「防衛」のために?

28日、アメリカ軍とイスラエル軍が共同でイランの首都テヘランを攻撃しました。まだその被害は明らかになっていませんが、報道によれば、学生にも被害が及んでいます。

攻撃理由は、イランによる核やミサイルの開発を「防衛」するためです。しかし、近代における戦争の多くが「防衛」を目的に始められていった歴史があります。日中戦争、第二次世界大戦、イラク戦争…挙げればきりがないくらい、「防衛」「自衛」を目的に攻撃が始まり、戦争が繰り返されてきました。その結果はどうだったでしょうか?

ウクライナやガザを見れば明らかなように、何よりも多くの人間の<いのち>が人間によって殺されるのです。ガザにおける死者は7万2千人を超えており、その中に、女性・子ども・高齢者をはじめ一般市民が多く含まれていることは言うまでもありません。「防衛」のための戦争は、結局<いのち>を守るのではなく、<いのち>を奪っていくのです。

自分たちの<いのち>さえ守られれば、相手の<いのち>はどうなっても構わない、むしろ殺しても致し方ないという諦めと<いのち>の軽視が、「防衛」の根っこにあります。

アメリカは今回のイランに対しての軍事作戦を「壮大な怒り(Epic Fury)」と、イスラエルは「吠える獅子(Roaring Lion)」と名付けました。

わたし達が祈り願う「神の国」は、怒りと暴力ではなく、和解と非暴力に満ちた世界です。イエスがエルサレムに入城する際に選んだのは軍馬や猛獣ではなく、誰も乗ったことのない子ロバでした。

狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。…わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。(イザ11:6,9)

(有明海のほとり便り no.451)