名もなき人として

1952年にノーベル平和賞を受賞したアルベルト・シュヴァイツァーは、21歳の時、「30歳までは学問と芸術を身に付けることに専念し、30歳からは世のために尽くす」と決心しました。事実30歳になってから医学部に入り直し、38歳でアフリカへと医療活動のために旅立ちました。この医療活動のために全財産を費やします。しかし、第一次世界大戦や第二次世界大戦が起こる度に、翻弄させられました。アフリカでの献身的な医療奉仕活動が高く評価されたキリスト者ですが、シュヴァイツァーは新約聖書学者でもありました。そのシュヴァイツァーがマルコによる福音書1章16~20節を巡って次のように語っています。

「かつて湖のほとりで、彼が誰であるかを知らなかった人々のところにイエスがやって来た。同じようにイエスは私たちのところにも見知らぬ人、名もなき人としてやってくる。その人は私たちに『私についてきない』と同じ言葉を語り、私たちの時代のために私たちがなすべき課題を私たちに与える。その課題に向き合う苦難の中で、イエスはようやく自分自身を現すであろう」

それぞれの場で神さまから与えられた働きがあります。それを全部投げ捨てて神に従えという意味ではないでしょう(もちろんそのような決断を求められる時もあるかもしれませんが)。

それよりも、<いま・ここ>で、見知らぬ人、名もなき人としてやってくるイエスに、出会っていくことが大切なのではないでしょうか。そしてそれは、平凡あるいは単調と思える日々の中でこそ、実はそのような出会いが与えられているのかもしれません。(有明海のほとり便り no.258)

日本聖公会初の女性主教

昨日、日本聖公会北海道教区主教按手式・教区主教就任式が札幌で執り行われました。主教按手を受けられたのは笹森田鶴(ささもりたづ)司祭で、東アジアで初の女性主教が誕生しました。

日本聖公会とわたし達の日本キリスト教団はもちろん教派は違いますが、エキュメニカル(超教派)運動を通して共に歩んでいる仲間です。わたしも聖公会の友人や知人がおり、特に東日本大震災を通しての被災者支援活動においては、一緒に協力しあいながら、祈りあいながら歩んできました。

日本キリスト教団は歴史的には本当に初期の頃から、女性牧師が重要な宣教の働きを担ってきています。日本聖公会では、1998年12月に初めて女性司祭が誕生しました。笹森田鶴司祭はその直後1999年1月に按手を受けられました。そこに至るまでに、本当に長い苦しい議論があったと伺っています。それからおよそ20年が過ぎ、昨日初の女性主教が誕生したことは、日本聖公会のみならず日本のキリスト教界全体にとっても大きな喜びでした。

わたしはオンラインで按手式・就任式の様子を観させていただきましたが、その場には、全国の聖公会主教のみならず、日本キリスト教団・日本福音ルーテル教会・コプト正教会などからも招かれている方たちがいたことが、そのことを表していました。

笹森田鶴司祭は、東北におられた笹森伸兒司祭の娘さんですが、この伸兒司祭が長年「聖書を読む会」をBが仙台で通った聖クリストファ幼稚園の保護者向けに行って下さっていたのです。わたし達が園でお世話になったのは伸兒司祭の晩年でしたが、田鶴司祭のお働きを折りに触れ聞かせていただきました。

田鶴主教の新たな出発が守られますように祈りましょう。(有明海のほとり便り no.257)

出かけ人と出会い・分かち合っていく教会に

フロイドとドリーンの道北センターでの働きはとても幅広いものでした。農村センターとしてあちこちの農場訪問をし、三愛精神(神を愛し、人を愛し、土を愛する)に基づいて年に二回農民が集まる三愛塾を行い、道北地区の小さな教会の礼拝に協力をし、また家庭集会を行い、道北センター英語学園を開いて子どもから大人まで英会話を教え、若者の奉仕活動の可能性を広げ、平和活動も大切にし、また精神障がい者の社会復帰を目指す現在の社会福祉法人である道北センター福祉会の種を蒔きました。
この働きを通して私が一番学んだことは教会がこのままで正しい、そして人が来るのを待っていればいいという姿勢ではいけないということでした。イエスは何よりも出かけて人と出会い、人と分かち合うことをしたと思います。教会も地域社会に於いて分かち合うこともあれば学ぶこともあり、地域社会の課題を学び続けることによって、また他の宗教とも関係を持つことによってこそ私たちはイエスの福音の意味、また私たちに求められている働きを知ることができると思います。(pp.5-6)

ロバート・ウィットマー宣教師が『教会教を越えて』(フロイド・ハウレット著)という本のまえがきに寄せた言葉です。ウィットマー先生は北海道名寄にある「道北センター」で長く働かれましたが、その前任者がフロイド・ハウレット宣教師だったのです。これを読み教会の宣教とは出かけ人と出会い・分かち合っていくことにこそが肝要なのだと、改めて気付かされました。

