戦後80周年を迎えて

太平洋戦争そして植民地支配によって殺され、傷ついた命を覚えて祈りましょう。

この80年間、日本はどことも戦争を行っていません。そのことを評価しつつも、手放しで喜んでいいとは、とても言えない状況が広がっています。関連経費も含めた「防衛費」という名の軍事費予算が9兆9000億円にまで上がってきています。また、世界の軍事費の合計は約400兆円にまで膨らみ、「新たな軍拡の時代」に突入しています。

いまパレスチナのガザ地区ではイスラエルの攻撃が止むことがありません。さらにイスラエルはガザ地区への支援物資搬入を妨害し、その結果深刻な食糧不足が広がっています。ガザ地区での死者が6万1020人にもなっています。この数は、荒尾市と長洲町の人口に匹敵します。

また、特に栄養失調で死んだ方たちの内、約半数が子どもたちなのです。さらに、配給所の援助物資を求めて集まって来ていたガザ地区の人々が、イスラエル軍に攻撃されて、国連人権高等弁務官事務所によると、少なくとも1760人が殺害されたと発表しました。

戦争は、「殺してはならない」という神さまとの十戒に明らかに反するものです。戦争は、子どもたちの命を奪います。その構造は戦後80年経ったいまも変わっていないのです。(有明海のほとり便り no.424)

核をなくすために

8月15日を何と呼びますか?

韓国では「光復節」と呼び「独立記念日」としています。何からの独立でしょうか?もちろん、日本からです。では日本では何と呼ぶでしょうか?「終戦記念日」と呼んでいます。確かに長かった戦争がようやく終わった、その意味を噛みしめる言葉として「終戦」は相応しいかもしれません。けれども、「加害者としての日本人」という反省に立つ時、「敗戦記念日」と呼ぶ方が、意味があるのではと考えています。

ノーベル平和賞を受賞した被団協が「被爆80年声明」を発表されました。

広島・長崎に原爆が投下され、人類が核時代に入って80年。…今や、被爆者健康手帳所持者は10万人を割り、平均年齢は86歳を超え、残された時間は少なくなりました。一方で、核リスクは極限に達し、科学者が警告する「世界終末時計」が終末まで89秒とこれまでで最短時間を示すなど、かつてない危機に直面しています。…、「唯一の戦争被爆国」を自称する日本政府の役割が不可欠ですが、同条約の締約国会議へのオブザーバー参加さえも拒否。防衛費を増大し、有事を想定した日米演習に核使用を求めるに至っては、「核共有」へ進む危うさがぬぐえません。国是の非核3原則の破壊、「核なき世界」への逆行を到底、許すことは出来ません。…私たちは、核兵器が人間とは共存できないことを、命ある限り訴えてまいります。国民と世界の皆さん、平和国家の道を確かにして人類の危機を救うため、ともに核兵器も戦争もない人間社会を求めてまいりましょう。

核兵器はもちろん原子力発電を含め核が人間とは共存できないことを、歴史が示しています。被団協の方たちの訴え・祈りをわたし達も共にしていきましょう。(有明海のほとり便り no.423)

「おばあちゃんの歌」

終戦から80年を迎えます。キ保連熊本地区園長会である先生が、「おばあちゃんの歌」を紹介してくれました。6月23日沖縄慰霊の日に戦没者追悼式で、城間一歩輝さん(小6)の詩です。

…一年に一度だけ おばあちゃんが歌う「うんじゅん わんにん 艦砲ぬ くぇーぬくさー」 泣きながら歌っているから悲しい歌だと分かっていた 歌った後に「あの戦の時に死んでおけば良かった」と言うからぼくも泣きたくなった

