神学書と牧師館

神学校時代にとてもお世話になったY牧師より、大量の本が届きました。全部で8箱(!)にもなりました。(普段だったらHさんから冷たい目線が届くのですが、「Y先生なら」と無事危機を逃れることが出来ました!)。Y先生いわく、それでもまだまだ本が残っていて「本箱を見ると隙間ができたのはわずかだけ」とのこと。「牧師あるある」で笑ってしまいました。

Y先生は東京・番町教会の新会堂建築を無事終わらせ退任されると、すぐにある教会の代務へ。昨年春に後任を招聘することが出来、ようやく隠退生活に入られています。もう使うことはないからと、送って下さったのです。

牧師の場合、現役時代に本は増え続けて牧師館のスペースを圧迫していきます。しかも大概は神学書なので、安いものでもありません。概算したら相当な金額になるのではないでしょうか。

けれども、現場に出ると、中々集中して読書する時間が取れないのも事実です。いま振り返れば一番集中して神学書を読めていたのは、神学校時代でした。にも関わらず、多くの神学生はアルバイトをしながらギリギリの生活を送っているので、神学書を買うお金がありません…

時々、神学校に隠退牧師から大量の神学書が届くと、みんなで「争奪戦」を繰り広げます。じゃんけんで順番を決めて、一冊ずつもらっていくのです。人気(?)作品になると、それを誰かが手にした瞬間「あぁ~!」と残念がり、「これと交換しよう」と交渉が始まりした。こちらも強い思いがあって手にした一冊は、不思議と今でもよく覚えているものです。

今回、神学校時代に逃し続けていた一冊『キリスト教平和学事典』が入っており、一人大興奮。もちろん来年正教師試験を控えている原野先生にも、沢山おすそ分けしましたよ(^_-) (有明海のほとり便り no.212)

KAPATIRAN -カパティラン-

毎年のクリスマス献金や幼稚園でコツコツと貯めた献金は、少しずつ宛先を変えつつ様々な所に送っています。特に幼稚園からの献金は、子どもの<いのち>に関わるところへ送ることを心がけています。

この3月には、荒尾・大牟田での水害支援をしている「九州キリスト災害支援センター」、放射能汚染から子どものいのちを守る働きをしている「会津放射能情報センター」および「放射能問題支援対策室いずみ」、アイヌ民族の子どもたちのための「アイヌ奨学金キリスト教協力会」、「新居浜子ども食堂」を続けられている新居浜教会へ献金を送ることが出来ました。小額ですが、献金を送ることで祈りが繋がっていければと願っています。

特にキリスト教会の働きとして、小さくとも決して諦めずに、子どもたちの<いのち>のために働く団体が多いことに気付かされています。その一つに日本聖公会東京教区による「カパティラン」があります。私の友人が理事長として頑張っておられ、自身も仕事で忙しいにも関わらず、折に触れてFacebookでカパティランのことを分かち合ってくれています。

ホームページにある歩みを見ると、1988年に教会へ来てくれたフィリピン人女性への英語ミサを提供することから始まったそうです。いまの大きな働きは外国にルーツに持つ若者たちの支援です。両親が働きのために日本に移住し、一緒に来た子どもたちの中には、経済的な貧困や日本語習得の機会が十分になかったために、学びたい意欲や学力はあるにも関わらず、進学や修学を諦めなければならないケースが多くあります。そういった子どもたちを給付制の奨学金で支えたり、「ごはん会」や「サマーキャンプ」で居場所づくりを行っています。まさにキリストに繋がる働きではないでしょうか。今年はカパティランにも献金を送りたいと願っています。(有明海のほとり便り no.211)

キリスト者の「自由」が持つ二側面

引き続き『ルターの心を生きる』(江藤直純著)を読み進めています。

宗教改革者マルチン・ルターの最も有名な著作は『キリスト者の自由』(1520年)でしょう。世界史の授業の中で、その名前を聞いたことがあるのではないでしょうか。ルターはその冒頭で2つの命題を示しました。

「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない」
「キリスト者はすべてのものの仕える僕(しもべ)であって、だれにも服する」

「自由な主人」であると「同時」に「すべてのものに仕える僕」であると言うのです。矛盾しているように聞こえますが、ルターの中ではまったく矛盾していませんでした。ポイントは「自由」理解にあるようです。

