東日本大震災から14年

東日本大震災から14年になります。一つの記事が目に留まりました。

「津波で犠牲の女児 20歳をイメージして描かれたパネルを展示 宮城・石巻市」と題された記事には、当時6歳(年長)だった二人の園児が津波で亡くなり、その二人の子が20歳の成人式を迎えたことをイメージして描かれた作品が紹介されていました。素敵な振袖姿に包まれた二人の女性は、何もなければ成人式を迎えることが出来たのです。描かれた園児のお母さんが次のようにコメントしています。

「大きくなった成長した姿がなかなか思い描けなかったが、画家の小林さんの力を借りて成長した娘の姿に出会うことができてうれしかった」

被災された方たちの傷が癒えるにはまだまだかかるのです。この二人の園児を含め5名の園児が、園バスに取り残され津波に流され、その後の火事により亡くなったのです。大地震が石巻を襲った際、高台にあったH幼稚園では、なぜか乗せる必要のなかった園児を園バスに乗せて山を下って沿岸部へと向かって行ったのです。一度は園バスごと小学校へ寄ったにも関わらず、さらに沿岸部を走り続け津波に流されます。運転手のみ逃げて助かったという、痛ましい事件でした。その後、遺族による裁判へと発展し、高裁での和解という形で裁判は終わりました。十分な安全・防災対策がなされていれば、この5名の命は助かったことを思う時、東日本大震災は自然災害であっただけでなく、「人災(人が起こした災害)」でもあったことを忘れてはなりません。

荒尾めぐみ幼稚園・霊泉幼稚園でも、東日本大震災のことを覚え続け、安全・防災対策を見直していきたいと願っています。(有明海のほとり便り no.402)

霊泉新園舎建築感謝

無事、新園舎引渡しが終わりました。そこに集った、霊泉・三和建設・象設計集団の一人一人に安堵の笑顔が溢れたのは言うまでもありません。特に、現場監督を務めて下さったSさんが顔を真赤に感無量の思いをお話しされたのを見て、改めて心を込めて工事に当たって下さったことを感じ、感謝に絶えません。

原野牧師園長、渡辺理事、そしてわたしの3人で建築委員会を始めたのが2021年6月でした。それから80回を超える建築委員会を重ねてきました。さらに遡ると、2019年6月に小平善行牧師(元荒尾教会・荒尾めぐみ幼稚園)に霊泉幼稚園の園長としてピンチヒッターとして入っていただいたことから始まります。そもそも継続すら危ぶまれたその時に、小平園長はしっかりと責任を果たすだけでなく、霊泉幼稚園の灯火を消してはならないと、力強くビジョンを打ち立て、弱気になっていたわたしや理事会を鼓舞されたのです。

そのビジョンにあったトイレの改修工事、北西隣地の取得、さらには園舎建替えに至るまで、2019年春には誰一人として予想だにしていなかったことです。小平先生からバトンが渡された原野先生はじめ、関係者一人一人の懸命な働きと祈りがなければ、この6年間はありえませんでした。

まさに、神さまの不思議な御業として言いようがない「奇跡」に出会わせていただきました。この感謝から、霊泉幼稚園・山鹿教会の歩みを繋いでいきましょう。(有明海のほとり便り no.401)

選択的夫婦別姓を

霊泉の新園舎建築に際し、学法理事長として数多くの書類を作成し押印をしています。昨日も、借入れのための書類や県庁宛の書類に押印しました。いつもこの作業で違和感を覚えるのは、わたし自身の名前の表記です。

我が家は「別姓」で生活をしているので、初めてお会いする方たちの中には、混乱される方もいらっしゃいます。一日も早く「選択的夫婦別姓」制度が実現することを願いつつ、暫定的に私が戸籍では「後藤」としているので、子どもたちも「後藤」で生活しています。つまり「家族別姓」なのです。

法人の登記簿には「理事長 後藤真史(佐藤真史)」といわゆる「旧姓」を併記出来るため、普段法人の関係書類は「佐藤」で通すのですが、行政関係はまだまだ理解が浅く、「後藤真史」とだけの表記を求められることが多々あるのです。