…五歳のおばあちゃんが防空壕での歌を歌い 「艦砲射撃の食べ残し」と言われても
生きてくれて本当に良かったと思った
おばあちゃんに 生きていてくれて本当にありがとうと伝えると
両手でぼくのほっぺをさわって
「生き延びたくとぅ ぬちぬ ちるがたん」生き延びたから 命がつながったんだね
とおばあちゃんが言った 八十年前の戦争で おばあちゃんは心と体に大きな傷を負った
その傷は何十年経っても消えない
人の命を奪い苦しめる戦争を二度と起こさないように
おばあちゃんから聞いた戦争の話を伝え続けていく
おばあちゃんが繋いでくれた命を大切にして 一生懸命に生きていく

約20万人もの尊い命が奪われた沖縄戦。せっかく生き残った人たちに対して、辛い言葉を投げかけられたことがあったのです。2000年前の十字架を覚え続けるキリスト者として、沖縄戦の歴史、広島・長崎の歴史、日本による植民地支配の歴史、その一つ一つの十字架を覚え続けていきましょう。(有明海のほとり便り no.422)

排外主義に対峙する

参議院選挙です。選挙権のある方は、しっかり投票権を行使していただきたいと願っています。人間はたった0.5%の塩分で塩味を感じ始めるそうです。「地の塩」(マタ5:13)として、その投票は微力でも無力ではないはずです。祈るだけでは神の国、神の平和は実現しません。けれども、祈らなければ神の国、神の平和は実現しないでしょう。

「参議院選挙にあたり排外主義の煽動に反対するNGO緊急共同声明」が先日出されました。わたしの父が事務局を担う「外国人住民基本法の制定を求める全国キリスト教連絡協議会(外キ協)」が呼びかけ団体の一つとして名を連ね、賛同団体は1143団体にも上りました。賛同団体には日本キリスト教団・教区・諸団体だけでなく、各個教会も含まれています。

…参議院選挙でも「違法外国人ゼロ」「外国人優遇策の見直し」が掲げられるなど、各党が排外主義煽動を競い合っている状況です。政府も「ルールを守らない外国人により国民の安全安心が脅かされている社会情勢」として「不法滞在者ゼロ」政策を打ち出しています。
 しかし、「外国人が優遇されている」というのは全く根拠のないデマです。日本には外国人に人権を保障する基本法すらなく、選挙権もなく、公務員になること、生活保護を受けること等も法的権利としては認められていません。医療、年金、国民健康保険、奨学金制度などで外国人が優遇されているという主張も事実ではありません。

イスラエルの民はエジプトで「外国人」であり奴隷でした。神さまは一人ひとりをかけがえのない命として創り、救い出して下さった。この出エジプトを信仰の核に置くキリスト者として歩んでまいりましょう。(有明海のほとり便り no.421)

1969年

「高倉徹総幹事日記②」と題された連載が『時の徴(第166号)』という機関誌に掲載されていました。日記資料を整理しかつ的確な解説を入れているのは、戒能信生牧師(千代田教会)です。戒能牧師は日本キリスト教史の研究者・教育者でもあり、農村伝道神学校で学んだ恩師の一人です。

高倉徹(1916-1986)というのは、著名な牧師・神学者です。日本神学校を卒業後、上原教会、岩国教会、日本キリスト教団総幹事農村伝道神学校校長、阿佐ヶ谷東教会を牧会後、隠退されました。特に高倉牧師が教団総幹事をされた時期は学生運動の盛り上がりと共に、教団全体も問われたときでした。日記を読むと、教団総幹事として全国を駆け回りながら、毎日誰かしらと議論を交わし、日曜日には招かれた礼拝で説教し、ほとんど休む間もなく過ごしていたことが伝わってきます。特に学生・青年たちとの対話を大切にされていた様です。驚いたのは、そこに荒尾教会関係者の名前が出てきたことです。1969年5月17日(土)の日記に、次のように綴られていました。

九時五〇分からの青山学院の特別礼拝。三〇分足らずであったが、大学の問題と関連づけながら訴えるところあったと思う。浜辺[達男]君と昼食を共にし、久し振りにゆっくり語り合うことができた。

濱邊(浜辺)達男牧師が、神学校を卒業してから最初に赴任したのが、この荒尾教会・荒尾めぐみ幼稚園だったのです。1957年から1962年まで牧会され、前原教会、そして青山学院大学へと移っていかれました。濱邊牧師と高倉総幹事がそこで何を語り合ったのかは分かりません。けれども、荒尾での日々もその対話に刻まれていたのではと想像するのです。(有明海のほとり便り no.420)

◯◯ファースト?

