子どもの命を活かす教育とは

先日、文科省から2021年度一年間における日本の小・中学校における不登校児童生徒数は、244,940人だったという調査結果が出されました。2020年度に比べると48,813人も増加していることが分かりました。他にも、いじめの認知件数は小学校において増加しています。自死した小中高生の数は368人でした。ここには数では到底推し量ることの出来ない、痛みがあります

インターネットの記事で、中学時代不登校となったAさんの体験談が載っていました。Aさんは勉強も部活も頑張る中学生活だったのですが、ある日突然、朝布団から出ることが出来なくなりました。

「最初の頃は『学校に行かせないと』という思いが強くて、怒ったり泣いたり。今思えば言わなくていいことを沢山言ってしまった。学校に行かないとどうなるのかなって…」
不安と焦りがあった。布団をかぶって部屋から出てこない息子について、専門の医師に相談。返ってきたメッセージにハッとした。
「これ以上子どもを追い詰めて、果たして来年まで生きていてくれるでしょうか?」
学校に行くか行かないかのレベルの話ではなく、生きていてくれるかどうか―。医師からは「携帯が少し充電できてもすぐに電源がきれてしまうように、フル充電できるまで動かさないこと」とアドバイスされた。

ここから少しずつ親子のあり方も変化し、関東在住のAさんは日本最北の小規模公立高校に「地域みらい留学」という制度を利用し進学しました。 学校教育のあり方を抜本的に見直し、変えていく必要があることを、誰しもが感じています。イエスさまが招かれ・祝福され・愛されている子どもたちを活かす教育を、模索していきましょう。(有明海のほとり便り no.284)

『昭和史1926-1945』

半藤一利(1930-2021)の本を教会員さんのご家族より紹介していただき、読み進めています。

『昭和史1926-1945』は45万部以上売れた代表作の一つであり、「昭和」がどのように始まり終戦に至ったのか、特に軍部を中心に政府そして昭和天皇がどのような考えで太平洋戦争へと突っ込んでいったのかを、とても分かりやすく解説しています。そのような視点で日本の近現代史を学んだことがなかったので新鮮に感じつつ、「上の人たち」と「隅に追いやられた人たち」のギャップを痛感していました。この本では、植民地支配された朝鮮半島の人たちなどの視座にはほとんど触れていません。そこが焦点ではないので致し方ないのかもしれませんが…。

けれども、この「昭和史」を著者は決して肯定しているのではなく、むしろ「政治的指導者も軍事的指導者も、日本をリードしていてきた人びとは、なんと根拠なき自己過信に陥っていたことか」(p.507)と批判的に捉えるのです。

よく「歴史に学べ」といわれます。たしかに、きちんと読めば、歴史は将来にたいへん大きな教訓を投げかけてくれます。反省の材料を提供してくれるし、あるいは日本人の精神構造の欠点もまたしっかりと示してくれます。同じような過ちを繰り返させまいということが学べるわけです。(p.503)

半藤は「昭和史」から学ぶ教訓には、「国民的熱狂をつくってはいけない」「最大の危機において日本人は抽象的な観念論を非常に好む」「日本型のタコツボ社会における小集団主義の弊害」「何かことが起こった時に、対症療法的な、すぐに成果を求める短兵急な発想」などを挙げています。

これらの教訓を、いまの日本政府や日本社会が活かしているとは到底思えない現実があることにも気付かされました。(有明海のほとり便り no.283)

Good enough caretaker

副主幹をして下さっているE先生と月に一度ミーティングを行っているのですが、最初に必ず研修を設けています。少しでもキリスト教の学びもしたいと願い、『神さまが見守る子どもの成長』(石丸昌彦著)という本を読んでいますが、わたし自身学ばされることが多く、とても良著です。

先日一緒に読んだ箇所で、ドナルド・ウィニコット(1896-1971・イギリスの精神科医・小児科医)”Good enough mother(ほどほどの母親)”という言葉を遺していることを知りました。

この言葉は勘違いしないよう注意が必要です。「本当は完璧が良いのだけれど、人間は完璧ではありえないから、ほどほどで満足するしかない」という意味ではありません。「完璧な母親はかえってよろしくない、ほどほどの母親こそ最高の母親」という意味なのです。…どんなに愛情深い母親でも、ちょいちょい失敗をします。子どもが望んでいないのものを与えたり、望んでいるものでも見当外れのタイミングで与えたりすることが、どうしても起きるでしょう。そんな時、子どもは自分の不満を母親に伝えなければなりません。知恵を働かせ、言葉や行動でアピールし、自分の望む方向へ母親を誘導しようとするはずです。その反復こそが子どもを成長させるのだ、ウィニコットはそう指摘したのです。(p.38)

社会に溢れている「〇〇をすれば子どもが〇〇になる」といったようなキャッチフレーズが、保護者(caretaker)に無言の圧力(「完璧を目指せ」)を与えています。それは保育者においても同様です。

けれども、神さまはわたし達を100点満点にかけがえのない<いのち>として造って下さいましたが、同時に「欠けある土の器」として造られました。完璧ではなく「ほどほど」を心がけましょう。そして「ほどほど」だからこそ、祈り・支え・赦し・生かし合うわたし達でありたいと願っています。(有明海のほとり便り no.282)

