「東京」オリンピック

オリンピックのためにとてつもない練習と研鑽を積んできた、世界各地からの選手たちには、純粋にがんばってほしいと願います。

けれども、このタイミングで「東京」オリンピックを開催する必要がどうしてもあったのでしょうか?

私は大きな違和感を覚えています。東京都の新型コロナウイルス感染症の新規感染者数は1000名を超え、重症患者も74名いらっしゃいます。そして、報道によると「在宅を強いられた女性たちへの暴力や望まない妊娠の相談件数増加」「休業を余儀なくされた非正規雇用者の女性は5人に1人」「2021年1~6月の女性の自死者は前年同期間に比べ25%増(男性は7.2%増)」(週刊金曜日)とあります。コロナ禍は、感染症としてだけでなく、社会的暴力としても人を傷つけているのです。また、会場付近で生活するホームレスの方たちが追い出されることが続いています。これらはウイルスによる災害ではなく、人間によって引き起こされている人災です。

神さまから与えられた、かけがえのない<いのち>よりも大切なものとは一体何でしょうか?

今回の東京五輪で1兆円を超えるお金が使われていますが、これだけのお金があれば、「生きながらえる」ことが出来る/出来た人たちがどれだけいるでしょうか。

来週は8月に入ります。「平和」について思い巡らし・祈り・行動する月です。「東京」オリンピックの熱狂の中でこそ、「神の国」について「神の平和」についてしっかりと思いを向けていきたいと願っています。(有明海のほとり便り no.220)

キリスト教病院へ

昨日、心配なことがあり、かかりつけの小児科へ行きました。先生に相談すると「お父さん今日5時間くらい時間を作れますか?」と聞かれびっくりしつつも「はい」と。すると、「聖マリア病院に紹介状を書くから行ってみて下さい」と言われ、一旦牧師館に戻り二人で向かいました。

名前は聞いたことがあったのですが、久留米にあることを昨日初めて知りました。1時間以上運転して到着すると、思っていた以上にずっと近代的な大病院でした。子どもと二人ですごいねぇと、玄関に向かい自動扉を開けて入ると、目の前の電子掲示板には詩篇の言葉が綴られていました。箇所を思い出せないのですが、癒やしの詩篇でした。それを見て、私はとても嬉しくなり、励まされました。「神さまが共にいて下さる」と感じたのです。

大病院なので土曜日にも関わらず小児科は忙しそうでした。大分待って診断を受けるとレントゲンを撮ることになり、隣の病棟まで移動しました。私は一人レントゲン室前のベンチで待つこととなりました。複数枚丁寧に撮っていただくために、15分位でしょうか、随分長く待ちました。普段だったら、こういった待ち時間は、持参した本を読んで過ごしますが、どうにも心配が募り、それどころではありません。何も手につかずにいると、ふと廊下に聖母子像の絵が掲げられていることに気付きました。まさにここに掲げることが相応しい絵だったのです。

赤ちゃんイエスが生まれてきたのは、薄暗い家畜小屋でした。それは、闇の中に確かに灯るろうそくの光のような希望です。レントゲン室前の廊下で、検査を待つ患者さん・ご家族の心にも、温かい光としてイエスさまは確かに寄り添っておられるのです。この絵を見ながら、紹介していただいたのがキリスト教病院だったことは、神さまの導きだったと気付かされました。(有明海のほとり便り no.219)

部落解放祈りの日

日本キリスト教団では、1975年7月に「部落差別問題特別委員会」の設置を決議し、教団全体としての取り組みを始めていきます。この出発点を覚えて、7月第2主日を「部落解放祈りの日」としています。

荒尾に赴任してきて初めて、この荒尾にも被差別部落があったこと、そして部落差別があることを学びました。そのような中で、特に幼保小中高において、部落差別をなくすためにコツコツと活動を続けておられます。

人権啓発センターに集った時に、こんな話しを伺いました。

ある方のところへ一本の電話が最近入ってきた。それは、荒尾を離れて遠くに住む知り合いからだった。聞くと、どうも子どもの結婚する相手が荒尾の人間だということで、その相手の出身地が「(被差別)部落」かを聞いてきたのだ。電話を受けた方は、「(被差別)部落」かどうかを気にすること自体が時代遅れであり、おかしいと答えた。

いまだにこのような差別が身近にあることを学び、がっかりすると共に、この差別を被ってきた痛みはいかばかりだったかと感じています。荒尾市HPには次のようにありました。

部落差別の現状は、結婚差別や就職差別など心理的差別が根強く残っており、「身元調査事件」、「土地差別事件」、「差別発言・落書き事件」、「えせ同和行為・関連事案」が発生しています。また、インターネットの普及に伴い悪質な部落差別に関する情報が氾濫しており、人権侵害につながる事案が複雑多様化しています。

歴史を振り返れば、キリスト教会においても、部落差別事件が起こりました。荊冠の主イエスと共に、差別を乗り越えていきたいと願っています。(有明海のほとり便り no.218)

夫婦(家族)別姓

我が家は「別姓」で生活をしているので、初めてお会いする方たちの中には、少し混乱される方もいらっしゃいます。一日も早く「夫婦別姓」制度が実現することを願いつつ、今は暫定的に私が戸籍名を「後藤」としているので、子どもたちも「後藤」で生活しています。つまり「家族別姓」なのです。病院や銀行などで「後藤」姓を使わざるを得ないのですが、「後藤さん」と呼ばれても、自分のことが呼ばれているのに気づかないようなときもしばしば。「何だか不自由な社会だなぁ」とつくづく感じています。

一番問題に感じるのは、姓の選択の自由があると言いながら、実際は女性が改姓するケースが96%にも及ぶという事実です。これは「女性が結婚したら夫の姓を名乗るもの」という旧来の「家制度」(〇〇家に嫁ぐ)から来る考え方が根強く残っているからです。世界的に見てもこのような制度が残っているのは日本くらいですし、もちろん聖書が語る福音とは逆行するような考え方です。

「姓を変える」というのは思っている以上に様々な所に不具合が生じます。免許や銀行などの名義変更ももちろん面倒なのですが、研究者などの場合はこれまでの業績が分かりづらくなってしまったりもします。ましてや名前というアイデンティティに関わる根幹を揺るがすものでもあるのです。

ここ数年、選択的夫婦別姓制度が国会でも実現に向けて、ようやく少しずつ動き始めました。「選択的夫婦別姓制度」とは、これまで通りの「夫婦同姓」も、変えない「夫婦別姓」の自由も認めるものです。 先日の最高裁判決では「別姓訴訟」が敗訴しましたが、裁判官15人の内、夫婦別姓を認めないことは違憲と判断した4名の裁判官による意見には希望を感じるものでした。(有明海のほとり便り no.217)