荒尾教会においては、荒尾めぐみ幼稚園がこの荒尾の地で子どもたち・ご家庭と出会い分かち合う役割を、まさになしています。この宣教の業をさらに深めていきましょう。また、それだけで満足するのではなく、この地でさらに人と出会っていく教会を祈り願っていきましょう。 (有明海のほとり便り no.256)

ウクライナの子どもたちを覚える祈り

ロシアによるウクライナ侵攻に終わりが見えない状況が続いています。

カトリックの教皇フランシスコが次のようにツイッターで発信しており、ハッとさせられました。

「犠牲者から流された罪のない血が、天に向かって叫び、願っています。戦争は終わらせてください。武器を黙らせてください。死と破壊の種をまくことはやめてください」(4/6)
「家を離れ、外国の地に逃れなければならなかった子どもたちのことを忘れないでいましょう。これが戦争のもたらすものの一つです。この子どもたちを、そしてウクライナの人々のことを忘れないでいましょう」(4/6)

わたしたちキリスト教会は、2000年もの間、イエス・キリストの十字架と復活を忘れないでいつづけたからこそ成立しているといっても過言ではありません。覚え続け、祈り続けることが信仰生活の根っこにあるのです。

主の祈りにあるように、み国がきますように、みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえと、日々祈り続けることが、わたしたちキリスト者に課せられた使命です。

2022年4月の受難節の時、わたしたちは祈っていきましょう。

一日も早く、戦争を終わらせください。

ウクライナから難民として逃げなければならない子どもたちを、お守りください。

この世界から武器がなくなり、核がなくなりますように。 キリストの平和が、神の国が、わたしたち一人一人に、そして世界全体に与えられますように。(有明海のほとり便り no.255)

うめきは神の耳には祈りとして届く

随筆家の若松英輔が「コヘレトの言葉」について、次のように語られている文を読み心打たれました。

「コヘレトの言葉」を一言でいうとしたら、私は「祈りの書」だと答えると思います。ここでいう「祈り」とは、決まった言葉を唱えることでも、自分の思いを語ることでもありません。旧約聖書には、神は人間のうめきを聞き逃さないという言葉が一度ならず出てきますが、私が考えているのは、うめきは神の耳には祈りとして届くということなのです。それは私たちの心よりも一段深いところから出てきている。それを神は見逃さない、という確信は新約聖書ではパウロの手紙を別にすれば、あまり語られないことです。(『すべてには時がある』pp.67-68)

「コヘレトの言葉」を「祈りの書」として捉えたことがなかったので、わたしはとても驚いたのです。

わたしたちの心は中々安定した大地のようなものにはならず、風が吹けば波が立ち、嵐が来れば濁流となるものではないでしょうか。さらにその心の奥底(魂と言ってもよいかも知れません)には、言葉にすることが出来ないうめきが確かにあります。そのうめきこそが、神さまには「祈り」として確かに届いているのです。いまこの社会・世界にはうめきが満ちていますが、神さまはそれを見逃さず受け止めて下さっているのです。その真実によって、わたしたちはこの社会を生き抜くことが出来るのではないでしょうか。

このようなメッセージ(福音)を必要としている方たち(わたし自身も含む)と、聖書を共に読み分かち合っていくことが荒尾教会の使命です。どうか2022年度が、福音の分かち合いを、さらに広め深めていく時となっていきますようにと祈ります。(有明海のほとり便り no.254)

小平恵子さん納骨式

小平恵子さんが召されたのは2002年2月でしたから、ちょうど20年が経ちました。わたしは直接お会いする機会はありませんでしたが、教会員の皆さんから、とてもお優しい方であったこと、そして小平先生のお連れ合いとして、荒尾教会はもちろん荒尾めぐみ幼稚園にとって欠かせない大きな働きをして下さったと伺っています。

先日、恵子さんの何か記録が残っていないかと幼稚園に残っている資料を探していると、小平先生の頃に毎年のように出されていた「おもいで」という卒園文集を見つけました。そこに主任としての恵子先生が毎年書かれた卒園児たちへのメッセージが遺されていました。読み進めていく内に、毎年のように繰り返し恵子先生が引用する聖書箇所があることに気づきました。それはヨハネによる福音書15章の箇所で、イエスが弟子たちに向かって「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と語った箇所です。

