トランプ2.0とキリスト教

日本キリスト教団では、2月11日を「信教の自由を守る日」としています。「紀元節」として神武天皇が即位した日を祝われていたものが、戦後廃止されたにも関わらず、「建国記念の日」として再び制定されたことに反対して、キリスト教界・宗教界が「信教の自由を守る日」としたのです。

「信教の自由」は人間が持っている根源的な権利です。戦時中、天皇を神とする国家神道によって、「信教の自由」が脅かされ、迫害され殉教していった先達たちがいたこと、けれども多くの日本人キリスト者たちは迎合していったことを、忘れてはなりません。

毎年熊本地区では2月11日に信教の自由を守る日特別講演会を行っています。今年は、関西学院大学の大宮有博教授を招き「トランプ2.0とアメリカ・キリスト教」という題で講演をいただきました。

・旧統一協会の関連団体であるUPF(NGO)やWashinton Times(日刊紙)と、トランプ政権が深く結びついている
・トランプ政権は「信教の自由」および「テロ対策」を口実に、イスラム教徒の多い中東・アフリカからの入国制限という差別的政策を行った
・フランクリン・グラハムは父ビリーより政治的であり、福音派よりも宗教右派
・中絶やトランスジェンダーを「反キリスト教」とラベリングし、一気に保守化させた
・トランプ現象は、今の社会に不満を抱いている層を、根拠のない主張で真実を曲げて、惹きつける。選挙・議会・世論といった民主主義の根幹を劣化させていく

「信教の自由」をトランプ政権は乱用し、むしろ他者の「信教の自由」を大きく侵害しているのです。常に目を覚ましていなければなりません。(有明海のほとり便り no.399)

『教会のマネジメント 明日をつくる知恵』④

いままで、この本から様々なヒントを得て来ましたが、最後の第三部は著者二人の対談となっていて、特に分かりやすい箇所となっています。

(濱野道雄)他の教会をモデルにしてマネジメントやリーダーシップのスタイルを模倣すると、やらなくてもいいことをやっているような徒労感だとか、あるいは、やらなくてはいけないことをやっていなかった、ということが生まれるケースがままある気がします。だから、何か新しいことをしなくてはいけない、変えなくてはいけないというのではなく「肩の力を抜いていい」、そして「できることがまだたくさんあるんじゃないですか」ということを伝えたいです。(p.170)

何かをモデルにして模倣していくことは、はじめ方としてとても有効な手段です。けれども、そのモデルとまったく同じようには出来ないことにも、往々にして気付かされます。その時に、諦めるのではなく、楽しく続けられるように工夫することではないでしょうか。

(濱野道雄)教会に生き生きしてほしいですね。誰かにやらされているのではなく。…イエスの物語をきちんと生き続けること。少し立ち止まり、このことを一度言葉にして整理してみる。マネジメントはこういうときのツールとして、とても役立つと思っています。…元気というのは単に声が大きくなるというようなことではありません。ああ生きていて良かった、これからも生きていこうと思えるようになったとき、初めて世界も日本も、ゆるされるならば変わり始めていくだろうという希望を持っています。(p.177)

最も根源的な「これからも生きていこう」「ゆるされている」というメッセージを、「生き続けて」いきましょう。(有明海のほとり便り no.398)

『教会のマネジメント 明日をつくる知恵』③

大きく三部構成になっています。第一部は経営学者であり教団の信徒である島田恒さんが、第二部は神学者の濱野道雄教授(西南学院大)が、そして第三部は二人の対談で構成されています。特に第二部での議論は、現在の教会が直面している課題に対して、鋭く問題提起をしています。

ミッション・ステートメントとは何でしょうか。簡単に言えば、「神が、私たちの教会に、『~を一緒にしよう』とおっしゃっていること=使命(ミッション)を言葉にして、教会の人、教会の外の人に宣言(ステートメント)したもの」となるかもしれません。…ミッション・ステートメントが有益だとすれば、それは何故でしょうか。一つには、教会も歴史が長くなり、第2、第3世代となってくると、自らの組織維持が一番の「ミッション」になりがちだからです。「世のため・世と共にある教会」ではなくなるのです。…教会は、変わり続けることによって、少し居心地が悪いくらいでいい(!)と私は思います。(pp.102-103)

