創立75周年記念礼拝を終えて

創立75周年を迎え、先週は岩高澄(きよし)牧師を大阪よりお招きし無事創立記念礼拝を行うことが出来ました。礼拝には小平善行牧師もお越し下さり、愛餐会では丁寧なご挨拶をいただきました。

岩高先生を新大牟田駅にお送りした次の日、先生より御礼のメールをいただきました。

私にとっては、懐かしさと、旧知との出会いと、新たな出会い。
荒尾教会の今日の姿と佐藤先生の働き、75年の歴史。からだ一杯に感謝と喜びを頂いた3日間でした。

3年間という短い間だったにも関わらず、ものすごい熱意を持って荒尾教会・荒尾めぐみ幼稚園のために尽くされ、寝る間を惜しんでの日々でした。その頃に教諭として働かれた、Nさんのお話しを一緒に伺う機会がありました。すると涙ながら岩高先生との当時の出会いを語って下さったのが心に響きました。

また、最終日のインタビューを通して驚いたのは、岩高先生が目指された幼児教育も、小学校のような一斉保育ではなく、素材(遊具・環境)を整えて子ども自らが遊びを深めていく教育だったということです。子ども自らに育つ力があることを信じ、応答的・対話的に関わっていく保育は、いままさに注目されている保育ですが、元来キリスト教保育が願ってきたことです。なぜならキリスト教保育において、子どもたちは神の子(かけがえのない命)であり、豊かな賜物(タラント)を一人ひとりに授けて下さっているからです。岩高先生が始めていった保育は後に、小平善行牧師にも継がれていきますし、まさにいまのめぐみ幼稚園が目指しているキリスト教保育です。

最後に、記念礼拝の準備のために祈り多くのご奉仕をして下さった、教会員の方たちに心より感謝いたします。(有明海のほとり便り no.238)

岩高澄牧師(6代目、1971年春~1974年春)

岩高澄(きよし)牧師は、越生教会、東梅田教会、須崎教会を経て71年に荒尾教会に赴任。荒尾教会の後は、郵便局長を引き継ぎ、協力牧師として東梅田教会を支えました。先生より荒尾時代を振り返る文章を送って下さいました。

建物としては礼拝堂が主で、後方に三畳程の集会室と、側面に更に八畳程の部屋、それに隣接した職員室、ここで三歳児までの三クラスの幼稚園の業が行われていたのです…園児数が四〇名にも充たない中、三名の教諭は奉仕的な報酬でそれでも教育熱心な者ばかりです。それだけにこじんまりと母の会を中心に、家族的な雰囲気の幼稚園です。…自由保育、幼児期の発達を考慮した領域的対処教育、思い出すばかりですが、真剣に取り組んでいたのは事実です。…お母さん達の口コミは大変効きました。母の会が集めて来た願書で何と次年度の園児数が増えてしまったのです。

献身的な岩高先生たちの働きがあり、記録によると小平先生が引き継いだ時には100名以上の園児数になっていました。

私にとって或意味で一番充実した時期だったように思います。激しく、戦いのような三年間でしたが、遣り甲斐のある三年間でした。しかし、一段落ついた時期でもありましたから、もしかするとこの上は、私が傲慢になるので、神さまがストップをかけられたのかもしれません。…僅か三年で荒尾を去ることとなったのです。
教会は、私たちのために牧師館まで建てて下さり、今後に期待も寄せていて下さったのです。幼稚園でも、母の会や園児のご家族からどうして辞めるのかと、ある方は転任させないように陳情に行くなどと言われて…一所懸命断りを言ったことでした。私としても去り難い、心残りの思いがつのるばかりでした。

本日は、岩高先生を大阪よりお招きします。何よりもこの出会いをつくって下さった神さまに感謝する時としましょう。(有明海のほとり便り no.237)

樋口義也牧師(5代目・1966年春~1971年春)

樋口義也牧師は、64年神学校を卒業し、坪井教会伝道師また原水伝道所の主任者として過ごします。荒尾教会の後は、大阪相川教会に赴任されます。好善社の働きにも深く関われました。

教会は各聖日毎の御言葉によって立つことを純粋に信じ、ひたすら、説教の準備に多くの時間を用いました。一生懸命説教をしていたら、必ず、聞く耳を持つ人を増して下さる。という思いで、毎週の礼拝を迎えていました。…短い間ですが、若い伝道者を忍耐して、育てて下さったと感謝しています。
…当時の教会付属幼稚園は、無牧の影響で、園児20名にもとどかない、いつ閉園になっても不思議でない幼稚園でした。長老会でも、もし、伝道に不要なら、閉園してもかまわないという、意見も聞かれていました。私にも意見を求められましたが、荒尾市街から、かなり離れたところで伝道の使命を果たしていくには、幼稚園の働きは大きいと考え、めぐみ幼稚園の継続を決意いたしました。とは言え、園児募集の激戦区である荒尾では、駆け出しの若い牧師には、並大抵のことではありませんでした。…ほとんどの園は、スクールバスで送迎していましたから、めぐみは、私がキャロル360を運転して、朝夕の送り迎えをいたしました。

園の歴史の中で、園児20名にも届かない状況になったことがあったことを、初めて知りました。経営的にはどん底であったであろうことが、容易に想像できます。もしこの頃に閉園していたら、今とはまったく違う教会になっていたでしょう。そして岩高牧師や小平牧師が赴任することもなかったはずです。

何よりも伝道の使命として園が建てられていること、そしてどん底にも関わらず、懸命に、祈りながら、樋口先生そして先達たちが園の働きを担って下さったのです。(有明海のほとり便り no.236)

井柳福次郎牧師(4代目・1963年春~1965年春)

井柳福次郎牧師は、静岡県に生まれ、63年日本聖書神学校卒業し、荒尾、鳥羽、四日市教会を牧会し、02年隠退。2018年18年11月10日に87歳で召天されました。

神学生時代、宮崎姉と同じ東京の美竹教会で教会生活を許された私に、荒尾教会を奨めて下さったのは同姉と恩師浅野順一先生でした。先ず、夏期伝道ということになって、1962年の夏に荒尾教会を訪ねた時が最初の出会いでした。ドラマチック?な夏期伝道を体験して帰京し、荒尾教会に赴任しましたのは翌年の4月でした。三池炭鉱労働争議の直後のことでその波紋は教会にも伝わっていました。…その秋、三川鉱の爆発事故があり、458名の犠牲者が出ました。全国からのお見舞品の分配や、関係組合員の御宅にお伺いしました。
…こうした尽きぬ楽しい想い出の背後には教会に仕える諸兄姉の厚い祈りと支えがあったことを忘れません。独身時代の半年、そして結婚後、私共家族が主に仕える諸兄姉から暖かい交わりと励ましをたくさん頂きましたことを合わせて感謝致します。荒尾在任中に生まれた長男(基名)も今は結婚して聖和大学の教師として、妻みどりもささえられてこひつじ幼稚園にそれぞれ勤務しております。

荒尾教会創設に尽くした宮崎貞子先生は東京の恵泉女学園で1953年から1962年まで英語と聖書の教師として働かれました。当時出席されていたのが、著名な旧約学者でもある浅野順一牧師が牧会する美竹教会でした。そこに神学生として出席していた井柳先生が初任地として荒尾教会に遣わされたのです。新任教師として、三池炭鉱労働争議そして三川鉱炭じん爆発事故という激動の中での働きに困難は尽きなかったはずです。けれども何よりも教会員の「厚い祈りと支えがあった」こと、その多くの先達がすでに召されていることを召天者記念礼拝の今日、覚え繋いでいきたいと願っています。(有明海のほとり便り no.235)