市内での新型コロナウイルス感染を受けて

荒尾市の方、また大牟田でも立て続けに8名の方が新型コロナウイルスに感染されました。その方たちの回復を祈りましょう。

教会・幼稚園としても蔓延防止のための対応を取っていかなければなりません。まず教会では短縮礼拝をもうしばらく継続させたいと思います。もし感染が市内で広がっていく場合は、再び家庭礼拝に切り替えていくことも役員会で検討したいと思います。

特に難しいのは、幼稚園での対応です。そもそも幼児教育において、三密を避けることなど不可能です。保護者・教職員にも様々な受け止め方がある中で、どのような対策が最善なのか、正直頭を抱えています。行政とも連携しつつ判断しなければなりません。

同時に、濃厚接触者あるいは感染者が園児・教職員に出た場合も想定しておく必要があります。ここで何よりも避けたいのは「感染・濃厚接触=悪」という図式です。緊急事態宣言が解除され、それぞれが悩みつつ三密を避けつつ社会生活を営んでいます。むしろ正直に感染や濃厚接触の情報を伝えてくださったこと、さらなる感染を防ごうとしてくださっていることを感謝すべきです。そうすることで、「次の感染隠し」も防げるはずです。

先日国連が「自然破壊や気候変動が続けば、新型コロナウイルス感染症のような病気が増える」と報告しています。世界規模の自然破壊をつくり出しているのは、資本主義の過剰な利益追求であることは明らかです。そのような社会・世界を造り出してしまっている私たち自身の罪を神と隣人とに告白し、そこにこそ目を向けて、神の国の建設へと向かっていきたいと願っています。(有明海のほとり便り no.169)

山田原野教師准允式・就任式

山田原野教師の准允式および山鹿教会就任式が無事終わりました。

准允式とは「(補)教師」として日本キリスト教団が任命する式です。従来教区総会時に行われるものです。教会で行われる准允式に参加したのは生まれて初めてで、感銘を受けました。

よくよく考えてみれば、教会や学校、社会福祉施設などの現場があって、初めてその者は「教師」となっていくわけですから、教会で行うということは、とても理にかなったことでもあります。信徒の方たちにとっても感慨一塩だったのではないでしょうか。また、私自身が准允を受けた9年前の初心を、思い起こす時ともなりました。

その後、みんなで龍泉閣まで移動して、昼食会となりました。13時からということで、温泉に入る時間も作って下さっていました。司式をして下さったK教区議長は、週何回も温泉に入る程、通の方です。以前、キリスト教保育連盟の研修でご一緒した際にも、研修の合間(講習をスキップして?)に温泉を楽しまれていました。その日下部先生もとても喜んで下さっていました。

美味しい昼食をいただいた後は、それぞれから山田先生へお祝いのメッセージを贈りました。K議長からは、同窓のS牧師が山鹿教会を牧した後、しばらく牧会から離れたけれども、いまは教会で頑張っていることをご紹介されました。小平牧師からは、山鹿教会・霊泉幼稚園ともに、いま追い風を受けつつあるので、それに甘んじることなく、積極的にチャレンジをしていってほしいと励ましの言葉を贈られました。

山田原野教師の働きに大きな祝福がありますように。(有明海のほとり便り no.168)

キリストと共に生きる生活

牧師は、ただ教会員の自由意志による献金によってのみ生活し、場合によってはこの世の職業につかなければならない。教会は、人間の教会生活のこの世的な課題に、支配しつつではなく、助けつつ、そして仕えつつあずからなければならない。教会は、あらゆる職業の人々に、キリストと共に生きる生活とは何であり、<他者のために存在する>と言うことが何を意味するかを、告げなければならない。・・・教会は、人間的な<模範>(それはイエスの人間性にその起源を持っているし、パウロにおいては非常に重要である!)の意義を過小評価してはならないだろう。概念によってではなく、<模範>によって、教会の言葉は重みと力を得るのである。

ナチスに抵抗し捕らえられた神学者ボンヘッファーが、獄中で綴った教会論です。教会を鋭く問いかけています。

けれども実際には、私たちは<模範>とはなり得ないような弱さや罪を抱えています。しかしそれでも、いやそれだからこそ、イエス・キリストを<模範>とし「キリストに倣う者」(Iコリ11:1)としての歩みへと招かれているのです。それは、この世・社会と切り離された隠遁生活ではありません。むしろ社会の痛みの中で、「概念」にだけ逃げるのではなく、助け合い仕え合っていく歩みへと。まさに礼拝からそれぞれの現場へと押し出され、遣わされていく生き方なのです。

そう考えた時に、荒尾教会・荒尾めぐみ幼稚園の働きが見えてきます。概念によってではなく、イエス・キリストの<模範>によって、ここ荒尾で神の言葉を分かち合っていきたいと祈ります。(有明海のほとり便り no.167)