日本聖公会初の女性主教

昨日、日本聖公会北海道教区主教按手式・教区主教就任式が札幌で執り行われました。主教按手を受けられたのは笹森田鶴(ささもりたづ)司祭で、東アジアで初の女性主教が誕生しました。

日本聖公会とわたし達の日本キリスト教団はもちろん教派は違いますが、エキュメニカル(超教派)運動を通して共に歩んでいる仲間です。わたしも聖公会の友人や知人がおり、特に東日本大震災を通しての被災者支援活動においては、一緒に協力しあいながら、祈りあいながら歩んできました。

日本キリスト教団は歴史的には本当に初期の頃から、女性牧師が重要な宣教の働きを担ってきています。日本聖公会では、1998年12月に初めて女性司祭が誕生しました。笹森田鶴司祭はその直後1999年1月に按手を受けられました。そこに至るまでに、本当に長い苦しい議論があったと伺っています。それからおよそ20年が過ぎ、昨日初の女性主教が誕生したことは、日本聖公会のみならず日本のキリスト教界全体にとっても大きな喜びでした。

わたしはオンラインで按手式・就任式の様子を観させていただきましたが、その場には、全国の聖公会主教のみならず、日本キリスト教団・日本福音ルーテル教会・コプト正教会などからも招かれている方たちがいたことが、そのことを表していました。

笹森田鶴司祭は、東北におられた笹森伸兒司祭の娘さんですが、この伸兒司祭が長年「聖書を読む会」をBが仙台で通った聖クリストファ幼稚園の保護者向けに行って下さっていたのです。わたし達が園でお世話になったのは伸兒司祭の晩年でしたが、田鶴司祭のお働きを折りに触れ聞かせていただきました。

田鶴主教の新たな出発が守られますように祈りましょう。(有明海のほとり便り no.257)

東北教区放射能問題支援対策室いずみの今

日本キリスト教団東北教区では3・11から11年が経ったいまも、そしていまだからこそ、放射能問題支援対策室いずみの働きを続けています。

九州教区東日本大震災対策小委員会ではいずみの事務局長・服部さんにオンラインでインタビューを行い、Youtubeにアップしました。

服部さんのお話しをじっくり聞くのが今回はじめてで、とても新鮮でした。貴重な動画資料になったと感じています。チャプターも付けているので、お時間のある時に、興味のある部分だけでも、聞くだけでもぜひ!!

【動画チャプター】
00:00 | 自己紹介
09:43 | いずみの働き
14:13 | いずみと九州教区~奄美での保養プログラム~
28:54 | いずみの甲状腺検査
43:47 | いずみの健康相談を通して
53:53 | 教会・教区はどう見えているか
1:02:51 | 九州のわたしたちに特に望むこと
1:15:42 | 西岡委員・佐藤委員より応答
1:22:26 | 最後に

出かけ人と出会い・分かち合っていく教会に

フロイドとドリーンの道北センターでの働きはとても幅広いものでした。農村センターとしてあちこちの農場訪問をし、三愛精神(神を愛し、人を愛し、土を愛する)に基づいて年に二回農民が集まる三愛塾を行い、道北地区の小さな教会の礼拝に協力をし、また家庭集会を行い、道北センター英語学園を開いて子どもから大人まで英会話を教え、若者の奉仕活動の可能性を広げ、平和活動も大切にし、また精神障がい者の社会復帰を目指す現在の社会福祉法人である道北センター福祉会の種を蒔きました。
この働きを通して私が一番学んだことは教会がこのままで正しい、そして人が来るのを待っていればいいという姿勢ではいけないということでした。イエスは何よりも出かけて人と出会い、人と分かち合うことをしたと思います。教会も地域社会に於いて分かち合うこともあれば学ぶこともあり、地域社会の課題を学び続けることによって、また他の宗教とも関係を持つことによってこそ私たちはイエスの福音の意味、また私たちに求められている働きを知ることができると思います。(pp.5-6)