姓を変えると、免許や銀行などの名義変更ももちろん面倒なのですが、研究者などの場合はこれまでの業績が分かりづらくなってしまいます。ましてや名前というアイデンティティに関わる根幹を揺るがすものでもあるのです。

一番問題に感じるのは、姓の選択の自由があると言いながら、実際は女性が改姓するケースが96%にも及ぶという事実です。これは「女性が結婚したら夫の姓を名乗るもの」という旧来の「家制度」(女性は男性(夫・父)のもの)から来る考え方が根強く残っているからです。世界的に見てもこのような制度が残っているのは日本くらいですし、もちろん聖書が語る福音とは逆行する考え方です。

選択的夫婦別姓制度とは、結婚時に同姓か別姓か選べるようにするものです。法制化に向けてますます進展があることを願っています。(有明海のほとり便り no.400)

トランプ2.0とキリスト教

日本キリスト教団では、2月11日を「信教の自由を守る日」としています。「紀元節」として神武天皇が即位した日を祝われていたものが、戦後廃止されたにも関わらず、「建国記念の日」として再び制定されたことに反対して、キリスト教界・宗教界が「信教の自由を守る日」としたのです。

「信教の自由」は人間が持っている根源的な権利です。戦時中、天皇を神とする国家神道によって、「信教の自由」が脅かされ、迫害され殉教していった先達たちがいたこと、けれども多くの日本人キリスト者たちは迎合していったことを、忘れてはなりません。

毎年熊本地区では2月11日に信教の自由を守る日特別講演会を行っています。今年は、関西学院大学の大宮有博教授を招き「トランプ2.0とアメリカ・キリスト教」という題で講演をいただきました。

・旧統一協会の関連団体であるUPF(NGO)やWashinton Times(日刊紙)と、トランプ政権が深く結びついている
・トランプ政権は「信教の自由」および「テロ対策」を口実に、イスラム教徒の多い中東・アフリカからの入国制限という差別的政策を行った
・フランクリン・グラハムは父ビリーより政治的であり、福音派よりも宗教右派
・中絶やトランスジェンダーを「反キリスト教」とラベリングし、一気に保守化させた
・トランプ現象は、今の社会に不満を抱いている層を、根拠のない主張で真実を曲げて、惹きつける。選挙・議会・世論といった民主主義の根幹を劣化させていく

「信教の自由」をトランプ政権は乱用し、むしろ他者の「信教の自由」を大きく侵害しているのです。常に目を覚ましていなければなりません。(有明海のほとり便り no.399)

『教会のマネジメント 明日をつくる知恵』④

いままで、この本から様々なヒントを得て来ましたが、最後の第三部は著者二人の対談となっていて、特に分かりやすい箇所となっています。

(濱野道雄)他の教会をモデルにしてマネジメントやリーダーシップのスタイルを模倣すると、やらなくてもいいことをやっているような徒労感だとか、あるいは、やらなくてはいけないことをやっていなかった、ということが生まれるケースがままある気がします。だから、何か新しいことをしなくてはいけない、変えなくてはいけないというのではなく「肩の力を抜いていい」、そして「できることがまだたくさんあるんじゃないですか」ということを伝えたいです。(p.170)

何かをモデルにして模倣していくことは、はじめ方としてとても有効な手段です。けれども、そのモデルとまったく同じようには出来ないことにも、往々にして気付かされます。その時に、諦めるのではなく、楽しく続けられるように工夫することではないでしょうか。

(濱野道雄)教会に生き生きしてほしいですね。誰かにやらされているのではなく。…イエスの物語をきちんと生き続けること。少し立ち止まり、このことを一度言葉にして整理してみる。マネジメントはこういうときのツールとして、とても役立つと思っています。…元気というのは単に声が大きくなるというようなことではありません。ああ生きていて良かった、これからも生きていこうと思えるようになったとき、初めて世界も日本も、ゆるされるならば変わり始めていくだろうという希望を持っています。(p.177)

最も根源的な「これからも生きていこう」「ゆるされている」というメッセージを、「生き続けて」いきましょう。(有明海のほとり便り no.398)