荒尾教会・荒尾めぐみ幼稚園の場合、組織維持が一番の「ミッション」になっているとは思いませんが、常に振り返ることは大切です。神さまが、荒尾教会・荒尾めぐみ幼稚園に何を一緒にやろうと呼びかけておられるのか。

牧師園長という立場になり常々感じることがあります。それは、わたし自身に神さまから求められている資質として、与えられている環境に合わせていく柔軟性と共に、課題やヴィジョンを提案していくささやかな(時に大きな)勇気です。特に、何か変化がもたらされる際には、誰かしらモヤモヤを抱えやすいことに気付かされています。そのモヤモヤが大きくなりすぎないように配慮すると共に、一緒に考えていくきっかけとしたいと願っています。(有明海のほとり便り no.397)

『教会のマネジメント 明日をつくる知恵』②

この本で語られている「マネジメント」は「教会ビジネス」ではありません。むしろ、教会が神さまから託されている使命に、正面から向き合い・計画し・実現させていくことであり、「2000年変わらざるミッションを、変わりゆく個人や社会のニーズに応えつつ一体化させ、宣教を進めること」(p.60)がマネジメントの役割なのです。

教会は、社会や人々の環境や意識を見極め、そのニーズに届くよう配慮することが必要です。言い換えるならば、伝えたい方々の現場に降り立って、その心情に応えるべく、ミッションと一体化させてメッセージを発信していくことが重要です。教会が一方的に聖書講解を発信するだけでは人々に届きにくいのです。(p.53)

それでは、荒尾教会が置かれているこの地域社会そして人々のニーズはどのようなものがあるのでしょうか? まずは、霊的なニーズとしての教会・礼拝があると言えるでしょう。1946年に宮崎貞子先生がご自宅を開放して始められた家庭集会に、集われた方たちの多くは女性たちや中高生でした。当時の霊的なニーズに応え、そして小さな群れが今年79周年を迎えること自体が、霊的な働きをしっかりと繋いできた証です。けれども、礼拝もいまある形が完成形だとは思いません。常に霊的なニーズに届くような配慮がなされていく必要があります。子どもとの合同礼拝が定着しましたが、もっと子どもたちが神さまの愛を満喫できるプログラムが出来るかもしれません。キリスト教や信仰を語る場がもっとあってもよいのではと話し合い、第3主日礼拝後のキリスト教カフェが始まりました。

楽しみつつ、霊的ニーズに応えるべく挑戦を続けていきましょう。(有明海のほとり便り no.396)

circle(サークル)

キリスト教保育連盟九州部会主任研修会が熊本であり、主幹のE先生、H先生(霊泉)とわたしの三人で参加しました。充実した学びと出会いに笑顔あふれる一泊二日となりました。

広渡純子先生(九州ルーテル学院大学・元学長)による講演「原点から届けられるメッセージ~キリスト教保育の始まりを担った女性宣教師たち~」では、日本におけるキリスト教保育が、男性宣教師の連れ合いたち女性宣教師たち、そしてそのミッションの深く共鳴した女性保育者たちの、神さまの愛への信頼と応答から始まったことを学びました。150年前、子どもたちの教育、特に幼児教育の重要性などを日本ではほとんど誰も理解していませんでした。児童労働に駆り出されている子どもたちも多くいました。そのような中で、子どもを一人の人格としてみる、子どもを中心とする保育を彼女たちは推進していきました。日本の教育において「子ども主体の保育」の重要性が広まりつつありますが、キリスト教保育が先駆的な実践をしてきたのです。

1902年に佐賀幼稚園(ルーテル派)がエマ・リパード宣教師夫人とM.B.エカード宣教師によって始められました。九州では活 水に次ぐ2番目、佐賀県では最初の幼稚園でした。広渡先生が紹介して下さった1枚の写真では、朝の集いの写真で、子どもたちが輪になって座っています。英語で“circle(サークル)”と呼んでいたそうです。一人ひとりが尊重されるこの輪の中に、イエスさまが共におられたのです。(有明海のほとり便り no.395)

