8/2,9,16→家庭礼拝へ

近隣で新型コロナウイルス感染が蔓延する中で、礼拝の持ち方を次のようにいたします。

①8月2日、9日、16日の会堂での主日礼拝を休止します。

②各自で家庭礼拝をお守り下さい。牧師は同時刻に会堂で家族とともに小礼拝を献げます。

③そのために週報を郵送します。

④山田原野教師の副牧師就任式および役員会は9月6日へ延期します。

8月23日には会堂での礼拝を再開したいと願っていますが、状況を見て難しいと判断した場合は、延期いたします。

市内での新型コロナウイルス感染を受けて

荒尾市の方、また大牟田でも立て続けに8名の方が新型コロナウイルスに感染されました。その方たちの回復を祈りましょう。

教会・幼稚園としても蔓延防止のための対応を取っていかなければなりません。まず教会では短縮礼拝をもうしばらく継続させたいと思います。もし感染が市内で広がっていく場合は、再び家庭礼拝に切り替えていくことも役員会で検討したいと思います。

特に難しいのは、幼稚園での対応です。そもそも幼児教育において、三密を避けることなど不可能です。保護者・教職員にも様々な受け止め方がある中で、どのような対策が最善なのか、正直頭を抱えています。行政とも連携しつつ判断しなければなりません。

同時に、濃厚接触者あるいは感染者が園児・教職員に出た場合も想定しておく必要があります。ここで何よりも避けたいのは「感染・濃厚接触=悪」という図式です。緊急事態宣言が解除され、それぞれが悩みつつ三密を避けつつ社会生活を営んでいます。むしろ正直に感染や濃厚接触の情報を伝えてくださったこと、さらなる感染を防ごうとしてくださっていることを感謝すべきです。そうすることで、「次の感染隠し」も防げるはずです。

先日国連が「自然破壊や気候変動が続けば、新型コロナウイルス感染症のような病気が増える」と報告しています。世界規模の自然破壊をつくり出しているのは、資本主義の過剰な利益追求であることは明らかです。そのような社会・世界を造り出してしまっている私たち自身の罪を神と隣人とに告白し、そこにこそ目を向けて、神の国の建設へと向かっていきたいと願っています。(有明海のほとり便り no.169)

山田原野教師准允式・就任式

山田原野教師の准允式および山鹿教会就任式が無事終わりました。

准允式とは「(補)教師」として日本キリスト教団が任命する式です。従来教区総会時に行われるものです。教会で行われる准允式に参加したのは生まれて初めてで、感銘を受けました。

よくよく考えてみれば、教会や学校、社会福祉施設などの現場があって、初めてその者は「教師」となっていくわけですから、教会で行うということは、とても理にかなったことでもあります。信徒の方たちにとっても感慨一塩だったのではないでしょうか。また、私自身が准允を受けた9年前の初心を、思い起こす時ともなりました。

その後、みんなで龍泉閣まで移動して、昼食会となりました。13時からということで、温泉に入る時間も作って下さっていました。司式をして下さったK教区議長は、週何回も温泉に入る程、通の方です。以前、キリスト教保育連盟の研修でご一緒した際にも、研修の合間(講習をスキップして?)に温泉を楽しまれていました。その日下部先生もとても喜んで下さっていました。

美味しい昼食をいただいた後は、それぞれから山田先生へお祝いのメッセージを贈りました。K議長からは、同窓のS牧師が山鹿教会を牧した後、しばらく牧会から離れたけれども、いまは教会で頑張っていることをご紹介されました。小平牧師からは、山鹿教会・霊泉幼稚園ともに、いま追い風を受けつつあるので、それに甘んじることなく、積極的にチャレンジをしていってほしいと励ましの言葉を贈られました。

山田原野教師の働きに大きな祝福がありますように。(有明海のほとり便り no.168)

キリストと共に生きる生活

牧師は、ただ教会員の自由意志による献金によってのみ生活し、場合によってはこの世の職業につかなければならない。教会は、人間の教会生活のこの世的な課題に、支配しつつではなく、助けつつ、そして仕えつつあずからなければならない。教会は、あらゆる職業の人々に、キリストと共に生きる生活とは何であり、<他者のために存在する>と言うことが何を意味するかを、告げなければならない。・・・教会は、人間的な<模範>(それはイエスの人間性にその起源を持っているし、パウロにおいては非常に重要である!)の意義を過小評価してはならないだろう。概念によってではなく、<模範>によって、教会の言葉は重みと力を得るのである。

ナチスに抵抗し捕らえられた神学者ボンヘッファーが、獄中で綴った教会論です。教会を鋭く問いかけています。

けれども実際には、私たちは<模範>とはなり得ないような弱さや罪を抱えています。しかしそれでも、いやそれだからこそ、イエス・キリストを<模範>とし「キリストに倣う者」(Iコリ11:1)としての歩みへと招かれているのです。それは、この世・社会と切り離された隠遁生活ではありません。むしろ社会の痛みの中で、「概念」にだけ逃げるのではなく、助け合い仕え合っていく歩みへと。まさに礼拝からそれぞれの現場へと押し出され、遣わされていく生き方なのです。

