参議院選挙と『やさしい猫』

再来週7月10日(日)に、参議院選挙が行われます。今回の参院選が終わると、3年間は国政選挙が行われないと言われています。つまり、憲法9条・経済格差・こどもの貧困・消費税・原発・コロナ対策・軍事費・外交・介護・保育・気候危機・ジェンダー平等など、わたしたちの生活にも、そして子どもたちの未来にも大きく影響してくる課題が、一気に悪化するのか、あるいはそれを食い止めることが出来るのか、分水嶺に立っているのです。キリスト者として「神の国が来ること」(マタ6:10)を真剣に祈り、選挙権がある方は特に「地の塩」(マタ5:13)としてその責任を果たしていただきたいと願っています。

小説『やさしい猫』(中島京子著)を読みました。入管(出入国在留管理局)の施設に収容されている外国人との面会を10年以上続けている宮島牧人牧師(原町田教会・原町田幼稚園)が、フォトジャーナリストの安田菜津紀さんとの対談で紹介して下さっていたのです。

シングルマザーの保育士ミユキさんが、3・11被災者支援のボランティアで、スリランカ出身で自動車整備士のクマさんと出会います。数年後奇跡的に再会した二人は、ゆっくり恋に落ちるのですが、クマさんの勤務先が急に工場を畳み失業したことから、大きな試練が訪れます。十分な情報もない中で、クマさんは必死に就職先を探しますが、気が付けばオーバーステイとなります。入管に相談に行こうとした品川駅で、待ち伏せていたかのような警察に捕まり、入管職員の裁量で退去強制を決められ、入管施設に収容されてしまうのです。クマさんは心も身体もボロボロになります。けれども、ミユキさんや娘のマヤさんが、必死に裁判で闘い、入管相手に奇跡的に勝訴する…。

参院選で誰に投票すべきか、入管行政を考える上でもとても貴重な一冊です。

「わたしにしてくれたこと」(マタ25:40)とは何なのか考えていきましょう。(有明海のほとり便り no.266)

小崎弘道と番町教会

わたしたちが結婚して一緒に住む場所を探していた時、快くお部屋を貸して下さったのが東京千代田区にある番町教会でした。神学校時代の3年間を過ごさせていただき、橅が生まれたのもこの番町教会でした。わたしたちにとっては、沢山の恩人・神の家族がいる教会です。その一人が、当時牧会されていた横野朝彦牧師です。11月の創立記念礼拝にお出で下さることとなり、再会をとても楽しみにしています。

皆さんに横野先生のことを紹介するために色々と調べていたら、2014年に同志社スピリット・ウィークで奨励をされた記録を見つけました。本日配布していますので、ぜひお読み下さい。その中で、わたしたちも当時教会員だった番町教会の歴史があり、とても興味深く読みました。特に番町教会の初代牧師である小崎弘道牧師のことが綴られており驚きました。

小崎は熊本バンドの一人であり、つまり熊本出身なのです。しかもよくよく調べてみると、小崎が番町教会を牧会された4年間の間に洗礼を受けた一人に宮崎滔天がいるのです。この滔天は荒尾教会・荒尾めぐみ幼稚園の創設者・宮崎貞子先生の伯父にあたります。荒尾教会と番町教会がこのような形で繋がることに、神さまの不思議な導きを感じています。

小崎は熊本バンドの中でも、躊躇があり洗礼を受けたのは遅く、同志社を卒業する際も一人だけ任地も定まらず「遅れてきた存在」だったそうです。けれども、この小崎がYMCA創設に携わり、またキリスト教ジャーナリズムでも活躍し、霊南坂教会や番町教会を設立し、そして新島襄の後を継いで同志社の社長(総長)になるのです。

わたしたち一人ひとりもまた「ぶどう園に遅れてきた一人」(マタ20:1-9)として、神さまの呼びかけに応えていきましょう。(有明海のほとり便り no.265)

小説『らんたん』における宮崎貞子先生の姿

柚木麻子著『らんたん』(小学館)には、荒尾教会・荒尾めぐみ幼稚園の創設者である宮崎貞子先生が出てきます。数えただけで8箇所ありました。特に貞子先生の人柄や信仰が綴られている箇所がわたし達には重要です。

