キリストと共に生きる生活

牧師は、ただ教会員の自由意志による献金によってのみ生活し、場合によってはこの世の職業につかなければならない。教会は、人間の教会生活のこの世的な課題に、支配しつつではなく、助けつつ、そして仕えつつあずからなければならない。教会は、あらゆる職業の人々に、キリストと共に生きる生活とは何であり、<他者のために存在する>と言うことが何を意味するかを、告げなければならない。・・・教会は、人間的な<模範>(それはイエスの人間性にその起源を持っているし、パウロにおいては非常に重要である!)の意義を過小評価してはならないだろう。概念によってではなく、<模範>によって、教会の言葉は重みと力を得るのである。

ナチスに抵抗し捕らえられた神学者ボンヘッファーが、獄中で綴った教会論です。教会を鋭く問いかけています。

けれども実際には、私たちは<模範>とはなり得ないような弱さや罪を抱えています。しかしそれでも、いやそれだからこそ、イエス・キリストを<模範>とし「キリストに倣う者」(Iコリ11:1)としての歩みへと招かれているのです。それは、この世・社会と切り離された隠遁生活ではありません。むしろ社会の痛みの中で、「概念」にだけ逃げるのではなく、助け合い仕え合っていく歩みへと。まさに礼拝からそれぞれの現場へと押し出され、遣わされていく生き方なのです。

そう考えた時に、荒尾教会・荒尾めぐみ幼稚園の働きが見えてきます。概念によってではなく、イエス・キリストの<模範>によって、ここ荒尾で神の言葉を分かち合っていきたいと祈ります。(有明海のほとり便り no.167)