そう考えた時に、荒尾教会・荒尾めぐみ幼稚園の働きが見えてきます。概念によってではなく、イエス・キリストの<模範>によって、ここ荒尾で神の言葉を分かち合っていきたいと祈ります。(有明海のほとり便り no.167)

内実を問う

遣わされた教会を閉じなければならないとき、牧師は深く傷つきます。無力さや敗北感にさいなまれ、召命や信仰を見失うことさえあります。そして牧師だけでなく、残された信徒たちも傷つき苦しむことになります。…一度できた教会がなくなることは、地域にも傷を残します。発展していく町には学校や病院ができ、商店が増え、歓楽街がにぎわい、教会も伝道にやってきます。しかし、町がさびれると学校も病院もなくなり、商店も飲み屋も、そして教会も去っていきました。その事実は、見捨てられた地域にずっと残ります。その後で再び「隣人愛」とか「信徒の交わり」などを説かれたとしても、その内実はどうかと、地域の人々はじっと見定めているのです

久世そらち牧師(札幌北部教会・教団副議長)が『信徒の友7月号』に書かれていました。北海教区や九州教区などでは、過疎化や少子高齢化の中で、確実に教会員の数が減り、場合によっては他教会と合併や、解散を余儀なくされています。またいま新たに新型コロナウイルスという重い現実を前にしています。

この荒尾教会においても、決して他人事ではありません。この地域における人口減少も避けがたい現実です。また、山鹿教会を代務した1年では、ますますこのことを思わされました。問われるのは、私たちの「信仰の内実」なのでしょう。

この荒波を前に、荒尾めぐみ幼稚園・霊泉幼稚園は学法を同じくして、共に歩み始めています。では、教会はどうでしょうか。山田教師を副牧師として招聘した意味を、改めて深めていきたいと願っています。(有明海のほとり便り no.166)

コプト教会

本日メッセージで触れるエジプト・アレクサンドリア教会は古代キリスト教にとってはローマ教会と同様に重要な教会でした。

エジプトではイスラム教が支配的になっていく中で、アレクサンドリア教会はキリスト教信仰をコプト教会として守り続けていきます。エジプトではおよそ90%がイスラム教徒であり、10%がキリスト教徒です。エジプト社会ではキリスト教徒に対して様々な形での差別や偏見が残っています。

アメリカの大学に留学していた時に、親友の一人がエジプトからの留学生Haniでした。彼はコプト教会の信徒でありエジプトからの留学生たちの中ではマイノリティでした。私も同じキリスト者として、また理系同士共感し合う部分が多く、よく一緒に食事や映画に出かけたことを思い出しました。けれども、留学先の大学の周りにコプト教会はなく、最寄りのコプト教会は国境を越えたカナダにありました。

9・11同時多発テロが2011年に起こり、エジプトを含む中東からの移民や留学生に対しての差別や暴力が頻発していきました。アメリカ政府はHaniが国境を越えて教会に通うことを許可せず、移動を制限しました。その時の彼の悲しい・悔しい表情が、今もはっきりと思い出されます。

Haniはそのまま大学に残り、生命情報科学で博士号を取得、国立衛生研究所(アメリカのコロナ対策拠点の一つ)でポスドクをし、今はテキサス州立大学で助教授として頑張っていることを知り、とても嬉しくなりました。

世界の教会に集うキリスト者たちの、今日の礼拝が守られ祝されますように。 (有明海のほとり便り no.165)

雨の音や風の音が聞こえる

今日は花の日・こどもの日です。18世紀なかばアメリカの教会で、一年で最も多く花が咲くこの時期に、教会にそれぞれが花を持ち寄り、子どもたちの祝福を祈り、そして礼拝後その花を子どもたちがお見舞いに届けたことから始まりました。

けれども、いま子どもたちを取り巻く日本の社会環境は、決して祝福にあふれたものだけではありません。厚労省の報告によると、虐待による子どもの死亡事例は年間50件を超えています。心中による虐待死もここに含めると、もっと増えます。つまり、私たちが毎週教会に集い礼拝を献げ各々派遣されていくその間に、毎週一人以上の子どもが虐待によって命を奪われているのです。この現実を、忘れてはいけません。

虐待された子どもたちのためにシェルターを造った坪井節子弁護士が、『奪われる子どもたち』という本の中でこのように書かれていました。

子どもを決してひとりにしない、それと同時に支援する大人もひとりにしない。役割、機関は違っても傷ついた子どもに向き合う、弱い大人たちとしてしっかりスクラムを組もう。…どんなに試しても暴れても、このスクラムが崩れないとわかったとき、色々な仕方で子どもが心を開いてくれる瞬間がくるのです。拒んでいた食事を食べ始めたり、ぽつぽつ話を始めたり。「雨の音や風の音が聞こえる」とか「空ってきれいだね。初めて空見た。ずっと下向いて生きてきたから」と語る子がいました。

「雨の音や風の音が聞こえる」社会、小さな花の美しさが感じられる社会を、子どもたちと共につくり出していきましょう。(有明海のほとり便り no.164)