 (1908年頃)「彼女と同じ学年のお貞ちゃんこと宮崎貞子はキッとなって振り返った。『菊さんたら、そんな言い方失礼よ』お貞ちゃんは、最近『小さき弟子の群』に入会したばかりの、最年少ながら河井先生を崇拝している優等生で、英語の成績は学年一番だ。」(p.142)
 (1921年)「お相手の宮崎龍介は、道の取り巻きである『小さき弟子たちの群』の一人、女子英学塾の優等生、お貞ちゃんこと宮崎貞子の親戚であり、道とゆりにとっても近しい存在だ。」(p.235)
 (1934年頃)「お貞ちゃんこと宮崎貞子も教師としてやってきたが、他人にも自分にも厳しい完璧主義は学生時代から変わらず、生徒に早くも恐れられている。」(p.305)
 (1938年頃)「社会運動家の一族で育った宮崎貞子はとりわけ強く反対の意を示した。―道先生、学校の存続は大切ですが、時勢に飲まれて国家主義の側に付いては元も子もないんじゃないですか?」(p.322)
 (1941年頃)「たまたまそれを耳に挟んだらしい、担任の宮崎貞子先生が澄ました調子でこう言った。『道先生はこうおっしゃっています。こんな古く汚く狭い学校に、御真影を置くのは、天皇陛下に失礼にあたります、と。謙遜されていらっしゃるのですよ』みんなそうなんだ、と納得していたが、生徒たちに怖がられている貞子先生の口元に、ほんのり笑みが浮かぶのを邦子は見逃さなかった。校庭の片隅の小さな家屋に年老いたお母様と暮らしている、社会運動家の一族で育ったと聞くこの先生を、邦子は最初から信用していない。」(p.344) 

平和教育を掲げている恵泉女学園が戦争への時勢に飲まれつつも抵抗した側面があり、そこに貞子先生も深く関わっていたのです。(有明海のほとり便り no.264)

小説『らんたん』と宮崎貞子先生

昨年11月に出版された歴史小説・柚木麻子著『らんたん』(小学館)を一気に読みました。主人公は、東京にあるキリスト教主義学校・恵泉女学園の創設者・河井道、そして、道と「シスターフッド」で結ばれる一色ゆりです。描かれているのは、明治維新から戦後にかけての激動の中で草創期の日本YWCAや、「平和」を掲げた女性教育のために奮闘していく姿だけではありません。津田梅子(津田塾大学)、広岡浅子(日本女子大学・大同生命)、村岡花子(『赤毛のアン』翻訳者)、矢嶋楫子(日本キリスト教矯風会)といった、日本プロテスタント教会史で重要な初代女性キリスト者たちの信仰・葛藤・出会い・喜びが、見事なタッチで描かれており、深い感動を覚えました。

さらに驚いたことに、荒尾教会・荒尾めぐみ幼稚園の創設者である宮崎貞子先生も出てくるのです。河井道は、アメリカのブリンマー大学留学後に女子英学塾(現・津田塾大学)で教師となります。この女子英学塾で道をとても慕う女子学生たちが「小さき弟子の群」というグループをつくります。そのメンバーの一人に、貞子先生がいたのです。「英語の成績は学年一番」(p.142)、のちに「道とゆりにとっても近しい存在」(p.235)となっていきます。そして、道とゆりは、1929年に恵泉女学園を立ち上げていきますが、1934年から貞子先生もここで教師として長く勤めることになるのです。

戦後(おそらく1946年)荒尾に帰られますが、この時期に荒尾高校の英語教師をしつつ、家庭集会を始め、1946年11月に荒尾教会を創立しました。そして荒尾めぐみ幼稚園立ち上げのために、奮闘されました。1953年から再び恵泉に呼ばれ1962年まで聖書と英語を教えられました。

教会の誕生を覚えるペンテコステに、神さまは素晴らしいプレゼントを用意して下さいました。ぜひ読んでいただきたい一冊です。(有明海のほとり便り no.263)

詩「永遠」(作:Y.H.)

孫、千晶が生まれ
この世界は千晶のいる世界となった

父、秀雄は亡くなり
この世界は父のいない世界となった

二千年前、主イエスは生まれ
この世界は主イエスのおられる世界となった

十字架で死なれ、墓を破って復活され
そしてこの世界は
永遠に主イエスのおられる世界となった
この世界は
永遠の命につながる世界となった

Yさんの詩が、『信徒の友6月号』で選ばれました。深い感動を覚えました。選者の詩人・岡野恵理子さんが次のように評しておられます。

「第一連は意味深い。愛する人の存在は世界を一変させてしまうほど大きいのだ。そして主はいつも変わらず存在しておられた。」

福音は、「福なる音」と書きます。詩で福音を証しすることは、長々しい文章で福音を描くよりも、時にずっと深く、そして広いことに気付かされます。Yさんの持つ福音の詩心を、わたし達も大切にしていきましょう。(有明海のほとり便り no.262)

