ベトナム人元技能実習生に逆転無罪判決

芦北町のみかん農園で働かれていたベトナム人技能実習生レー・ティ・トゥイ・リンさん(当時21歳)は、2020年11月に双子の赤ちゃんを死産されました。もちろん妊娠には気付いていましたが、その事実を周りの誰にも打ち明けることが出来ず、病院にも行くことが出来ず、前日まで繁忙期の最中に働き続けました。

前日は土曜日であまりの痛みで半日だけ働き、夕方からは耐え難い腹痛の中、一人で過ごします。そして次の日曜日の午前中、双子を孤立出産(死産)します。月曜日、雇い主らに病院に連れて行かれ出産が発覚。病院が警察へ通報し、木曜日には死体遺棄の容疑者として逮捕されてしまいます。

そもそもなぜリンさんは、誰にも打ち明けることが出来なかったのでしょうか。実習生たちの中では、妊娠したのが分かったら帰国させられてしまうというのが常識だったからです。実際に、妊娠含め様々な理由によって、本人たちの意思は聞き取られず、半強制的に帰国させられてしまう事例が数多く発生しています。技能実習生たちには安心して恋愛・妊娠・出産する権利が剥奪されているのです。そのような中で、政府は妊娠などを理由に技能実習生を解雇してはいけないと「注意喚起」を行わざるをえない状況が広がっています。

孤立出産に追い込まれたリンさんの無罪を求める署名を、カトリック信徒含む支援者たちが呼びかけ9万5000筆以上集まりました。リンさん自身も赤ちゃんを「捨てる」意図はまったくなかった中で、熊本地裁・福岡高裁は有罪判決でしたが、先日最高裁によって逆転無罪を勝ち取りました。

女性技能実習生が小さくされている現実、孤立出産せざるをえない現実のただ中に、イエス・キリストは共におられるのではないでしょうか。(有明海のほとり便り no.304)

森分和基教師のメッセージを受けて

九州教区東日本大震災「12年」を覚える礼拝では、岩手にある宮古教会を牧会されている森分和基教師より、メッセージをいただきました。

以前から、Facebookなどで交わりのある森分教師でしたが、直接の交流はほぼありませんでした。けれども、今年度のキリスト教保育連盟の園長研修で、森分教師が発題され、その内容に深く感銘し、やり取りをさせていただく中で、今回の依頼へと繋がっていきました。九州教区のYoutubeでご覧いただけますので、ぜひお時間をつくっていただければと願っています。

森分教師は神学校卒業後、初任地が宮古教会であり21年目を迎えます。宮古教会にはもともと「ひかり幼稚園」という付帯施設があり、牧師園長として歩まれていました。そこに12年前の3・11が起こります。大地震・大津波が宮古の街を襲いました。宮古教会・幼稚園も深く傷つきました。そこから、血が滲むような思いをしつつ、教会・幼稚園を建て直し新たな歩みを始めておられます。いま、ひかり幼稚園は荒尾めぐみ幼稚園と同じように幼保連携型「認定こども園宮古ひかり」となって、地域にかけがえのない大きな働きをされています。

衝撃的だったのは、震災後、無力で何もできない自分を責めて、何年もの間、毎日自分が殺される夢を見続けた…という告白でした。牧師として、牧師園長として、そして一人の人間として、3・11が先生に与えた傷の深さを思いました。

しかし同時に、牧師であられたお父様や、信徒の方たちが「命がけで愛してくれた」お陰で、「ここも神の御国」であること、神の愛をいただき生かされていることを語られたメッセージに、深く心打たれました。(有明海のほとり便り no.303)

3・11という出会い

3・11が近づくにつれ、様々なことが頭を駆け巡り、ソワソワし、居ても立っても居られない気持ちになる。東北教区被災者支援センター・エマオそしていずみ愛泉教会で過ごした、あまりにも密度の濃い5年間を思い出し、その記憶の波に飲まれていくような思いがする…。

わたしにとって3・11は、「3・11」という記号ではなく、エマオやいずみ愛泉教会を通して出会った、お一人おひとりを意味する。仙台市沿岸部の笹屋敷や七郷中央公園仮設、祝田(石巻)、会津放射能情報センターや飯舘電力、鹿島栄光教会や石巻山城町教会…そこで出会ったお一人おひとりから、聴かせていただいた「言葉」の重み。

そして、あの5年間で与えられた貴重な出会いが、わたしの<いま>に問いかけてくる。「自分は<いま>何をしているのだろう?」、「自分は自分を、<いま>を生きているのだろうか?」と。

わたしが出会った、被災された方たちは、3・11によって、何かを失っていた。かけがえのない家族、飼い犬、畑、家、仕事…。<人生>そのものと言ってもいいかもしれない。それだけ大きな何かを、失ってしまっていた。

同時にわたしは、被災された方たちとの出会いによって教えていただいた。<いまを生きる>こと、この<いのち>を生きること、何があろうとも生き抜くことを。この教えをわたしは忘れずに歩み続けていきたい。

いまも痛みの中にある一人ひとりに、神さまからの深い癒やしがあることを祈ろう。そして、<いま>を生き抜こうと歩まれている一人ひとりに、神さまからの確かな支えと守りがあることを祈ろう。(有明海のほとり便り no.302)

信仰を告白するということ

使徒信条について、先々週書かせていただきました。古代教会のキリスト者たちの信仰告白に、現代のわたし達が継承し汲み取るべき、信仰のエッセンスが多くあることは言うまでもありません。けれども同時に、信仰告白は何か教条化され、律法化されてしまうものでもないはずです。もしそのようになってしまったら、すぐに形骸化し、わたし達の信仰は閉じたものとなり、イエス・キリストの信仰と離れたものとなるはずです。何をどのように信仰として告白するのかは、聖霊によるものであり、神の息吹に開かれているものです。

カナダ合同教会の「新しい信条」を紹介します。

わたしたちは一人ではありません わたしたちは神の世界に生きています。
わたしたちは神を信じています。
神は創造され、その創造のみ業を続けられています。神はイエスをこの世につかわし、言葉を肉体とされて、世と和解し、新しくされました。聖霊によってわたしたちや他の人々に働かれています。
わたしたちは神を信頼します。わたしたちは教会となるように招かれています。
神様がご臨在されていることを祝い、被造物を尊重しつつ生活し、他者を愛し、仕えるため、正義を求め、悪を退け、十字架に釘(つ)けられ、復活されたイエスをわたしたちの審判と希望とするために。
生と死、死を超えた生命であられる神がわたしたちと一緒に居られます。
わたしたちは一人ではありません。神様に感謝を捧げます。

 「わたしたちは一人ではありません」という信仰告白に、深く共感します。これもまた大切な信仰告白の一つではないでしょうか。(有明海のほとり便り no.301)