召天者記念礼拝を迎えるごとに、キリスト教の死生観について思い巡らします。
「死生観」とは、生きることと死ぬことに対する考え方を指します。まずこの語意から分かることは、「生きる」と「死ぬ」は、切っても切り離すことが出来ないということです。わたし達、命あるものはすべて「いつか死ぬ」のです。「永遠に生きる」ということはありません。
命の有限性は、確かにわたし達に悲しみをもたらします。けれども、与えられている「いまを精一杯に生きる」ことをわたし達に与えるものでもあります。
神は創造のとき、「土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」(創2:7)とあります。つまり、人間のこの命は、他でもない神によって与えられたのです。ここに、キリスト教死生観の根っこがあります。この命は、人間ではなく神によって生み出されているのです。「息」はヘブライ語で「ルーアッハ」で、「霊」という意味もあります。単に、肉体的な「命」だけではありません。人間にとって欠けることの出来ない「心」そして「魂」を持った、完き(holistic)命を神は与えたのです。詩人・河野進は同じ日本キリスト教団の牧師でもありましたが、「一呼吸」という一遍の詩を遺しています。
どのような苦しみや 悲しみを吸うても 吐く息は 感謝と希望でありますように 一呼吸(ひとこきゅう)もみな 天の父さまのお恵みですから
わたし達が一日に2万回以上もすると言われるこの一呼吸も、私たち一人ひとりを造られた神の息(ルーアッハ)であることを、日々感謝し、いまを精一杯生きていきましょう。(有明海のほとり便り no.385)