ロバート・ウィットマー宣教師が『教会教を越えて』(フロイド・ハウレット著)という本のまえがきに寄せた言葉です。ウィットマー先生は北海道名寄にある「道北センター」で長く働かれましたが、その前任者がフロイド・ハウレット宣教師だったのです。これを読み教会の宣教とは出かけ人と出会い・分かち合っていくことにこそが肝要なのだと、改めて気付かされました。

荒尾教会においては、荒尾めぐみ幼稚園がこの荒尾の地で子どもたち・ご家庭と出会い分かち合う役割を、まさになしています。この宣教の業をさらに深めていきましょう。また、それだけで満足するのではなく、この地でさらに人と出会っていく教会を祈り願っていきましょう。 (有明海のほとり便り no.256)

ウクライナの子どもたちを覚える祈り

ロシアによるウクライナ侵攻に終わりが見えない状況が続いています。

カトリックの教皇フランシスコが次のようにツイッターで発信しており、ハッとさせられました。

「犠牲者から流された罪のない血が、天に向かって叫び、願っています。戦争は終わらせてください。武器を黙らせてください。死と破壊の種をまくことはやめてください」(4/6)
「家を離れ、外国の地に逃れなければならなかった子どもたちのことを忘れないでいましょう。これが戦争のもたらすものの一つです。この子どもたちを、そしてウクライナの人々のことを忘れないでいましょう」(4/6)

わたしたちキリスト教会は、2000年もの間、イエス・キリストの十字架と復活を忘れないでいつづけたからこそ成立しているといっても過言ではありません。覚え続け、祈り続けることが信仰生活の根っこにあるのです。

主の祈りにあるように、み国がきますように、みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえと、日々祈り続けることが、わたしたちキリスト者に課せられた使命です。

2022年4月の受難節の時、わたしたちは祈っていきましょう。

一日も早く、戦争を終わらせください。

ウクライナから難民として逃げなければならない子どもたちを、お守りください。

この世界から武器がなくなり、核がなくなりますように。 キリストの平和が、神の国が、わたしたち一人一人に、そして世界全体に与えられますように。(有明海のほとり便り no.255)

うめきは神の耳には祈りとして届く

随筆家の若松英輔が「コヘレトの言葉」について、次のように語られている文を読み心打たれました。

「コヘレトの言葉」を一言でいうとしたら、私は「祈りの書」だと答えると思います。ここでいう「祈り」とは、決まった言葉を唱えることでも、自分の思いを語ることでもありません。旧約聖書には、神は人間のうめきを聞き逃さないという言葉が一度ならず出てきますが、私が考えているのは、うめきは神の耳には祈りとして届くということなのです。それは私たちの心よりも一段深いところから出てきている。それを神は見逃さない、という確信は新約聖書ではパウロの手紙を別にすれば、あまり語られないことです。(『すべてには時がある』pp.67-68)

「コヘレトの言葉」を「祈りの書」として捉えたことがなかったので、わたしはとても驚いたのです。

わたしたちの心は中々安定した大地のようなものにはならず、風が吹けば波が立ち、嵐が来れば濁流となるものではないでしょうか。さらにその心の奥底(魂と言ってもよいかも知れません)には、言葉にすることが出来ないうめきが確かにあります。そのうめきこそが、神さまには「祈り」として確かに届いているのです。いまこの社会・世界にはうめきが満ちていますが、神さまはそれを見逃さず受け止めて下さっているのです。その真実によって、わたしたちはこの社会を生き抜くことが出来るのではないでしょうか。

このようなメッセージ(福音)を必要としている方たち(わたし自身も含む)と、聖書を共に読み分かち合っていくことが荒尾教会の使命です。どうか2022年度が、福音の分かち合いを、さらに広め深めていく時となっていきますようにと祈ります。(有明海のほとり便り no.254)