召天者記念礼拝のご案内

キリストの平和がありますように。

召天者記念礼拝および墓前礼拝を次のように執り行います。神さまのもとに召された先達たちを覚え、共に祈りを献げましょう。

様々なご事情でご出席出来ない方たちも、それぞれの場で祈りをお献げ下さい。

日時 2022年11月6日(日) 10:30~11:30
場所 荒尾教会礼拝堂
※礼拝後、教会墓地へ移動し墓前礼拝を持ちます。
※新型コロナウイルス対策のため手洗い・消毒・間隔を空けての着席にご協力下さい。

11/27 創立76周年記念礼拝

神さまの守りと導きにより、荒尾教会では76年の歩みを過ごすことが出来ました。感謝を込めて、次のように記念礼拝を行います。

礼拝に参加されたことのない方も、ぜひご参加下さい!

日時 2022 年 11 月 27 日(日) 10時半 ~ 11時半

聖書 イザヤ書11章1~12節

説教題「希望に生きる」

講師 横野朝彦牧師(元・番町教会)

1945年生。同志社大学神学部卒業後、高槻日吉台教会、岡山教会、番町教会を牧会後、隠退。日本クリスチャン・アカデミー関東活動センター所長や農村伝道神学校理事も兼務した。現在、岡山に在住しつつ無牧師の教会などをサポート。

礼拝後、ささやかな昼食会そして12時30分から90分程度の研修「間口や軒をゆったりと」 と題して行います。そちらもご都合があえばぜひご参加下さい。

※もしリモートで参加したいという方があれば直接メールなどでご連絡下さい。

農村伝道神学校を覚えて

本日は「神学校日」で、関係神学校の働きを覚えて祈る日とされています。

日本キリスト教団には1つの教団立神学校(東京神学大学)と5つの認可神学校(関西学院大学神学部・東京聖書学校・同志社大学神学部・日本聖書神学校・農村伝道神学校)があります。それぞれの神学校に特徴があり、合同教会としての日本キリスト教団の豊かさを表しています。全国の諸教会にそれぞれの卒業生たちが遣わされており、ここ九州教区にも、6つの神学校の卒業生たちが祈り支え合いながら歩んでいます。

荒尾教会の歴史を振り返っても、一つの神学校出身の牧師だけでなく、いまはもうなくなってしまった神学校も含まれています。岩高澄牧師(6代目)から小平善行牧師(7代目)・星健治牧師(8代目)そしてわたしに到るまでは、すべて農村伝道神学校出身ですので、農伝が特に関係が深い神学校です。

けれども、実際どのような神学校かは意外と信徒の皆さんは知らないのではないでしょうか。農伝は東京都町田市にありますが、東京といっても住宅地からは一歩奥深く入った自然豊かなところに建っています。教団関係神学校の中でも、特に規模は小さく、教職員と神学生の距離はとても近いのも特徴です。

「農」という視点を大切にします。「農村」という現場だけでなく、根源にある「いのち」、そこから派生する「貧困・差別・人権」ということを宣教の課題としています。卒業生の多くは、大きく豊かな教会ではなく、荒尾教会や山鹿教会のような小さな地方教会や、社会的な課題に取り組む教会や現場に遣わされています。そこに農伝らしさがあるのです。(有明海のほとり便り no.281)

運動会?

日本では当たり前のように行っている「運動会」ですが、そもそもなぜ行うようになったのかは常に考える必要があります。

1870年代に海軍兵学寮で「競闘遊戯会」として、軍事教練の一環として取り入れられていきました。身体を「兵隊化」させていくためのものだったのです。「運動会」だけでなく、様々な遊具にもその名残があります。例えば雲梯も、もともとは攻城兵器であり、自然社会にはあのように正確な距離で握り手があることはありえません。

そのような視点から「運動会」や「遊具」を考える時に、いま露骨に使われることはないにしても、簡単に「軍事教練」としての意味合いを帯びてしまう点には気をつけなくてはなりません。キリスト教園として「神の平和」を祈り・願っていますから、子どもたちを誰一人としても戦争に送りたくはありません。

それでは、いまなぜ幼稚園で「運動会」をしているのでしょうか。大きな目的の一つは「子どもたちの育ち」を、子どもたち自身・保護者・教職員みんなで分かち合い、喜び合うということです。けれども、ここでも気をつけなければならないのは、保護者「だけ」のための「運動会」ではないという点です。ともすれば「保護者からの見栄えをよくする」という点を強調し「練習」にのみ力を入れてしまいがちです。すると、子どもたち自身で考え・模索し・遊ぶといった肝心なプロセスがどこかへ行ってしまい、「大人中心の運動会」になってしまうのではないでしょうか。

昨年から「運動会」ではなく「めぐフェス」に名称を変えました。大きく園庭も変わっていますが、あえて同じ園庭で行います。普段の遊びと同じ地平で、子どもたち自身が心・身体を一杯動かし、楽しい親子行事(フェスティバル)になりますように。(有明海のほとり便り no.280)