関田寛雄牧師を覚えて

12月14日、関田寛雄牧師が94歳で召天されました。青山学院大学で教えつつ、桜本教会川崎戸手教会の創立に尽力し、神奈川教区巡回教師として、全国の諸教会・伝道所を支えておられました。何よりも出会いと現場を大切にされ、在日コリアンの人権回復運動や「日の丸・君が代」強制反対運動、平和運動など、関田先生の働きの幅はとても広く深いものでした。

巡回教師として、神奈川教区の中でも礼拝出席が少ない教会・伝道所の主日礼拝にそれぞれ出席し、励ましておられることを聞いていました。わたしが農村伝道神学校の最初の2年間を過ごしたまぶね教会も、関田先生に無牧期間を支えていただいた教会の一つです。父が関わる「全国キリスト教学校人権教育セミナー」にも、関田先生が必ず出席して下さっていました。

4年前にお招きした金性斉牧師(NCC総幹事)が、関田先生と韓国で開催された「日韓の和解と平和を求める祈祷会」に一緒に参加され、その時のことをFacebookに綴っておられます。

祈祷会を後にするとき、空港まで車で送ってくれる信徒に急かされていた私は関田先生に申し上げた、「先生、今出なければ飛行機に間に合いません」…関田先生は「平和の少女像の前で祈っていきたいんです....わたしはもう二度とここに来れませんから....」  私たち(名古屋の大島純男先生と共に)はそのようにしてあの日“平和の少女像”に立ち寄り祈りました......関田先生に導かれ間に合わない時間とはならなかったのです。

写真の中央で跪いて祈っておられるのが関田先生です。いま政府は軍拡と「愛国心」を強引に進めようとしていますが、神の平和と和解を祈り求め行動された、先生の歩みに倣っていきたいと願います。(有明海のほとり便り no.291)

児童虐待事件を巡って

静岡の園で起こった、1歳児への児童虐待事件はマスコミでも大きく取り上げられ、3名の保育者が逮捕、園長が市から告発されるという事態にまで発展しています。具体的な虐待行為は15にも及び、どれも子どもの心を深く傷つけるものです。保育現場であってはならないものばかりで、心を痛めています。被害を受けた子どもたちの癒やしを祈りましょう。

よく園内研修で引用する本の著者である高山静子先生(東洋大学)が、この事件を受けて「保育者の不適切な関わりをなくすために」という文章をご自身のブログに投稿されています。

親はたった一人のわが子に声を荒げ手を上げることがあります。乳幼児期の子どもと関わることは、誰がやっても難しいのです。保育者は、その難しい年齢の子どもたちを集団で保育をします。1歳児クラスの基準は、子ども6人に対して保育者1人です。1歳児の三つ子、五つ子を一人で育てられる親がいるでしょうか?保育は、いい人レベルでできるような簡単な仕事ではありません。
…就職してから子どもとの関わりの技術を園内研修で学べる園はごく少数です。そうでない園に就職した場合には、個人の人間性で対応するしかありません。そのためどの園でも不適切な関わりが起こる可能性があります。
保育者の関わりは、専門性として身につけるものであり、高めることができるものです。不適切な関わりをしてしまう保育者は、知らないだけ、技術を身につける機会がないだけです。

園内研修で、改めて子どもたちへの不適切な関わりについて学び、あたたかい声かけと子どもたちの楽しい声に満ちたキリスト教保育を作り上げていきたいと願っています。(有明海のほとり便り no.290)

横野朝彦牧師をお迎えして

実に5年8ヶ月ぶりの再会となりました。神学校で過ごした3年間、本当にお世話になった恩師でしたので、このような機会を与えていただき、心より感謝です。礼拝説教では、久しぶりの「横野節」を堪能することが出来ました。声はもちろん何よりも内容が毎回よく練られ、惹きつけられるものとなっており、一人の説教者として新たに学ばされる思いでした。

そしてお昼を挟んでから「間口や軒をゆったりと」と題して講演をして下さいました。これからの地方教会についてのメッセージをとお願いしました。住宅地や街中にある教会を歴任された横野先生にとっては難しいと言われていたのですが、実に深いアドバイスと指針をいただきました。

・教会は蛸壺のようになりがち。閉鎖的になり、変化に耐えることが出来なくなる。
・教会が人と本当に出会い繋がるのは「現場」。神学論議ではない。
・牧師も教会に閉じこもっているのではなく、できるだけ現場へ出かけ、教会も喜んで送り出しあげてほしい。悩みが自分だけではないことに気付かされる。
・ナザレのイエスこそ辺境に生きた人。ガリラヤは汚れた土地だった。
・辺境において人は「祈り、労働、時間、自然、静寂、忍耐、沈黙、献身そして正義」を取り戻す。
・番町教会の建築方針を「Open for All」とした。きょうかい(教会)の内に外に、きょうかい(境界)をつくらない。
・東八幡キリスト教会(バプ連)は同じ建築家で建築する際に「軒の教会」を目指された。色々な人が雨宿り出来る場所となるために。
・荒尾教会の関係人口(定住でも交流でもなくその地域に興味があり関わっている人たち)を増やしていこう。

荒尾教会の77年目の歩みが開かれたものとなっていきますように。(有明海のほとり便り no.289)