自由は社会的な拘束からの自由にとどまらないのです。パウロやルターが強調したのは、「罪からの自由」であり、善い行いという律法の軛からの自由なのです。身体的束縛や抑圧からの外的自由に加えて、内的、霊的な自由が強調されています。(p.146)

キリスト者には、この一方的な恵み(十字架の福音による「赦し」と「解放」)が与えられているからこそ、「自由な主人」なのです。けれども、ルターが示す「自由」はそこに留まりません。

「福音」とは「…からの自由」だというのは、事柄の半分だということです。自由にはもう一つの側面があるのです。それが「…への自由」なのです。…自由になったのだから、一切の義務から解放されたのに、あえて愛すること、つまり、そうやって他者に関わること、その相手のためにわざわざ苦労を引き受けること、すなわち仕えること(p.146-147) 

ますます「自由」が束縛されている日本社会で、「…からの自由」と「…への自由」を、キリスト者として胸に刻みたいと願っています。(有明海のほとり便り no.210)

教区互助献金の働きについて

九州教区総会の議案説明会がオンラインであり、牧師館のパソコンで参加しました。教区としても初めての試みであり、準備が大変だったはずです。にも関わらずスムーズな進行で3時間を予定していたところを、2時間半で終了することが出来ました。

普段、私たちが教会生活をしていると、中々教区の働きを感じることはないかもしれません。けれども、教区は私たち教会が、教会だけでは力も資源もない中で普段できないことを、してくれています。教区宣教基本方策にある図に、その多様性および重要性が記されています。

この中で、互助献金の働きを担っているのが「教会協力委員会」です。教区内で教師の謝儀保障援助金を必要とする教会・伝道所は9つあります。

けれども完全に生活を保障するものではなく、あくまで援助金であり、それぞれが副業をしたりしながら、教会の働きを担っておられます。梅崎浩二教師が委員長として次のように書かれています。

己の衣食のみに腐心して何のキリスト者か、自教会のみ、或いは己が好む集団をのみ思うて何のキリスト教会か、信徒も教師も主の御働きの広がりを覚えてますます、喜んで献げる者でありたいと願う。」

先日、荒尾教会から2020年度の互助献金が振り込まれていないことを、委員会の方から教えていただきました。すぐに会計役員より貯めていたものを振り込みました。今年度は反省を活かして年2回に分けて振り込んでいきたいと思います。(有明海のほとり便り no.209)

『ルターの心を生きる』江藤直純著

キリスト教保育連盟熊本地区には日本福音ルーテル教会の園がとても多く最初は驚きました。YMCAの園も多いのですが、そこの園長が出席されている教会もルーテル教会が多いように感じます。日本キリスト教団の園は少数派なので、他教派との出会いが豊かに与えられとても感謝しています。

そのような中で、いつかマルチン・ルターについて腰を据えて学び直したいと願っていました。(中々出来なかったのですが…(^_^;)。すると先週の地区総会の会場で、ハレルヤ書店が書籍の販売をして下さっており、何気なく眺めていたら、『ルターの心を生きる』という本を見つけました。しかも著者は江藤直純教師で、長く日本ルーテル神学大学で教えられた方であり、農村伝道神学校に通っていた時に、特別講義に来て下さっていたのです。早速購入し、少しずつ読み始めています。

ルターの神学で核となる「自由」「恵み・聖書・信仰のみ」などをとても分かりやすくまとめており、目から鱗の連発です。いつかみんなで読書会をしたい本となりました。

罪の赦しの福音のゆえに、罪や悪、死の力の束縛から解放されて自由となっているのがキリスト者の本質ですが、そこにとどまらずに、自由にされているがゆえに、その自由を用いて、喜んで他者に仕える者、奉仕をする者になっていくのだ、と言っていると思えてならないのです。……よく言う「~からの自由」は人間を抑圧する社会的な悪や内面的な罪から解放することとしてとても重要なものです。普通の国語辞典で「自由」を引けば自由とはこの意味でのことだと説明しています。しかし、聖書とそれに拠って立つルターは、「~からの自由」にとどまらないで、さらに一歩進んで「~への自由」へと招くのです。(p.26-27)