活水女園と長洲

先日、キリスト教保育連盟九州部会設置者・園長研修会が行われました。コロナ禍のため、昨年に引き続きオンラインでの研修となりましたが、わたしは部会長として配信作業の責任も担いつつ、直接講師の前田志津子先生より伺うことができ、大きな刺激をいただきました。

さて、講演前に前田先生より『活水女園の変遷を支えた人たち』という論文をいただきました。前田先生は長崎にある活水女子大学で教えられていましたが、その創設者であるエリザベス・ラッセル宣教師(アメリカ・メソジスト監督教会より派遣)が、熊本で「活水女園」という児童養護施設を設立していたことを初めて知りました。この女園は、1891年10月28日に発災した濃尾地震によって熊本沿岸部で孤児となった少女たちを受け入れるために建てられたそうです。この女園の働きを担ったのが活水学院の卒業生たちでした。

しかも、前田先生は、荒尾が長洲の隣であることを伝えると、「ぜひ一度活水女園の歴史を詳しく調べるために、長洲に行ってみたい」と仰るのです。

活水女園がどこに建てられたのか史実としては未確定な部分があるそうです。二つの可能性があり、長洲に建てられた可能性と、熊本市九品寺、つまりいまの熊本白川教会に隣接する王栄幼稚園の場所に建てられた可能性があると。当時、長洲周辺の沿岸部にも、被災した子どもたちが多くいたそうです。どちらにせよ、数年後には福岡県古賀村へ移転していきました。

前田先生から「長洲」が出てきてとても驚きました。わたしが知っている範囲では、長洲町にキリスト教会はありません。けれども、100年以上前に、イエス・キリストに倣い、この地を訪れた先達がいたことを胸に刻みたいと思います。(有明海のほとり便り no.261)

クチナシの花びら

久しぶりの教区総会でした。時間を短縮するために、できる限り議事を絞り込み行われました。わたしは議事運営委員に選ばれたため、議場の前方に用意された机に座り過ごしました。タイムキーパーとしてハラハラしていましたが、時間内に無事終えることが出来ました。

やはり対面でないと出来ないことがあることを痛感しました。特に議論の深まりに関しては、議場にいないと分からない部分が多いのです。議案によっては、意見が対立するもの、痛みをもって全員可決するもの、喜びをもって話し合われるものなど、様々です。Zoomなどのオンライン会議も、少人数ならば出来るかもしれませんが、100名を超える者たちが集うとき、目には見えない思いは対面でなければ中々伝わりません。

さて、逝去教師追悼式は2019年度~2021年度までに召天された教師11名を覚えるものでした。とてもお世話になった梅崎啓子さん・浩二教師(元・大牟田正山町)のお父様・橋本高幸教師も、そのお一人でした。幼稚園を手伝って下さっているTさんが、橋本先生が長く牧会した犀川教会の週報に掲載した「福音博物誌」をまとめた小冊子を貸して下さいました。橋本先生は虫や鳥、植物など「博物」的知識を聖句と繋げつつ綴っておられます。その中で、敗戦後、満州から引き揚げて家にたどり着いた時を振り返っておられ、胸を打ちました。

こんなにも、平穏無事な麦秋の宵に、なぜ、引揚げのこと、戦争のことを思わねばならないのでしょうか。それは、この平和という現実が、たとえば咲き初めのあのクチナシの花びらのように、いかにも傷つき易いものであるためなのかもしれません。  「平和をつくりだす人たちは、幸いである。」(マタイ5章9節)

(有明海のほとり便り no.260)

多くの祈りが注がれた結婚式

4月30日(土)、Sさん・Iさんの結婚式の司式を行いました。場所は神奈川県逗子にある「SYOKU-YABO農園」という農園レストランでした。農園のど真ん中で行う式です。3月に行った最後の結婚準備会で、プランナーの方にここの会場写真を見せていただいた時…驚きました。こんなにユニークな場所で、結婚式の司式をしたことはなかったからです。おそらく他の牧師たちに聞いても同様の答えが返ってくるでしょう。

けれども、とっても嬉しかったのです。野の花が、空の鳥が、そして木々が一緒に参列してくれているこの場所を、神さまが喜ばないはずがないからです。当日は天気を心配していましたが、気持ちのよい晴天に恵まれました。