参議院選挙が近づいてきました。選挙に参加したくとも出来ない隣人がいます。選挙権がある方は、しっかりと選挙権を行使していただきたいと願っています。

アメリカだけのことかと思っていたら、この日本においても、「ファースト(一番)」を強調する政党・政治家が出てきています。それに対して、ある候補者は「人間にファーストもセカンドもない」と批判したとネットニュースで知り、共感しました。

2000年前、人間を「汚れ」と「清浄」で分断だらけの社会の中で、イエスはその境界線を軽々と越えていきました。「キリストの愛の『広さ』『長さ』『高さ』『深さ』がどれほどであるか」(エフェ3:17~19)を週ごとに味わう時、誰かを「ファースト」にすることの誤りを感じざるを得ません。

けれども、「ファースト」を強調する政党が賛同を集めていることも事実です。格差がどんどん広がる中で、生活に余裕がなく苦しんでいる方たちの、「助けてほしい」「無視しないでほしい」という率直な思いの現れでもあります。しかし、「ファースト」を強調し、ある集団を優先することによって、格差が解消されず、むしろ新たな分断が生まれ、ますます格差が広がります。格差だけでなく、ヘイトや差別を助長してしまうでしょう。

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(マコ10:43-44) 

このように弟子たちに命じた、イエスさまのみ言葉にわたし達は立ち返り、神の国の建設を祈り求めてまいりましょう。(有明海のほとり便り no.419)

ハッピー・バースデー

※ハッピー・バースデー 生まれてきて良かったね
 ハッピー・バースデー きみに会えて良かったよ

1 大きな宇宙の 小さな地球で きみは生まれた
 今日生まれた 僕のすぐそばで 生まれた
 きみの眼 きみの声 きみの笑い顔 みんな すてきだよ ※繰り返し

2 暑い夏の日 寒い冬の日 きみは生きていく
 ずっと生きていく 僕と一緒に ずっと生きていく
 きみの夢 きみの歌 きみの走る姿 みんな すてきだよ ※繰り返し
作詞:成井豊、作曲:林あづさ

『ハッピー・バースデー』という歌です。高校時代の恩師が紹介してくれた曲で、ダウン症の子どもと共に歩まれているお母さんたちの集まりで歌われてきたと伺っています。「神さま」は出てきませんが、これも讃美です。

 秋に予定されているらっこ組(0歳児)を除く、各クラスのクラス参観および保護者懇談会が終わりました。特に保護者懇談会では、保護者同士が我が子のストレングス(育ちや素敵なところ)を分かち合う時間を大切にしています。普段は仕事や家事に追われてしまいますが、保護者の方たちから多くのストレングスを聞くことが出来て嬉しかったです。

キリスト教保育そして育児の原点である、「きみに会えて良かった」という全肯定をこれからも大切にしていきます。(有明海のほとり便り no.418)

牧会便り

先日、北海道の久世そらち牧師より、お手紙と資料をいただきました。久世牧師は長く、わたしやHさんにとっての母教会である札幌北部教会を牧会されていましたが、いまは同じ北海教区にある美唄教会・美唄めぐみ幼稚園の牧師園長をされています。熊本にある荒尾めぐみ幼稚園と、北海道にある美唄めぐみ幼稚園で、オンラインで繋がって何か出来ないかと二人で話し合っているところです。

