「カルト問題と信教の自由」

昨日、「カルト問題と信教の自由」と題して講演をいただきました。

カルトについて、浅見定雄教師(東北学院大学名誉教授)は次のように定義しています。

ある集団をカルトと呼ぶ基準は、その集団の教義や儀礼が<奇異>に見えるかどうかであってはならない。あくまでその集団が、個人の自由と尊厳を侵害し、社会的に重大な弊害をもたらしているかどうかであるべきである。

つまり、新宗教すべてがカルトではありませんし、逆に教義として「正当」であるとされるキリスト教諸教会においても、カルト化することはあるのです。日本基督教団はじめ日本の諸教会においても、牧師による性的暴行やハラスメントなどの事例が起こっています。カルト問題に取り組むことは、自分たちの教会がカルト化していないかを振り返る機会ともなるのです。

統一協会による被害は多岐に及んでいます。霊感商法・正体を隠した伝道活動・合同結婚式・献金や献身の強要等の被害によって、深く傷ついた方たちが本当に沢山おられます。日本からは約7000名が合同結婚式によって韓国へと渡っていますが、その多くが精神的にも経済的にも苦しい状況に置かれているそうです。夫からのDVに苦しみつつも、日本の家族とは縁を切って帰るところもなく、周りからは「あなたの信仰によって夫を変えなければいけない」と強要されている実態があります。

「信教の自由(信じる自由と信じない自由)」をカルトは自己防衛のために使いますが、例えば統一協会こそが信者たちの「信教の自由」を巧みな手段によるマインドコントロールなどで奪っているのです。そのことがようやく周知されつつあり、「解散命令請求」が出されたのです。(有明海のほとり便り no.347)

「ぼくにとって『筑豊』はガリラヤだった」

教区教師研修会が3年ぶりに開催されました。別府不老町教会を会場に、犬養光博教師(平戸伝道所協力牧師)「ぼくにとって『筑豊』はガリラヤだった」と題して二日間に渡る講演をされました。

犬養先生は同志社を卒業後すぐに筑豊に移り、福吉伝道所を立ち上げ46年間そこで働きを続けました。筑豊における諸課題だけでなく、カネミ油症闘争、指紋押捺拒否闘争、菊池恵楓園にある菊池黎明教会での詩篇の学び、愛農聖書研究会など、その働きは常に現場に根ざし多岐に及ぶものでした。犬養先生の生き様に影響を受けた教師・信徒は数多くいます。

犬養先生は無教会の故・高橋三郎先生からも大きな影響を受けています。

ぼくの信仰は、一方で高橋三郎先生を通して与えられたイエス・キリストと、他方、現場、その現場で出会ったイエス・キリストと、二つの中心をもっている。これが一つになれば良いのだが、ずっと緊張関係を引きずってきた。そして近ごろはそれで良かったのではないかと思うようになってきた。(『「筑豊」に出合い、イエスと出会う』p.28)

この「緊張関係」について、「高橋三郎先生のイエス・キリストは垂直の神であり、筑豊のイエス・キリストは水平の現場であり、この十字架が自分の中にある」と説明して下さり、とても腑に落ちました。

ある無教会の集会で、高橋先生の前座で犬養先生が田中正造について講演したところ、高橋先生に「何であのような話をさせたのか」と批判する方たちがいました。すると「現場で苦労して闘っている者の話は、黙って聞くもんだ」と高橋先生が反論されたそうです。お二人は教派を超え、互いに深く信頼し、まさに十字架の神学を生きてこられたのです。(有明海のほとり便り no.346)

保科隆牧師をお迎えして

本日は、荒尾教会の礼拝に出席するために、わざわざ東京より保科隆牧師がお出でくださっています。わたしが保科先生に出会ったのは仙台で、当時仙台東一番丁教会を牧会しつつ教区副議長をはじめ様々な責任を担われていました。わたしは東北教区被災者支援センター・エマオに遣わされていましたが、様々な課題にぶち当たりました。その度にセンター長・上野和明牧師(当時・仙台愛泉教会)とよく話し合い祈りました。ある時、上野先生が「保科先生に相談してみよう」と提案され、二人で仙台東一番丁教会を訪問したことがあります。多くの課題があり一体何の相談だったのか、定かではありませんが…、中々答えが見い出せない中で、アドバイスをいただき共に祈ったことを覚えています。

