たな歩みに踏み出していかれるまで共に寄り添っていきたい」という一文を加えることとしました。イエスさまに倣いつつ、仮設から引っ越すまで被災された方たちと共に歩ませていただいた経験と思いがここに込められています。(有明海のほとり便り no.350)

コルシア・デイ・セルヴィ書店

『須賀敦子全集第1巻』は、『ミラノ 霧の風景』『コルシア書店の仲間たち』『旅のあいまに』というエッセイ集を一冊の文庫本にまとめたものです。

初めて須賀文学に触れましたが、久しぶりにを堪能しました。詩は一般的に翻訳が難しいといわれます。その言語での言い回しや韻など、そもそも日本語にはない表現が多用されるからです。わたし自身の読書不足によるものですが、翻訳詩で感動したことがほとんどありません。かと言って少し読める英語でも詩を味わうのは難しく、外国文学における詩とあまりいい出会いをしてきませんでした。けれども須賀が訳す詩は、どれも日本語として美しいのです。例えば、詩人ウンベルト・サバの「きらめく海のトリエステ」の最後の部分を次のように訳しています(p.129)。

港はだれか他人のために灯りをともし、
わたしはひとり沖に出る。まだ逸る精神と、
人生へのいたましい愛に、流され。

翻訳家としても大きな働きをされたことが垣間見える一冊でした。

須賀は60年代ミラノで過ごしますが、カトリック教会の軒を借りつつ活動していたコルシア書店に深く関わるようになります。その書店を取り仕切っていたペッピーノと結婚したことがさらに出会いを広げていきました。

コルシア書店は、カトリック左派と呼ばれる教会運動の拠点でした。古くはアッシジのフランチェスコに始まる「かたくなに精神主義にとじこもろうとしたカトリック教会を、もういちど現代社会、あるいは現世にくみいれようとする運動」(p.217)です。エッセイの中でキリスト教が深く語られることはありませんが、だからこそ逆に彼女の信仰や祈りを、行間から感じることが出来る、お勧めの一冊です。(有明海のほとり便り no.349)

きく

16日(金)午後、常勤・パート教職員全体での参加型研修を、「ビジョン(理想・夢)2024」をテーマに行いました。まずは礼拝を守り、神さまに心を向けます。同僚性を高めるために4チームに分かれてビーチボール大会(大盛りあがり😁)。わたしからスライドを用いながらビジョンを語り、N先生から異年齢保育(3・4・5歳児)について、Y先生から育児担当制保育(0・1・2歳児)について語っていただきました。三人の話しを聞いて、それぞれ感想や活かしていきたいことを付箋に書いてチーム内で分かち合い。中には「2040年になっても荒尾めぐみ幼稚園は残っていてほしい」という意見も😆。

次に「きくワーク」を行いました。丁寧な保育では、保育者は叫ぶような声掛けではなく、一人一人の子どもたちに声を届けることが求められます。そのためにはまず子どもたちの声なき声、心に「きく」ことが大切です。

ワークを準備する中で、きくには「聞く」「聴く」「訊く」「効く」「利く」など様々な漢字があって意味も異なることを知りました。さらに次の禅語に出会いました。

掬水月在手 (水を掬(きく)すれば月 手に在り)

秋の夜に、川へ両手を入れて、水を掬(すく)って見ると、手に月が映る。そのように(仏の)慈悲も、貧富や年齢、男女関係なくすべての人に届くという意味です。真っ直ぐな心で子どものメッセージを聴くことは、水を子どものメッセージに見たてて、静かにそっと水を掬うイメージと重なります。二人一組になって、たらいの水を掬って、となりのたらいに「静かにそっと」移し、その感想を分かち合いました。

初めてのワークでしたが、「きく」ことを言葉だけではなく、体験として、学ぶ(習う)ことが出来ました。(有明海のほとり便り no.348)

「カルト問題と信教の自由」

昨日、「カルト問題と信教の自由」と題して講演をいただきました。

カルトについて、浅見定雄教師(東北学院大学名誉教授)は次のように定義しています。

ある集団をカルトと呼ぶ基準は、その集団の教義や儀礼が<奇異>に見えるかどうかであってはならない。あくまでその集団が、個人の自由と尊厳を侵害し、社会的に重大な弊害をもたらしているかどうかであるべきである。