キリスト教保育の祈り

キリスト教保育連盟熊本地区では毎年6月に春季保育者研修を開いています。これは主に初めてキリスト教保育に出会う新任保育者に、キリスト教とは、キリスト教保育とはどういったことなのかを学ぶ場です。いつもとても分かりやすく、学びになり、私自身毎年楽しみにしています。

今年度から地区の会計を担うこととなり、準備に携わったのですが、新型コロナウイルスの影響で物理的に一箇所に集まるのを止めて、オンラインで持つこととしました。

「キリスト教保育への招き」という題で、O先生(九州ルーテル学院幼稚園前園長)がお話をして下さいました。キリスト教保育のキーワードとして①祈ること、②聖書の二つを挙げられました。

  • 子どもたちに対して、時々自分の感情が出てしまう時、後で反省するような時はないだろうか。どうしても愛せない子どもがいるかもしれない。苦しい時、どんな時でも「自分の言葉」で祈ること。言葉は呼吸であるように、祈りも呼吸。それが出来ればキリスト教保育は大丈夫。それが救いでもある。
  • 礼拝ではぜひ「主の祈り」を子どもたちに覚えてほしい。意味は少しずつでいい。卒園してからも子どもたちは覚えている。
  • 礼拝は発達障がいのある子にはじっと静かに座っていることが難しい。けれども、事前の予告・カードや写真の活用など工夫しつつ、あせらずゆっくりとやっていってほしい。

保育者のほとんどはキリスト者ではありません。けれども、洗礼の有無に関係なく、愛し導かれる神さまと共に、キリスト教保育があることを改めて学ぶことが出来ました。(有明海のほとり便り no.163)

濱邊達男牧師

先日届いた教団新報に、4月15日に濱邊達男(はまべたつお)先生が召天されたとありました。先生のプロフィールは次のとおりです。

牧師、神学者。2020年4月15日逝去、87歳。1932年神奈川県横浜市生まれ。1955年青山学院大学文学部キリスト教学科卒、57年同大学院聖書神学科修士課程修了、同年より日本基督教団荒尾教会伝道師、前原教会牧師、1966年青山学院大学経営学部宗教主任、弘前学院大学教授、東洋英和女学院大学教授、茅ヶ崎堤教会を経て14年隠退。遺族は妻・濱邊敬子さん。著書:『滝沢克己とバルト神学』、『バルト神学の出発』

濱邊先生は、戦後の混乱期にあって青学神学部(※1977年に廃止)で学ばれ、初任地がこの荒尾教会でした。計算すると当時25歳です。横浜生まれの方ですから、この荒尾とは直接的な結びつきは何もなかったのではないでしょうか。

創設者である信徒の宮崎貞子先生は、1953年恵泉女学園中高で英語教師として再び招かれ東京へと移られました。そして渋谷にある美竹教会に通われたと伺っています。当時美竹教会を牧会していたのが浅野順一牧師です。著名な旧約神学者でもあり、青学神学部で教えられました。貞子先生が浅野先生を荒尾教会にも招き、特別伝道集会をされたことがあります。

つまり、濱邊先生は浅野先生の教え子であり、私が想像するに貞子先生からの何らかの祈りと働きかけがあって、実現した荒尾への赴任だったのではないでしょうか。まだまだ炭鉱も元気だった時代に、どのような召命を抱きつつ若き濱邊先生は来て下さったのでしょうか。 ペンテコステ礼拝の今日、荒尾教会の草創期に思いを馳せましょう。(有明海のほとり便り no.162)

ロフト

ここに遣わされた初年度、大ピンチの際に大分・中津から園のために来ていただいたY先生から、自身幼児教育の学びを深められている中で、様々なアドバイスをいただきました。読んだらいいと紹介していただいた本の中に、高山静子教授(東洋大学)の著作がありました。いま振り返ればそこからが自分なりに、保育「環境」について考えを深めていくターニングポイントだったように思います。

キリスト教保育では、主体(主役)は先生ではなく、子どもたちです。神さまが子どもたち一人ひとりをかけがえのない存在として愛し、慈しみ、最初から「育つ力」を授けて下さっています。園で子どもたちと出会う教職員の役割は、育ちを邪魔しないで、伸びやかに広がる環境をつくっていくことです。

「それをどう実現していくのか?」が、園長に託されている働きです。高山先生の本を何度も教職員と共有し、他園も訪問させていただきました。特に衝撃を受けた各園に共通することは、園長や先生たち自らが遊具つくりに取り組んでいたという点でした。

とにかくやってみようと思い、おそるおそるインパクトドライバーと丸のこを買ったのがちょうど1年前でした。木工に挑戦するのは生まれてはじめて…。まったくの手探りで遊具作りをはじめました。河内からたち保育園の初瀬園長にはいつもアドバイスをいただきました。 そして登園自粛期間のこの時、先生たちみんなで協力してきりん組(年長)にロフトを作ることが出来ました!まだまだ道半ばですが、これからも子どもたち主体のキリスト教保育を深めていきたいと願っています。