内実を問う

遣わされた教会を閉じなければならないとき、牧師は深く傷つきます。無力さや敗北感にさいなまれ、召命や信仰を見失うことさえあります。そして牧師だけでなく、残された信徒たちも傷つき苦しむことになります。…一度できた教会がなくなることは、地域にも傷を残します。発展していく町には学校や病院ができ、商店が増え、歓楽街がにぎわい、教会も伝道にやってきます。しかし、町がさびれると学校も病院もなくなり、商店も飲み屋も、そして教会も去っていきました。その事実は、見捨てられた地域にずっと残ります。その後で再び「隣人愛」とか「信徒の交わり」などを説かれたとしても、その内実はどうかと、地域の人々はじっと見定めているのです

久世そらち牧師(札幌北部教会・教団副議長)が『信徒の友7月号』に書かれていました。北海教区や九州教区などでは、過疎化や少子高齢化の中で、確実に教会員の数が減り、場合によっては他教会と合併や、解散を余儀なくされています。またいま新たに新型コロナウイルスという重い現実を前にしています。

この荒尾教会においても、決して他人事ではありません。この地域における人口減少も避けがたい現実です。また、山鹿教会を代務した1年では、ますますこのことを思わされました。問われるのは、私たちの「信仰の内実」なのでしょう。

この荒波を前に、荒尾めぐみ幼稚園・霊泉幼稚園は学法を同じくして、共に歩み始めています。では、教会はどうでしょうか。山田教師を副牧師として招聘した意味を、改めて深めていきたいと願っています。(有明海のほとり便り no.166)