以来、保科先生にはエマオのことだけでなく、教区の様々な働き、わたしが出席していた委員会のほぼすべてでご一緒しました。特に、東北教区が2013年10月に放射能問題支援対策室いずみを立ち上げた時には、保科先生が室長という重責を担われました。わたしは海外教会からの献金を集めたり、ゲストをご案内したりするくらいしか、いずみには関わっていませんが、保科先生がユーモアと祈りを持って導かれる姿に励まされていました。

また、東京電力福島第一原子力発電所に最も近く、教会員も原発事故によって離散してしまった小高伝道所・浪江伝道所の代務者として、ずっと支えておられました。

2016年には、保科先生は福島教会に転任されました。正直とても驚いたのをはっきりと覚えています。仙台の大教会の牧師として終えるのではなく、まさに神さまからの呼びかけ・callingに導かれて決断し歩まれたのです。再会に心から感謝いたします。(有明海のほとり便り no.345)

日本文学とキリスト教

日本文学におけるキリスト教の影響は無視できないものがあります。書きすぎでしょうか…。つい文学作品にキリスト教や聖書の痕跡を見つけると、ワクワクしてしまうので、人よりそのセンサーは敏感なのでしょう。

須賀敦子(1929-1998)という文学者の作品を読み始めました。須賀は20代後半から30代が終わるまでをイタリアで過ごし、イタリアで結婚し、日本文学を翻訳し、日本に帰国してからはイタリア文学の翻訳も手掛けました。さらに彼女は最晩年の10年間に数多くのエッセイを書き高い評価を得ます。

池澤夏樹という文学者が『須賀敦子全集第1巻』(河出文庫)の解説に次のように記しています。

須賀敦子自身が、ヨーロッパに行く前に自分の意志で洗礼を受けてカトリックの信徒になった人物である。…この点を須賀敦子は文章の表面には書かなかった。しかし、彼女の文学の全体を統括しているのはこの原理である。人々はよりよく生きよう、より御心にかなうように生きようと努力している。それはむずかしいことだから失敗もあるし脱落する者も出る。それでも、生まれた以上はよりよく生きるという義務を神に負っているのだという原則は変わらない。
神は土地を造って祝福し、人を造って試練を与えた。だから須賀敦子のイタリアは美しく、そこに住む人々は苦難にみちた衰退の人生を送ったのではないか。彼女の文章の魅力はこの構図から生まれるのではないだろうか。(pp.449-450) 

この解説を書いた池澤自身が親戚の旧約学者・秋吉輝雄と共著で『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』を出版し、キリスト教への深い理解を持っている文学者の一人です。だからこそここまで端的に、須賀文学の背景にある構図(信仰)を捉えることが出来ているのだと思います。(有明海のほとり便り no.344)

『浜辺達男の遺稿と想い出集~主と共に~』

先日、東京・世田谷にある代田教会員である、Mさんより、一冊の本が送られてきました。『浜辺達男の遺稿と想い出集~主と共に~』という冊子です。浜辺達男先生はこの荒尾教会の3代目牧師(1957年~1962年)で、2020年4月15日に横浜で召天されました。87歳でした。

荒尾教会出身のMさんは、8月の教団新報に出たわたしの記事を読んで連絡を下さった際に、この記念集の中の荒尾教会時代に関わる箇所を写しで送って下さったのです。ぜひ他の文章も読みたいとMさんにお手紙を書いたところ、早速送って下さいました。浜辺先生は荒尾教会の後、福岡の前原教会、青山学院大学、ドイツ留学、弘前学院大、東洋英和女学院大学と、キリスト教大学の教育に長く関わられた方です。けれども、記念集の中で思いのほか多くの箇所に荒尾教会の名前が出てくるので、驚きました。つまり、周りの友人たちも心配するほど、大変な荒尾時代(5年間)だったのです。荒尾教会50周年誌に浜辺先生が次のように綴られています。