キリスト教保育はインクルーシブ

わたしが荒尾めぐみ幼稚園に遣わされてから、いくつか新たに始めた取り組みがあります。その一つが、2020年度から始めた全教職員との個人ミーティングです。教職員一人ひとりのワークライフバランスの状態確認・改善、キリスト教保育の振り返り、そして何よりも信頼関係の構築を願って年3回(春・夏・冬休み預かり期間中)行っています。一人ひとりの人柄や保育への思い、いまの園の強み・課題がよく理解出来る貴重な面談となっています。

年末年始に行う個人ミーティングは、特に来年度の働きについて、このまま継続して下さるかを伺う大切な面談です。

その中で、特にA先生とのミーティングが胸に響きました。もともとは保護者として荒尾めぐみ幼稚園に深く関わって下さった方です。A先生のお子さんは、自閉症スペクトラムがあり、お連れ合いと話し合い、悩む中で、療育機関を通してこの荒尾めぐみ幼稚園と出会われました。お子さんが卒園し、いまは保育補助として、発達に大きな凸凹があったり、情緒が不安定だったりする園児のサポートをして下さっています。

ある園児の話しになった時に、「〇〇さんはいま一番伸びしろがある時期なんだと思います」と、温かい笑顔で教えてくれました。「気になる子」「困った子」として見るのではなく、「育ちの伸びしろが一杯ある子」として温かく関わっていく尊さに気付かされました。A先生ご自身の家庭での経験、園や療育に通う中での経験からの「まことの言葉」でした。

「インクルーシブ保育でないキリスト教保育はない」と戸田奈都子教師(川内教会・のぞみ幼稚園)から学んだ言葉と響き合っています。(有明海のほとり便り no.394)

『教会のマネジメント 明日をつくる知恵』

「教会とマネジメント??」本のタイトルを見た時にクエスチョンマークがいくつも頭の中に浮かびました。「マネジメント」は、生き馬の目を抜くビジネス社会で使われる考えであって、一週間の間そこで傷つき疲れたわたしたちが毎週日曜日に集うこの教会とは、到底結びつくものではないと思ったからです。けれども、共著者の濱野道雄牧師(西南学院大学)の名前を見て、この本が単なる「教会ビジネス本」でなく、確かな神学に基づいていることが分かりました。同時に、園長・理事長として日々こども園の運営に責任を持つ身として、「保育マネジメント」の学びを最近集中的にしており、「マネジメント」という言葉自体へのアレルギー反応(?)は、大分収まっていたのです。読み進めていくと、マネジメントとは「組織をどうしたら大きくしていけるのか」ということだと誤解をしていたことに気付かされました。

教会も、誰もがそこで生きる意味を感じ、自分の居場所になっていくことができ、広くミッションの実現に役立っていくようなあり方を考えることがマネジメントだと思うんです。(p.163) 
社会運動をするにしてもNPOにしても、マネジメントが必要です。そうでないと、あっという間に無責任で自己満足なものになってしまうところがあります…社会的な活動をしている教会のほうが数も増えることは、社会学的調査から言えそうです。けれども、数を増やすための手段として社会的なことをやるのでは、本末転倒になってしまう。そもそもイエスは、みんなと一緒にご飯を食べて、誰も友のいない人のところに行く、という素朴なところで働きました。(p.166)

では、具体的にどのようなマネジメントが教会に求められているのか。次号に続きます😉(有明海のほとり便り no.393)

2024年の歩み

能登半島地震で幕を開けた2024年でした。死者412名にも及んだ災害の傷跡が癒えることはありません。さらに、その遅すぎる復興作業に、被災された方たちの思いはいかばかりでしょうか。「風化」や「忘却」をしてはなりません。祈りに覚え続けましょう。