つまり、新宗教すべてがカルトではありませんし、逆に教義として「正当」であるとされるキリスト教諸教会においても、カルト化することはあるのです。日本基督教団はじめ日本の諸教会においても、牧師による性的暴行やハラスメントなどの事例が起こっています。カルト問題に取り組むことは、自分たちの教会がカルト化していないかを振り返る機会ともなるのです。

統一協会による被害は多岐に及んでいます。霊感商法・正体を隠した伝道活動・合同結婚式・献金や献身の強要等の被害によって、深く傷ついた方たちが本当に沢山おられます。日本からは約7000名が合同結婚式によって韓国へと渡っていますが、その多くが精神的にも経済的にも苦しい状況に置かれているそうです。夫からのDVに苦しみつつも、日本の家族とは縁を切って帰るところもなく、周りからは「あなたの信仰によって夫を変えなければいけない」と強要されている実態があります。

「信教の自由(信じる自由と信じない自由)」をカルトは自己防衛のために使いますが、例えば統一協会こそが信者たちの「信教の自由」を巧みな手段によるマインドコントロールなどで奪っているのです。そのことがようやく周知されつつあり、「解散命令請求」が出されたのです。(有明海のほとり便り no.347)

「ぼくにとって『筑豊』はガリラヤだった」

教区教師研修会が3年ぶりに開催されました。別府不老町教会を会場に、犬養光博教師(平戸伝道所協力牧師)「ぼくにとって『筑豊』はガリラヤだった」と題して二日間に渡る講演をされました。

犬養先生は同志社を卒業後すぐに筑豊に移り、福吉伝道所を立ち上げ46年間そこで働きを続けました。筑豊における諸課題だけでなく、カネミ油症闘争、指紋押捺拒否闘争、菊池恵楓園にある菊池黎明教会での詩篇の学び、愛農聖書研究会など、その働きは常に現場に根ざし多岐に及ぶものでした。犬養先生の生き様に影響を受けた教師・信徒は数多くいます。

犬養先生は無教会の故・高橋三郎先生からも大きな影響を受けています。

ぼくの信仰は、一方で高橋三郎先生を通して与えられたイエス・キリストと、他方、現場、その現場で出会ったイエス・キリストと、二つの中心をもっている。これが一つになれば良いのだが、ずっと緊張関係を引きずってきた。そして近ごろはそれで良かったのではないかと思うようになってきた。(『「筑豊」に出合い、イエスと出会う』p.28)

この「緊張関係」について、「高橋三郎先生のイエス・キリストは垂直の神であり、筑豊のイエス・キリストは水平の現場であり、この十字架が自分の中にある」と説明して下さり、とても腑に落ちました。

ある無教会の集会で、高橋先生の前座で犬養先生が田中正造について講演したところ、高橋先生に「何であのような話をさせたのか」と批判する方たちがいました。すると「現場で苦労して闘っている者の話は、黙って聞くもんだ」と高橋先生が反論されたそうです。お二人は教派を超え、互いに深く信頼し、まさに十字架の神学を生きてこられたのです。(有明海のほとり便り no.346)

保科隆牧師をお迎えして

本日は、荒尾教会の礼拝に出席するために、わざわざ東京より保科隆牧師がお出でくださっています。わたしが保科先生に出会ったのは仙台で、当時仙台東一番丁教会を牧会しつつ教区副議長をはじめ様々な責任を担われていました。わたしは東北教区被災者支援センター・エマオに遣わされていましたが、様々な課題にぶち当たりました。その度にセンター長・上野和明牧師(当時・仙台愛泉教会)とよく話し合い祈りました。ある時、上野先生が「保科先生に相談してみよう」と提案され、二人で仙台東一番丁教会を訪問したことがあります。多くの課題があり一体何の相談だったのか、定かではありませんが…、中々答えが見い出せない中で、アドバイスをいただき共に祈ったことを覚えています。

以来、保科先生にはエマオのことだけでなく、教区の様々な働き、わたしが出席していた委員会のほぼすべてでご一緒しました。特に、東北教区が2013年10月に放射能問題支援対策室いずみを立ち上げた時には、保科先生が室長という重責を担われました。わたしは海外教会からの献金を集めたり、ゲストをご案内したりするくらいしか、いずみには関わっていませんが、保科先生がユーモアと祈りを持って導かれる姿に励まされていました。