わたし達が通った札幌北部教会の週報には、毎週牧会便りが掲載されていました。初代の榎本栄次牧師から始まった習慣だと伺っています。わたしもその慣習に習って、荒尾教会に来てから週報に牧会便り「有明海のほとり便り」を掲載することとしました。説教だけでは、普段の牧師の思い・祈り・人柄(駄目さや弱さも?)などを分かち合うことが難しいからです。毎週説教以外にもお便りを書くため、時間的には厳しいのですが、不思議と話題が尽きることはありません。これからも忍耐して付き合っていただければと願っています。

嬉しかったのは、先日久世牧師から送っていただいた美唄教会の週報にも「そらち通信」が掲載されていたことです。(北海道の美唄市を含む空知地方で産まれたため、「そらち」と名付けられたと聞きました;)。礼拝のこと、地区・教区・教団のこと、キリスト教保育のこと、社会・地域のこと、話題は多岐にわたっていました。

小さな発信です。けれどもこの言葉が、どこかで思いもかけない不思議な繋がりへとなっていくことを願っています。(有明海のほとり便り no.417)

霊泉新園舎献堂式メッセージより

スペイン・バルセロナの世界遺産「サグラダ・ファミリア」をご存知でしょうか。大きな大きな教会です。建築開始から140年以上経っていますが、いまだに建築が続いています。当時この教会を設計した、建築家アントニ・ガウディは、その晩年を「サグラダ・ファミリア」のためだけに捧げました。私財も捧げたガウディの、晩年の服装はみすぼらしいものであったと記録されています。

あまりに壮大な教会建築に、資金繰りにも困難を覚え、継続も危ぶまれる中で、ガウディは周りの人々から一体いつ完成するのかと問われます。その時に、ガウディはこう答えました。

サグラダ・ファミリアの工事はゆっくり進む。なぜなら神さまは急がれないから。

そうです。神さまは完成を急がれません。霊泉こども園の新園舎が出来たから、霊泉こども園が完成したわけではありません。 「キリストにおいて、共に建てられ、神の住まいとなる」(エフェ2:22)ように、山鹿の地に生きる子どもたちのとまり木となるように、これからも、わたし達は霊泉こども園の働きを、急がず、焦らず、けれども一歩ずつ歩んでいくことを、神さまは望んでおられるのです。神さまが与えて下さったこの新園舎と共に、心をこめて、子どもたちを愛し、子どもたちに仕えていきましょう。(有明海のほとり便り no.416)

霊泉献堂式を前に

いよいよ土曜日には霊泉こども園の新園舎献堂式が執り行われます。原野先生はじめ霊泉の先生たちが心を込めて準備して下さっています。今回参加できない方も、来月7月27日には山鹿教会での合同礼拝を予定していますので、ぜひご一緒しましょう。ちょうど6年前のペンテコステ礼拝での「有明海のほとり便り」に、こんなことを綴っていました。

山鹿教会の代務を担うこととなり、正直戸惑っています。荒尾教会に赴任してからの2年間、よもやこのような形で山鹿教会に関わることになるとは、まったく思いもしませんでした。山鹿教会の現状は、決して明るいものではありません。…けれども確かなことは、山鹿教会の歴史の中で日曜の主日礼拝は、必ず続けてきたということです。福音のともしびを消すことなく、ともし続けてきたということです。それを安易に消すようなことはしてはならないと感じています。いやむしろ、代務者として精一杯、山鹿の地における福音の分かち合いに努めたいと願っています。
…今は始まったばかりで何も見えていません。しかし、3年後・5年後・10年後に振り返ったときに、きっと神さまの思い・意図・計画が見えてくるのではないでしょうか。どうぞお祈り下さい。

あれから、6年。いま振り返ると見えてくること。この荒尾教会と山鹿教会とが、そして荒尾めぐみ幼稚園と霊泉こども園とが、共に手を携えて歩んでいくようにと、神さまが望まれたということです。その一つの業として、新園舎建築という幻が与えられたのです。

神さまはわたし達にさらに風(プネウマ=聖霊)を吹き続けていくに違いありません。その風に励まされ歩んでいきましょう。(有明海のほとり便り no.415)