内実を問う

遣わされた教会を閉じなければならないとき、牧師は深く傷つきます。無力さや敗北感にさいなまれ、召命や信仰を見失うことさえあります。そして牧師だけでなく、残された信徒たちも傷つき苦しむことになります。…一度できた教会がなくなることは、地域にも傷を残します。発展していく町には学校や病院ができ、商店が増え、歓楽街がにぎわい、教会も伝道にやってきます。しかし、町がさびれると学校も病院もなくなり、商店も飲み屋も、そして教会も去っていきました。その事実は、見捨てられた地域にずっと残ります。その後で再び「隣人愛」とか「信徒の交わり」などを説かれたとしても、その内実はどうかと、地域の人々はじっと見定めているのです

久世そらち牧師(札幌北部教会・教団副議長)が『信徒の友7月号』に書かれていました。北海教区や九州教区などでは、過疎化や少子高齢化の中で、確実に教会員の数が減り、場合によっては他教会と合併や、解散を余儀なくされています。またいま新たに新型コロナウイルスという重い現実を前にしています。

この荒尾教会においても、決して他人事ではありません。この地域における人口減少も避けがたい現実です。また、山鹿教会を代務した1年では、ますますこのことを思わされました。問われるのは、私たちの「信仰の内実」なのでしょう。

この荒波を前に、荒尾めぐみ幼稚園・霊泉幼稚園は学法を同じくして、共に歩み始めています。では、教会はどうでしょうか。山田教師を副牧師として招聘した意味を、改めて深めていきたいと願っています。(有明海のほとり便り no.166)

コプト教会

本日メッセージで触れるエジプト・アレクサンドリア教会は古代キリスト教にとってはローマ教会と同様に重要な教会でした。

エジプトではイスラム教が支配的になっていく中で、アレクサンドリア教会はキリスト教信仰をコプト教会として守り続けていきます。エジプトではおよそ90%がイスラム教徒であり、10%がキリスト教徒です。エジプト社会ではキリスト教徒に対して様々な形での差別や偏見が残っています。

アメリカの大学に留学していた時に、親友の一人がエジプトからの留学生Haniでした。彼はコプト教会の信徒でありエジプトからの留学生たちの中ではマイノリティでした。私も同じキリスト者として、また理系同士共感し合う部分が多く、よく一緒に食事や映画に出かけたことを思い出しました。けれども、留学先の大学の周りにコプト教会はなく、最寄りのコプト教会は国境を越えたカナダにありました。

9・11同時多発テロが2011年に起こり、エジプトを含む中東からの移民や留学生に対しての差別や暴力が頻発していきました。アメリカ政府はHaniが国境を越えて教会に通うことを許可せず、移動を制限しました。その時の彼の悲しい・悔しい表情が、今もはっきりと思い出されます。

Haniはそのまま大学に残り、生命情報科学で博士号を取得、国立衛生研究所(アメリカのコロナ対策拠点の一つ)でポスドクをし、今はテキサス州立大学で助教授として頑張っていることを知り、とても嬉しくなりました。

世界の教会に集うキリスト者たちの、今日の礼拝が守られ祝されますように。 (有明海のほとり便り no.165)

雨の音や風の音が聞こえる

今日は花の日・こどもの日です。18世紀なかばアメリカの教会で、一年で最も多く花が咲くこの時期に、教会にそれぞれが花を持ち寄り、子どもたちの祝福を祈り、そして礼拝後その花を子どもたちがお見舞いに届けたことから始まりました。

けれども、いま子どもたちを取り巻く日本の社会環境は、決して祝福にあふれたものだけではありません。厚労省の報告によると、虐待による子どもの死亡事例は年間50件を超えています。心中による虐待死もここに含めると、もっと増えます。つまり、私たちが毎週教会に集い礼拝を献げ各々派遣されていくその間に、毎週一人以上の子どもが虐待によって命を奪われているのです。この現実を、忘れてはいけません。

虐待された子どもたちのためにシェルターを造った坪井節子弁護士が、『奪われる子どもたち』という本の中でこのように書かれていました。

子どもを決してひとりにしない、それと同時に支援する大人もひとりにしない。役割、機関は違っても傷ついた子どもに向き合う、弱い大人たちとしてしっかりスクラムを組もう。…どんなに試しても暴れても、このスクラムが崩れないとわかったとき、色々な仕方で子どもが心を開いてくれる瞬間がくるのです。拒んでいた食事を食べ始めたり、ぽつぽつ話を始めたり。「雨の音や風の音が聞こえる」とか「空ってきれいだね。初めて空見た。ずっと下向いて生きてきたから」と語る子がいました。

「雨の音や風の音が聞こえる」社会、小さな花の美しさが感じられる社会を、子どもたちと共につくり出していきましょう。(有明海のほとり便り no.164)

キリスト教保育の祈り

キリスト教保育連盟熊本地区では毎年6月に春季保育者研修を開いています。これは主に初めてキリスト教保育に出会う新任保育者に、キリスト教とは、キリスト教保育とはどういったことなのかを学ぶ場です。いつもとても分かりやすく、学びになり、私自身毎年楽しみにしています。

今年度から地区の会計を担うこととなり、準備に携わったのですが、新型コロナウイルスの影響で物理的に一箇所に集まるのを止めて、オンラインで持つこととしました。

「キリスト教保育への招き」という題で、O先生(九州ルーテル学院幼稚園前園長)がお話をして下さいました。キリスト教保育のキーワードとして①祈ること、②聖書の二つを挙げられました。

  • 子どもたちに対して、時々自分の感情が出てしまう時、後で反省するような時はないだろうか。どうしても愛せない子どもがいるかもしれない。苦しい時、どんな時でも「自分の言葉」で祈ること。言葉は呼吸であるように、祈りも呼吸。それが出来ればキリスト教保育は大丈夫。それが救いでもある。
  • 礼拝ではぜひ「主の祈り」を子どもたちに覚えてほしい。意味は少しずつでいい。卒園してからも子どもたちは覚えている。
  • 礼拝は発達障がいのある子にはじっと静かに座っていることが難しい。けれども、事前の予告・カードや写真の活用など工夫しつつ、あせらずゆっくりとやっていってほしい。

保育者のほとんどはキリスト者ではありません。けれども、洗礼の有無に関係なく、愛し導かれる神さまと共に、キリスト教保育があることを改めて学ぶことが出来ました。(有明海のほとり便り no.163)