樋口義也牧師は、64年神学校を卒業し、坪井教会伝道師また原水伝道所の主任者として過ごします。荒尾教会の後は、大阪相川教会に赴任されます。好善社の働きにも深く関われました。
教会は各聖日毎の御言葉によって立つことを純粋に信じ、ひたすら、説教の準備に多くの時間を用いました。一生懸命説教をしていたら、必ず、聞く耳を持つ人を増して下さる。という思いで、毎週の礼拝を迎えていました。…短い間ですが、若い伝道者を忍耐して、育てて下さったと感謝しています。
…当時の教会付属幼稚園は、無牧の影響で、園児20名にもとどかない、いつ閉園になっても不思議でない幼稚園でした。長老会でも、もし、伝道に不要なら、閉園してもかまわないという、意見も聞かれていました。私にも意見を求められましたが、荒尾市街から、かなり離れたところで伝道の使命を果たしていくには、幼稚園の働きは大きいと考え、めぐみ幼稚園の継続を決意いたしました。とは言え、園児募集の激戦区である荒尾では、駆け出しの若い牧師には、並大抵のことではありませんでした。…ほとんどの園は、スクールバスで送迎していましたから、めぐみは、私がキャロル360を運転して、朝夕の送り迎えをいたしました。
園の歴史の中で、園児20名にも届かない状況になったことがあったことを、初めて知りました。経営的にはどん底であったであろうことが、容易に想像できます。もしこの頃に閉園していたら、今とはまったく違う教会になっていたでしょう。そして岩高牧師や小平牧師が赴任することもなかったはずです。
何よりも伝道の使命として園が建てられていること、そしてどん底にも関わらず、懸命に、祈りながら、樋口先生そして先達たちが園の働きを担って下さったのです。(有明海のほとり便り no.236)