同じ学法で歩んでいる霊泉幼稚園(山鹿教会)では、祈り続けてきた園舎建築が本格化しました。ちょうど1年前に、園舎建築のための補助金の内示が出て、3億円規模のプロジェクトが始まりました。困難を極めたのは入札でした。入札に最低10社集める必要があり、TSMCバブルに人手不足もあり、Y先生を中心に必死で入札に参加して下さる業者を探しました。入札が無事終わるまで、ハラハラ過ごしつつ祈りました。地元の三和建設に決まった際には大きな安堵でした。2月完工予定を目指して、三和建設も象設計集団もとても丁寧かつ着実に建築を進めて下さっています。

O教会が無牧となりました。1月より新たに代務者が与えられると伺っています。地区や県は違いますが、車で10分のところにあるお隣の大切な教会です。困難な歩みに必要な支えと守りがあることを祈りましょう。

教会に関わる一人ひとりにとっても、決して平坦なものではありませんでした。悲しみや痛みを伴う出来事もありました。社会も、教会も、園も、家庭も、そして一人ひとりも、神さまからの導きと守りがあることを祈りましょう。(有明海のほとり便り no.392)

「荒尾教会の伝道」

『日本基督教団熊本坪井教会 独立五十周年記念誌』(1958年発行)の中に、信徒・宮崎貞子先生による文章「荒尾教会の伝道」が掲載されています。

…初め二年間程は集会の人数も不定で出席者は入れ代りたち代わりまことに淋しい思いをいたしましたが、その中、十五人前後のやや安定した集会を持つに至りました。1948年のクリスマスには初穂として三名の方々が受洗せられ大きな感謝と喜びが与えられました。引きつづき毎年約三名の受洗者がありまして、1949年の春には松木先生と坪井教会の御厚意により同教会荒尾伝道所として新しい出発をいたすことが出来ました。…予算七十万円をもって会堂の建築を思い立ちました。このために内外協力会より三十五万円の援助がありましたが残り三十五万円の募金は相当骨が折れました。教会員は婦人と青年のみでその上少数でありますから広く土地の人々にも援助を仰がねばなりません。或る時は数日間旧友を歴訪し或る時は婦人の会員四、五名が市議会の席に出かけて議員方に訴え、又小中学校の運動会その他の催しには売店を開きなどして全会員が祈をあつめ力を尽して、ようやく二年間に予定の額を与えられました。・・・1951年4月26日荒尾市のやや南寄り有明海を見渡す増永の小高い丘に三十二坪余の会堂献堂式と共に第二種荒尾教会設立式を挙げることが出来ました。又これと同時に附属幼稚園を開設致しました…とは申せ荒尾の伝道はまだ決して容易なことではございません。農夫が堅い堅い土を耕して種子を蒔くように、農村に特有な根強いいろいろの困難を一つ一つ克服してキリストの救の聖言の宣教に当られる牧師先生とこれを援ける教会の兄弟姉妹方のために一日も祈を忘れることは出来ないと考えて居ります。

この祈りを繋いでいきたいと願っています。(有明海のほとり便り no.391)

『生きる』

詩人・谷川俊太郎さんが召されました。詩作だけでなく、『スイミー』『ピーナッツ』の翻訳など、作品の価値は計り知れません。特に詩『生きる』は、わたしの中でとても大切な詩であり、読むたびに深い慰めをいただきます。

生きているということ いま生きているということ それはのどがかわくということ
木漏れ日がまぶしいということ ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみすること あなたと手をつなぐこと
生きているということ いま生きているということ それはミニスカート
それはプラネタリウム それはヨハン・シュトラウス それはピカソ それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ そして かくされた悪を注意深くこばむこと
生きているということ いま生きているということ 泣けるということ 笑えるということ
怒れるということ 自由ということ
生きているということ いま生きているということ いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ いまぶらんこがゆれているということ
いまいまがすぎてゆくこと
生きているということ いま生きているということ 鳥ははばたくということ
海はとどろくということ かたつむりははうということ
人は愛するということ あなたの手のぬくみ いのちということ

このような福音を分かち合っていきたいと願っています。(有明海のほとり便り no.390)