『教会のマネジメント 明日をつくる知恵』③

大きく三部構成になっています。第一部は経営学者であり教団の信徒である島田恒さんが、第二部は神学者の濱野道雄教授(西南学院大)が、そして第三部は二人の対談で構成されています。特に第二部での議論は、現在の教会が直面している課題に対して、鋭く問題提起をしています。

ミッション・ステートメントとは何でしょうか。簡単に言えば、「神が、私たちの教会に、『~を一緒にしよう』とおっしゃっていること=使命(ミッション)を言葉にして、教会の人、教会の外の人に宣言(ステートメント)したもの」となるかもしれません。…ミッション・ステートメントが有益だとすれば、それは何故でしょうか。一つには、教会も歴史が長くなり、第2、第3世代となってくると、自らの組織維持が一番の「ミッション」になりがちだからです。「世のため・世と共にある教会」ではなくなるのです。…教会は、変わり続けることによって、少し居心地が悪いくらいでいい(!)と私は思います。(pp.102-103)

荒尾教会・荒尾めぐみ幼稚園の場合、組織維持が一番の「ミッション」になっているとは思いませんが、常に振り返ることは大切です。神さまが、荒尾教会・荒尾めぐみ幼稚園に何を一緒にやろうと呼びかけておられるのか。

牧師園長という立場になり常々感じることがあります。それは、わたし自身に神さまから求められている資質として、与えられている環境に合わせていく柔軟性と共に、課題やヴィジョンを提案していくささやかな(時に大きな)勇気です。特に、何か変化がもたらされる際には、誰かしらモヤモヤを抱えやすいことに気付かされています。そのモヤモヤが大きくなりすぎないように配慮すると共に、一緒に考えていくきっかけとしたいと願っています。(有明海のほとり便り no.397)

『教会のマネジメント 明日をつくる知恵』②

この本で語られている「マネジメント」は「教会ビジネス」ではありません。むしろ、教会が神さまから託されている使命に、正面から向き合い・計画し・実現させていくことであり、「2000年変わらざるミッションを、変わりゆく個人や社会のニーズに応えつつ一体化させ、宣教を進めること」(p.60)がマネジメントの役割なのです。

教会は、社会や人々の環境や意識を見極め、そのニーズに届くよう配慮することが必要です。言い換えるならば、伝えたい方々の現場に降り立って、その心情に応えるべく、ミッションと一体化させてメッセージを発信していくことが重要です。教会が一方的に聖書講解を発信するだけでは人々に届きにくいのです。(p.53)

それでは、荒尾教会が置かれているこの地域社会そして人々のニーズはどのようなものがあるのでしょうか? まずは、霊的なニーズとしての教会・礼拝があると言えるでしょう。1946年に宮崎貞子先生がご自宅を開放して始められた家庭集会に、集われた方たちの多くは女性たちや中高生でした。当時の霊的なニーズに応え、そして小さな群れが今年79周年を迎えること自体が、霊的な働きをしっかりと繋いできた証です。けれども、礼拝もいまある形が完成形だとは思いません。常に霊的なニーズに届くような配慮がなされていく必要があります。子どもとの合同礼拝が定着しましたが、もっと子どもたちが神さまの愛を満喫できるプログラムが出来るかもしれません。キリスト教や信仰を語る場がもっとあってもよいのではと話し合い、第3主日礼拝後のキリスト教カフェが始まりました。

楽しみつつ、霊的ニーズに応えるべく挑戦を続けていきましょう。(有明海のほとり便り no.396)

circle(サークル)

キリスト教保育連盟九州部会主任研修会が熊本であり、主幹のE先生、H先生(霊泉)とわたしの三人で参加しました。充実した学びと出会いに笑顔あふれる一泊二日となりました。

広渡純子先生(九州ルーテル学院大学・元学長)による講演「原点から届けられるメッセージ~キリスト教保育の始まりを担った女性宣教師たち~」では、日本におけるキリスト教保育が、男性宣教師の連れ合いたち女性宣教師たち、そしてそのミッションの深く共鳴した女性保育者たちの、神さまの愛への信頼と応答から始まったことを学びました。150年前、子どもたちの教育、特に幼児教育の重要性などを日本ではほとんど誰も理解していませんでした。児童労働に駆り出されている子どもたちも多くいました。そのような中で、子どもを一人の人格としてみる、子どもを中心とする保育を彼女たちは推進していきました。日本の教育において「子ども主体の保育」の重要性が広まりつつありますが、キリスト教保育が先駆的な実践をしてきたのです。

