3・11が近づくにつれ、様々なことが頭を駆け巡り、ソワソワし、居ても立っても居られない気持ちになる。東北教区被災者支援センター・エマオそしていずみ愛泉教会で過ごした、あまりにも密度の濃い5年間を思い出し、その記憶の波に飲まれていくような思いがする…。
わたしにとって3・11は、「3・11」という記号ではなく、エマオやいずみ愛泉教会を通して出会った、お一人おひとりを意味する。仙台市沿岸部の笹屋敷や七郷中央公園仮設、祝田(石巻)、会津放射能情報センターや飯舘電力、鹿島栄光教会や石巻山城町教会…そこで出会ったお一人おひとりから、聴かせていただいた「言葉」の重み。
そして、あの5年間で与えられた貴重な出会いが、わたしの<いま>に問いかけてくる。「自分は<いま>何をしているのだろう?」、「自分は自分を、<いま>を生きているのだろうか?」と。
わたしが出会った、被災された方たちは、3・11によって、何かを失っていた。かけがえのない家族、飼い犬、畑、家、仕事…。<人生>そのものと言ってもいいかもしれない。それだけ大きな何かを、失ってしまっていた。
同時にわたしは、被災された方たちとの出会いによって教えていただいた。<いまを生きる>こと、この<いのち>を生きること、何があろうとも生き抜くことを。この教えをわたしは忘れずに歩み続けていきたい。
いまも痛みの中にある一人ひとりに、神さまからの深い癒やしがあることを祈ろう。そして、<いま>を生き抜こうと歩まれている一人ひとりに、神さまからの確かな支えと守りがあることを祈ろう。(有明海のほとり便り no.302)