卒業直後の未熟な私が担当した5年間はよき成果を上げたとはとても思えません。
…1959年秋から炭住街を舞台に、指名解雇の是非をめぐって、炭鉱マンとその家族が、隣り同士で口論したり、相互に不信を増していった
…このような嵐の中にあって、附属幼稚園の経営も大きな難問にぶつかっていました。園児募集がうまく行きませんでした。それでもやめなかったのには、教会員の頑張りがあったからだと思います。
…私にとって、荒尾教会での五年間の経験は、それ以後歩んできた私の人生を規定するほどの、大きな影響を与え続けてきました。 

当時の浜本先生や教会員の方たちの祈りと献身があったからこそ、いまの荒尾教会があります。この歴史を覚え続けていきましょう。(有明海のほとり便り no.343)

能登半島地震

1月1日16時10分、石川県能登地方で大地震により能登半島地震が発生しました。この地震によって現在126名もの方たちが亡くなったことが判明しています。依然捜索活動は続いています。また、多くの方たちが避難生活を余儀なくされています。不安や恐れの中にある多くの方たちが、どうか一日も早く、安心して過ごせるようになりますように祈ります。また、わたし達に出来るささやかな一歩として、募金箱を設置しますので、協力をお願いします。

こういった災害が起こった時、情報が行き届かず、支援が届かない方たちがいます。移住労働者の方たちや外国にルーツのある方たちには、言葉のバリアだけでなく文化のバリア、そして差別が日本には根強く残っています。どうか「災害弱者」と言われる方たちに真っ先に必要な助けが届きますように。

被災した教会・牧師には、全国から様々な問い合わせがひっきりなしに来ます。ただでさえ、被災者として、そして同時に支援者として動かなければならない中で、ストレスや疲れでバーンアウトしてしまうこともあります。他の支援者も同様です。どうか支援者の方たちの心・身体・健康が支えられますように。休みを十分に取ることが出来ますように。

能登半島地震によって教会付帯施設である園も被災しています。どうか園児・保護者そして教職員が、園生活を取り戻していくことが出来ますように。子どもたちの笑顔そして豊かな遊びが戻ってきますように。(有明海のほとり便り no.342)

『聞く技術 聞いてもらう技術』

東畑開人さんという臨床心理士による新書で、とても読みやすい良著です。傾聴することよりも、ただただ聞くことで人は自ら回復していく力があること、専門家によるカウンセリングも大切だけれども、その前に日常の中で「聞く」があることの方がずっと大切だということが、綴られていました。

神学校では、牧会学牧会心理学という授業があり、カウンセリングの手ほどきを受けました。相手の思いに耳を傾けることの意味や目的そして手法などを学び、いまでも牧会上の技術として重宝しています。けれども、わたし自身どこかで、「聞く」ことの価値を軽んじていたことに気付かされました。

「聞く技術」と「聞いてもらう技術」はセットになっていて、グルグルと回っている必要があります。…目を凝らしてまわりを眺めてみてください。社会のいたるところでモジモジしている人が見つかるはずです。…不安のあまりに暴走したり、痛みのあまりに他者を攻撃している人も「聞いてもらう技術」を使っています。そこには聞かれていない長い話があって、誰かに聞かれることを待っています。「なにかあった?」と声をかけ、彼らの抱えている複雑な事情を、時間をかけて聞いてあげてほしい。白か黒かの極端な結論だけではなく、その裏にある灰色の長い話に耳を傾けてほしいのです。…自分がちゃんときいてもらえているときにのみ、僕らは人の話を聞くことができます。聞いてもらわずに聞くことはできない。(pp.237-238)

牧師は、立場や役割があり、さらに個人の秘密に関わるため、周りに話すことの出来ない悩みを抱えがちで、精神的に病むことは決して珍しいことではありません。牧会において「聞く技術」はもちろんですが、「聞いてもらう技術」をより広げていく必要があると痛感しました。(有明海のほとり便り no.341)