1902年に佐賀幼稚園(ルーテル派)がエマ・リパード宣教師夫人とM.B.エカード宣教師によって始められました。九州では活 水に次ぐ2番目、佐賀県では最初の幼稚園でした。広渡先生が紹介して下さった1枚の写真では、朝の集いの写真で、子どもたちが輪になって座っています。英語で“circle(サークル)”と呼んでいたそうです。一人ひとりが尊重されるこの輪の中に、イエスさまが共におられたのです。(有明海のほとり便り no.395)

キリスト教保育はインクルーシブ

わたしが荒尾めぐみ幼稚園に遣わされてから、いくつか新たに始めた取り組みがあります。その一つが、2020年度から始めた全教職員との個人ミーティングです。教職員一人ひとりのワークライフバランスの状態確認・改善、キリスト教保育の振り返り、そして何よりも信頼関係の構築を願って年3回(春・夏・冬休み預かり期間中)行っています。一人ひとりの人柄や保育への思い、いまの園の強み・課題がよく理解出来る貴重な面談となっています。

年末年始に行う個人ミーティングは、特に来年度の働きについて、このまま継続して下さるかを伺う大切な面談です。

その中で、特にA先生とのミーティングが胸に響きました。もともとは保護者として荒尾めぐみ幼稚園に深く関わって下さった方です。A先生のお子さんは、自閉症スペクトラムがあり、お連れ合いと話し合い、悩む中で、療育機関を通してこの荒尾めぐみ幼稚園と出会われました。お子さんが卒園し、いまは保育補助として、発達に大きな凸凹があったり、情緒が不安定だったりする園児のサポートをして下さっています。

ある園児の話しになった時に、「〇〇さんはいま一番伸びしろがある時期なんだと思います」と、温かい笑顔で教えてくれました。「気になる子」「困った子」として見るのではなく、「育ちの伸びしろが一杯ある子」として温かく関わっていく尊さに気付かされました。A先生ご自身の家庭での経験、園や療育に通う中での経験からの「まことの言葉」でした。

「インクルーシブ保育でないキリスト教保育はない」と戸田奈都子教師(川内教会・のぞみ幼稚園)から学んだ言葉と響き合っています。(有明海のほとり便り no.394)

『教会のマネジメント 明日をつくる知恵』

「教会とマネジメント??」本のタイトルを見た時にクエスチョンマークがいくつも頭の中に浮かびました。「マネジメント」は、生き馬の目を抜くビジネス社会で使われる考えであって、一週間の間そこで傷つき疲れたわたしたちが毎週日曜日に集うこの教会とは、到底結びつくものではないと思ったからです。けれども、共著者の濱野道雄牧師(西南学院大学)の名前を見て、この本が単なる「教会ビジネス本」でなく、確かな神学に基づいていることが分かりました。同時に、園長・理事長として日々こども園の運営に責任を持つ身として、「保育マネジメント」の学びを最近集中的にしており、「マネジメント」という言葉自体へのアレルギー反応(?)は、大分収まっていたのです。読み進めていくと、マネジメントとは「組織をどうしたら大きくしていけるのか」ということだと誤解をしていたことに気付かされました。

教会も、誰もがそこで生きる意味を感じ、自分の居場所になっていくことができ、広くミッションの実現に役立っていくようなあり方を考えることがマネジメントだと思うんです。(p.163) 
社会運動をするにしてもNPOにしても、マネジメントが必要です。そうでないと、あっという間に無責任で自己満足なものになってしまうところがあります…社会的な活動をしている教会のほうが数も増えることは、社会学的調査から言えそうです。けれども、数を増やすための手段として社会的なことをやるのでは、本末転倒になってしまう。そもそもイエスは、みんなと一緒にご飯を食べて、誰も友のいない人のところに行く、という素朴なところで働きました。(p.166)

では、具体的にどのようなマネジメントが教会に求められているのか。次号に続きます😉(有明海のほとり便り no.393)