武本喜代蔵(1872-1956)

月刊誌『福音と世界』で、東京基督教大学の山口陽一教授「『日本的キリスト教』を読む」と題して連載をされています。「日本的キリスト教」とは戦前から戦中にかけて見られた思想で、キリスト教信仰と「日本的」なものを無批判に繋げようとしたものです。当時の「神国」と聖書の「神の国」を無批判に繋げ、天皇制への迎合だけでなく、戦争賛美に至るものでした。その濃淡はあるものの、多くのプロテスタント教会の牧師や信徒に、この傾向が見られました。連載では、当時の代表的なキリスト者たちにどのような「日本的キリスト教」の要素があったかを解き明かしています。

昨年の7月号では武本喜代蔵(1872-1956)という組合派の牧師の、『日本的基督教の真髄』という著作を取り上げています。

自分は何も彼も疑うてゐるが、一つ疑へぬものがある。それは自分は今霊に渇いてゐる淋しくてたまらぬと云ふ事であった。その時の事を思ひ出した。内に渇きがあり、外に水がある。それをグイと飲んで何とも云へぬ快感と満足を覚える。そして元気になって働きさへすれば、理屈はどうでも好い。それが即ち真理に相違ないと決心したのである。それ以来一時疑うたキリストをその儘信じ、祈って愛を実行するとともに、心身爽快となった。アゝこれだ。神は自分をこゝに導かうとしてをられたのだと感謝し、爾来今日迄四十年間信仰の土台は揺がないのである。 (p.195-196)

このように明快な信仰を抱くようになった武本ですが、同じ本の中で「基督教の日本化は外形的なことではなく、皇祖皇宗より伝わり来た唯神の道、君と国への至誠献身の道である」(山口p.59)と綴っていきます。

信仰者として、歴史・社会の中で何を信じ告白していくのか、改めて問われています。(有明海のほとり便り no.358)

『迷える社会と迷えるわたし』

精神科医・香山リカさんの著書です。香山さん自身は、「長く長く求道中で、時間があるときには日曜礼拝に出かけている」(p.3)ことを知りました。香山さんは九条の会をはじめ平和や人権についても数多く発言されておられ、そのような香山さんが、日本のキリスト教会のことについて語っています。

月乃さんたちは教会に行くようになって、そこで仲間を見つけて止まり木のような場所として教会という場を発見して、そこから次のステップに行った。…いまの競争社会、学校や企業ではない、うまくボランティアグループとか若者の小さなグループとかを見つけて、ここだと思えればいいけれど、自分の身近に同じ仲間がいるとは限りません。そうなったとき、月乃さんがそうだったように、教会はどこの地域にもあって、そこには人がいて定期的に礼拝をやっていたりする。(pp.19-20)
治療も構造化して決められた時間、決められた場所に毎週行くことで本人も心がしっかりと整理されそこを中心として生活や心の中が立ち直っていくということがあるんです。私は、教会の礼拝に毎週日曜日の何時という時間に来る。そこに行けば礼拝が行われている、守られている。例えば調子が悪くて行けなかった、でもいまやっているだろうな、あるいは来週行けばまたやっている。…基本的には1回同じところへ行けば同じようにやっているという精神科の医療の進め方と教会のあり方はちょっと似ているところがあるのかなと思うんです。(pp.22-23)

幼児教育、特にインクルーシブ保育の現場では「構造化」という言葉が度々出てきますが、同じような視点で教会における礼拝を考えたことがなく、とても新鮮でした。

「とまり木」のような荒尾教会を目指していきましょう。(有明海のほとり便り no.357)

両園を覚えて

昨日は、お天気にも恵まれ無事に霊泉幼稚園入園式を行うことが出来ました。5名の新入園児・ご家族が出席して下さり、とてもあたたかい出会いの時となりました。

いつも思うのですが、霊泉には、荒尾めぐみとはまた一味違う空気が流れています。そこで働いて下さっている教職員・園舎・子どもたちすべてが違うので、当たり前といえば当たり前です。けれども、不思議と荒尾めぐみと同じような温度も感じるのです。とても温かく、陽だまりのようなポカポカした感じです…☺。特に霊泉では少人数だからこそ、とても手厚く丁寧に関わることが出来ています。

いよいよ今年度は園舎建築の年となりました。つい先日、国から補助金の内示が出たと山鹿市から報告があり、準備も本格化してきています。全体として3億円規模のプロジェクトです。霊泉はもちろん荒尾めぐみにとってもそのような金額を扱ったことはなく、学法として果たして本当に成し遂げることが出来るのか大きな不安もあります。けれども、1月から呼びかけた霊泉の園庭改修工事用の献金において、すでに69件・合計723,000 円もいただいており、これが大きな励ましになっています。本当に小さなわたし達を覚えて祈り献金を送って下さる方たちがこんなにもおられるのです。

荒尾教会が建てた荒尾めぐみ幼稚園も、山鹿教会が建てた霊泉幼稚園も、いま社会的にも組織的にも様々な課題に直面していますが、子どもたちのために、神さまのために、try and learnで歩んでいきたいと願っています。

「主の招く声が聞こえてくる。こんなに小さな私たちさえも、みわざのため用いられる」(讃 21-516)ことを信じ、共に支え合い補いあいながら、歩んでいきましょう。どうか両園のことを覚えてお祈り下さい。(有明海のほとり便り no.356)

“Life of the Beloved”

先週のイースター礼拝で紹介したヘンリ・ナウエンの著作です。ナウエンはイェール大学やハーバード大学で神学を教えていましたが、それらをすべて投げ捨てて、ラルシュ共同体で暮らすこととしました。そこでは、「なかま」と呼ばれる知的ハンディを持つ人たちと、生活を支える「アシスタント」と呼ばれる人たちが、祈りを中心とするフループホームで共同生活をしています。ナウエンはラルシュ共同体で「なかま」として、一人の司祭として、生活を共にしていたのですが、ある時、聖餐式で分かち合われるパンが、わたし達の人生を導く大切な指針になることに気付かされたのです。

イエスは「パンを取り(take)、賛美の祈りを唱え(bless)、それを裂き(break)、与え(give)」ました。

Taken わたし達も一つのパンとして神に取られ(taken)ました。一人ひとりは神に「選ばれ」「愛されて(beloved)」います。
Blessed そして神は、わたし達一人ひとりに人を生かす<いのち>の言葉、祝福を与えて(blessed)います。
Broken けれども、人生の中で身が裂かれる(broken)な出来事に出会うことがあります。にも関わらず、神さまはまったく変わらずに一人ひとりを選び(take)愛し(love)、いのちの言葉を与える(bless)のです。
Given このように神に愛されているわたし達(the Beloved)は、独り子イエス・キリストが隣人のために生きた(give)ように、自分自身だけでなく隣人のために用いられる(given)ように招かれているのです。

聖餐式で用いられるパン、イエスが最後の食卓や5000人もの人たちと分かち合った時の食卓を、人生のガイドとしていきましょう。(有明海のほとり便り no.355)