12/24 クリスマス礼拝、イヴ礼拝案内

クリスマス礼拝 12月24日(日)10時半より

クリスマスイブ礼拝 12月24日(日)18時より

※きりんさん(年長)・うさぎさん(年少)によるページェントがあります

世界では戦禍にある人々が沢山おられます。このような時だからこそ、神さまの独り子イエスさまの降誕を共に喜びましょう。神さまは共にいて下さいます。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

マタイによる福音書1章23節

原発をとめる農家たち

ドキュメンタリー映画『原発をとめた裁判長~そして原発をとめる農家たち~』の上映会および講演会(グリーンコープ主催)が福岡でありました。講師は、二本松営農ソーラー代表近藤恵さんと、二本松有機農業研究会代表の大内督さんでした。

2014年、関西電力大飯原発の運転停止命令を下した樋口英明・福井地裁元裁判長に焦点を当てた映画です。3・11で起こった東京電力福島第一原子力発電所事故を経験した日本社会は、脱原発へと舵を切らず、結果的にはまったく逆を行っています。どんどん原発を再稼働させていく流れには、人間の<いのち>の軽視が根底にあります。「コスパ」では測れないはずの人格権(憲法13条)が軽んじられている現実を、映画を通して目の当たりにしました。樋口元裁判長は、いま原子力発電の危険性を伝える活動を続けておられますが、その理論の明快さと、真摯な語りぶりに深く感銘を受けました。

そして、原発をとめる農家たちの姿が、合間合間に挟み込まれていきます。福島県二本松市で有機農業を営む大内さん・近藤さんが、放射能汚染という大きな傷みから、一歩一歩もがきながら歩みだしていく姿に、涙が止まりませんでした。近藤さんはソーラーシェアリングという、耕作放棄地などの上にソーラーパネルを高く設置することで、下の農地も生き返っていくシステムを広めています。内村鑑三『後世への最大遺物』を紹介するシーンなどもあり、キリスト教信仰の証とも言える作品でした。

近藤さんは高校時代の先輩で、寮の二人部屋で同室したこともある親友です。荒尾まで車で案内し、お連れ合いと一泊していただきました。尽きない話に、時間を忘れるほどで、久しぶりの再会に励ましと刺激をたくさんいただきました。(有明海のほとり便り no.340)

私は何も忘れたくない

ドロテー・ゼレ(1929-2003)というドイツの女性神学者がいました。アメリカ・ユニオン神学校でも教え、平和主義者として積極的に政治・社会問題に関わり、20世紀の神学者として大きな影響を与えました。

農伝時代にゼレに出会いましたが、特に思い出深いのは、「神学読書」という授業で、ゼレの主著の一つである『神を考える─現代神学入門を読んだことです。しかも教室は町田の校舎ではなく、日本聖公会東京諸聖徒教会といって文京区にある教会の集会室で、講師は当時牧会されておられた山野繁子司祭でした。日本聖公会では女性司祭実現までの道のりが長かったのですが、1999年に2番目に誕生した女性司祭が山野先生だったのです。その神学読書を受講したのはわたしと山口政隆教師(奄美・徳之島伝道所)の二人だけでした。いま思えば、ものすごく贅沢な学びのひと時でした。

ゼレの回想録『逆風に抗して』が出版され積ん読していたものをようやく手に取りました。ゼレは「アウシュヴィッツ以後の神学」を強く意識して、神学を展開していきます。

私は何も忘れたくない。なぜなら、忘却は死者なしに人間になることができるのではないかという錯覚を育てるからである。事実、私たちは死者の助けを必要としている。私は友人であるアンネ・フランクをとても必要とした。(p.38)
私を捕えて離さない何かがこの伝統の中にあった。それは、イエス・キリストだった。死に至る拷問を受けても、虚無主義者あるいは冷笑的になることのなかったイエス・キリストは、ドイツの悲劇の後、私の周囲にいる多くの人とは違って見えた。(p.55)

現代日本社会において、ゼレを再読(re-read)する必要を強く感じています。(有明海のほとり便り no.339)