はらわたが突き動かされる

マルコによる福音書1章40~45節(家庭礼拝メッセージ)

神学校時代の恩師・荒井英子先生は、国立ハンセン病療養所「全生園」にある教会で、牧師をされた。当時の経験を振り返って言われていた言葉が胸に残っている。

入居者の方たちから聞いた言葉の中で最も辛かったのは、「身内が一番差別する」だったと。家族との関係を断つために、療養所に隔離されたハンセン病の方たちは、まず自分の名前を捨て、他の名前を使うことが求められた。全国にある各療養所には納骨堂が必ずあるが、骨になっても家族のもとに帰れない遺骨が23,000体余りも眠っている。一番支えになるはずの家族が、一番加害者になってしまう現実が差別にはある。「重い皮膚病」を患った彼も同じような差別・痛みの中で、イエスと出会った。

イエスは彼の申し出を断わらない。41節で彼のことを「深く憐れんだ」とあるが、ギリシャ語では「内蔵」に由来する言葉。ユダヤ社会では内臓は人間の深い深い感情が宿るところだと考えられていた。日本語でも「はらわたが突き動かされた」と言うが、同じような響きを持つ。

「憐れむ」と言うと、憐れむ側はどこか上に立ち、安全地帯にいるかのように感じる。それでは本当の「痛みの共感」にはならない。しかし、そうではない。イエスはここで、重い皮膚病の人にはらわたを突き動かされる。だからこそ、一歩踏み出していく。安全地帯にはいない。手を伸ばしてその人に触れ、「けがれ」を共有し「清くされなさい」と宣言する。すると「重い皮膚病」は治り、彼は清められたのである。

新型コロナウイルスに感染した方たちの痛みに、「はらわたが突き動かされ」安全地帯にはいないイエスの姿が見えてくる。(有明海のほとり便り no.170)