我らの肉体の復活は終の日を待つべきである。併し終の日の来るまで、死後の我らは無知覚・無力のまま横たわっているのではあるまい。我らの愛する者はその死後、我らの単なる記憶の中に住む言うには余りに力強き働きを、我らの間に、又世に対して為しつつあるではないか。彼らの現実的の働きは、死後に於いて却って生前よりも強きものがある。それは一層純なるものとなったからであろう。
矢内原忠雄「死についての思ひ」(若松英輔『亡き者たちの訪れ』より)
矢内原忠雄(1893–1961)は戦後東大総長を担った経済学者であり、同時に内村鑑三の影響を強く受けたキリスト者でした。若くして両親を亡くした経験が、矢内原をキリスト教信仰へと導くきっかけとなったといいます。
キリスト教では死者を崇めたりするようなことはしません。偶像礼拝になるからです。また死後の世界は、神の領域であり、わたし達人間には到底推し量ることの出来ないものです。
けれども、肉体の死に終わることはありません。神さまは3日目にイエスさまを復活されたのです。肉体の死によって終わるような命ではない、永遠の命を、イエスさまを通して私たちに与えて下さったのです。そして肉体の死を迎えても、復活のイエスが確かにわたし達一人一人を包みこんでおられるのです。
また、愛する人の死は、それで終わりにはなりません。矢内原が指摘するように、「その死後、我らの単なる記憶の中に住む言うには余りに力強き働きを、我らの間に、又世に対して為しつつある」のです。
召天者記念礼拝では、特にこの二点を心に留めて、先達たちを覚え共に神を仰ぎましょう。(有明海のほとり便り no.435)