さて、Iさんはキリスト教のご家庭で育たれ、いまも教会に通われています。Sさんは、そうではありません。むしろSさんのお祖父さまはお寺のご住職であったと伺いました。キリスト教の式でしたが、準備会の中で、Sさんから数珠をどこかに置いてもいいだろうかと質問がありました。すでに召されているおじいちゃんの思いも一緒に式を持ちたいのだと。即答はせず、少し考えさせてもらいました。そして、気づかされたのです。

数珠は仏教においては祈りのシンボルの一つです。そして、人の祈りは、宗教を超える普遍性を持ったものです。つまりこの結婚式に、多くの祈りが注がれているということを。キリスト教のご家族から、仏教のご家族から、多くの友人・知人たちから。そして、すでに召されてSさんのおじいちゃんや、Iさんのお父さんから…。

その祈り一つ一つを、神さまは喜んでいるはずです。

結婚したお二人に豊かな祝福がありますように。(有明海のほとり便り no.259)

名もなき人として

1952年にノーベル平和賞を受賞したアルベルト・シュヴァイツァーは、21歳の時、「30歳までは学問と芸術を身に付けることに専念し、30歳からは世のために尽くす」と決心しました。事実30歳になってから医学部に入り直し、38歳でアフリカへと医療活動のために旅立ちました。この医療活動のために全財産を費やします。しかし、第一次世界大戦や第二次世界大戦が起こる度に、翻弄させられました。アフリカでの献身的な医療奉仕活動が高く評価されたキリスト者ですが、シュヴァイツァーは新約聖書学者でもありました。そのシュヴァイツァーがマルコによる福音書1章16~20節を巡って次のように語っています。

「かつて湖のほとりで、彼が誰であるかを知らなかった人々のところにイエスがやって来た。同じようにイエスは私たちのところにも見知らぬ人、名もなき人としてやってくる。その人は私たちに『私についてきない』と同じ言葉を語り、私たちの時代のために私たちがなすべき課題を私たちに与える。その課題に向き合う苦難の中で、イエスはようやく自分自身を現すであろう」

それぞれの場で神さまから与えられた働きがあります。それを全部投げ捨てて神に従えという意味ではないでしょう(もちろんそのような決断を求められる時もあるかもしれませんが)。

それよりも、<いま・ここ>で、見知らぬ人、名もなき人としてやってくるイエスに、出会っていくことが大切なのではないでしょうか。そしてそれは、平凡あるいは単調と思える日々の中でこそ、実はそのような出会いが与えられているのかもしれません。(有明海のほとり便り no.258)

日本聖公会初の女性主教

昨日、日本聖公会北海道教区主教按手式・教区主教就任式が札幌で執り行われました。主教按手を受けられたのは笹森田鶴(ささもりたづ)司祭で、東アジアで初の女性主教が誕生しました。

日本聖公会とわたし達の日本キリスト教団はもちろん教派は違いますが、エキュメニカル(超教派)運動を通して共に歩んでいる仲間です。わたしも聖公会の友人や知人がおり、特に東日本大震災を通しての被災者支援活動においては、一緒に協力しあいながら、祈りあいながら歩んできました。

日本キリスト教団は歴史的には本当に初期の頃から、女性牧師が重要な宣教の働きを担ってきています。日本聖公会では、1998年12月に初めて女性司祭が誕生しました。笹森田鶴司祭はその直後1999年1月に按手を受けられました。そこに至るまでに、本当に長い苦しい議論があったと伺っています。それからおよそ20年が過ぎ、昨日初の女性主教が誕生したことは、日本聖公会のみならず日本のキリスト教界全体にとっても大きな喜びでした。

わたしはオンラインで按手式・就任式の様子を観させていただきましたが、その場には、全国の聖公会主教のみならず、日本キリスト教団・日本福音ルーテル教会・コプト正教会などからも招かれている方たちがいたことが、そのことを表していました。

笹森田鶴司祭は、東北におられた笹森伸兒司祭の娘さんですが、この伸兒司祭が長年「聖書を読む会」をBが仙台で通った聖クリストファ幼稚園の保護者向けに行って下さっていたのです。わたし達が園でお世話になったのは伸兒司祭の晩年でしたが、田鶴司祭のお働きを折りに触れ聞かせていただきました。

田鶴主教の新たな出発が守られますように祈りましょう。(有明海のほとり便り no.257)