また、東京電力福島第一原子力発電所に最も近く、教会員も原発事故によって離散してしまった小高伝道所・浪江伝道所の代務者として、ずっと支えておられました。

2016年には、保科先生は福島教会に転任されました。正直とても驚いたのをはっきりと覚えています。仙台の大教会の牧師として終えるのではなく、まさに神さまからの呼びかけ・callingに導かれて決断し歩まれたのです。再会に心から感謝いたします。(有明海のほとり便り no.345)

日本文学とキリスト教

日本文学におけるキリスト教の影響は無視できないものがあります。書きすぎでしょうか…。つい文学作品にキリスト教や聖書の痕跡を見つけると、ワクワクしてしまうので、人よりそのセンサーは敏感なのでしょう。

須賀敦子(1929-1998)という文学者の作品を読み始めました。須賀は20代後半から30代が終わるまでをイタリアで過ごし、イタリアで結婚し、日本文学を翻訳し、日本に帰国してからはイタリア文学の翻訳も手掛けました。さらに彼女は最晩年の10年間に数多くのエッセイを書き高い評価を得ます。

池澤夏樹という文学者が『須賀敦子全集第1巻』(河出文庫)の解説に次のように記しています。

須賀敦子自身が、ヨーロッパに行く前に自分の意志で洗礼を受けてカトリックの信徒になった人物である。…この点を須賀敦子は文章の表面には書かなかった。しかし、彼女の文学の全体を統括しているのはこの原理である。人々はよりよく生きよう、より御心にかなうように生きようと努力している。それはむずかしいことだから失敗もあるし脱落する者も出る。それでも、生まれた以上はよりよく生きるという義務を神に負っているのだという原則は変わらない。
神は土地を造って祝福し、人を造って試練を与えた。だから須賀敦子のイタリアは美しく、そこに住む人々は苦難にみちた衰退の人生を送ったのではないか。彼女の文章の魅力はこの構図から生まれるのではないだろうか。(pp.449-450) 

この解説を書いた池澤自身が親戚の旧約学者・秋吉輝雄と共著で『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』を出版し、キリスト教への深い理解を持っている文学者の一人です。だからこそここまで端的に、須賀文学の背景にある構図(信仰)を捉えることが出来ているのだと思います。(有明海のほとり便り no.344)

『浜辺達男の遺稿と想い出集~主と共に~』

先日、東京・世田谷にある代田教会員である、Mさんより、一冊の本が送られてきました。『浜辺達男の遺稿と想い出集~主と共に~』という冊子です。浜辺達男先生はこの荒尾教会の3代目牧師(1957年~1962年)で、2020年4月15日に横浜で召天されました。87歳でした。

荒尾教会出身のMさんは、8月の教団新報に出たわたしの記事を読んで連絡を下さった際に、この記念集の中の荒尾教会時代に関わる箇所を写しで送って下さったのです。ぜひ他の文章も読みたいとMさんにお手紙を書いたところ、早速送って下さいました。浜辺先生は荒尾教会の後、福岡の前原教会、青山学院大学、ドイツ留学、弘前学院大、東洋英和女学院大学と、キリスト教大学の教育に長く関わられた方です。けれども、記念集の中で思いのほか多くの箇所に荒尾教会の名前が出てくるので、驚きました。つまり、周りの友人たちも心配するほど、大変な荒尾時代(5年間)だったのです。荒尾教会50周年誌に浜辺先生が次のように綴られています。

卒業直後の未熟な私が担当した5年間はよき成果を上げたとはとても思えません。
…1959年秋から炭住街を舞台に、指名解雇の是非をめぐって、炭鉱マンとその家族が、隣り同士で口論したり、相互に不信を増していった
…このような嵐の中にあって、附属幼稚園の経営も大きな難問にぶつかっていました。園児募集がうまく行きませんでした。それでもやめなかったのには、教会員の頑張りがあったからだと思います。
…私にとって、荒尾教会での五年間の経験は、それ以後歩んできた私の人生を規定するほどの、大きな影響を与え続けてきました。 

当時の浜本先生や教会員の方たちの祈りと献身があったからこそ、いまの荒尾教会があります。この歴史を覚え続けていきましょう。(有明海のほとり便り no.343)