1985年3月に卒園した子どもたちに向けて、恵子先生が綴られている言葉が、いまを生きるわたしたちに向けてのメッセージにもなっていました。

強いから、勉強がよくできるから、健康だから、なんでもよくできるから、神さまのお手伝いができるのではありません。小さくても、力が弱くても、困難の中にあっても、イエスさまのぶどうの木に、しっかりつながって、神さまの愛のうちにあるとき、それは、すばらしい原木ができます。
まことのぶどうの木に、しっかりつながって、いつまでも明るいめぐみの光の子であってください。みなさんの前途に、神さまの祝福が、豊かに与えられますように、心からお祈りいたします。

昨日は、小平先生や娘さんご家族と温かい納骨式を行うことが出来ました。恵子さんのように、イエスさまにつながっていきましょう。(有明海のほとり便り no.253)

卒園式を終えて

毎年、卒園式の朝、先生たちが来る数時間前に、園を開け、換気を始めます。礼拝堂でも同じように準備を始めます。まだ誰もいない礼拝堂が本番に向けて祈っているかのようです。この静謐を味わえるのも、牧師園長に許された「特権」;)です。

めぐみ幼稚園の卒園式は少しずつ変わってきています。コロナ禍で対応しなければならないことも合わさって、いわゆる慣例には縛られず、子どもたちの思いを実現していくために工夫が施されるようになってきました。

例えば、壁面の飾り付けも、今回は先生ではなく、卒園児たちがつくりました。卒園式で何を歌うのか、そしてどの順番で歌うのかも、話し合いました。もちろん担任の先生たちも適宜加わりアドバイスしますが、こんなに子どもたち自らが話し合った卒園式は、はじめてです。家庭保育の影響もあり、全員が中々揃わなかった年長きりん組で、準備期間も短かったにも関わらず、自分たちの「名前の由来」もしっかり発表し、歌も大きな声で歌いました。

とりわけ嬉しかったのは、1月に遠方に引っ越したSさんもリモートで参加が出来たことです。コロナ禍がなければ、リモートで繋げるなんというアイディアは思い浮かばなかったはずです。子どもたちも大喜びでした。

卒園児のおばあちゃんが「こんなに温かい卒園式ははじめてです」と語って下さいました。卒園児のHさんは荒尾支援学校へと進学しますが、一年間サポートして下さったY先生が、式後の先生たちとのお茶の際に、「怪我なく過ごせたことが本当によかった。先生方のおかげです。」と涙ながらに話してくださいました。 教会幼稚園として拙い歩みのわたしたちを、確かに神さまが導いて下さっていることを、改めて味わうひと時となりました。(有明海のほとり便り no.252)

3・11から11年

東日本大震災から11年が経ちました。あの大地震・大津波・原発事故がどれほどの悲しみと痛みをもたらしたか、そしてどれだけの涙が流れたか…、毎年この時期になると心がざわつき、落ち込みます。

11日は朝から仙台にある尚絅学院中高で久しぶりに礼拝メッセージを担当しました。宗教部主任の赤井慧さんは、3・11の前からの友人です。

午後2時30分からは東北教区による記念礼拝に参加しました。司会は長尾厚志牧師(仙台ホサナ教会)、説教は関川祐一郎牧師(石巻山城町教会)でした。お二人とも被災者支援センター・エマオにとって欠かせない大きな支えとなって下さった方たちです。

夜には、エマオで出会い繋がったワーカーやスタッフたちとのシェアリングに参加しました。いまも仙台や石巻で被災された方たちを訪問してくれている仲間たちがいました。それぞれの人生を歩む中で、3・11を忘れずに胸に刻み続けている仲間たちがいました。

仙台で過ごした5年間、わたしは本当にささやかな働きしか出来ませんでした。けれどもそれを遥かに超える、深い出会いが与えられたことこそが、神さまからの恵みだったのです。

さて、KとOは仙台で生まれましたが、特にKは仙台の幼馴染Sさんと離れることを嫌がりました。今でも仙台に帰りたがるほどです。そんなKが、小学校からの帰り道、長く休んでいるお友達に手紙を届けていたことを知りました。さらにはそのお友達が返信を持ってKが通るのを待っていたことも。仙台で過ごした5年、荒尾で過ごした5年、そのどちらもが、かけがえのないものであることに気付かされました。 3・11を胸に刻み祈りつつ、いまを生きていきたいと願っています。(有明海のほとり便り no.251)

「ピンクシャツデー」と「みどりシャツデー」

先日、幼稚園では「ピンクシャツデー」に参加しました。2007年、カナダの学校で中3の生徒がピンクのポロシャツを着て登校した際に、上級生から「ホモセクシャル」だといじめられ、たえきれずに帰宅しました。それを聞いた友人たちが、「いじめなんてうんざりだ」と75枚(!)ものピンクシャツをリサイクルショップで買い込み、次の日、学校をピンク色で染めたのです。それが「いじめのない世界」を願うポジティブキャンペーン「ピンクシャツデー」のはじまりです。

キリスト教保育連盟でご一緒している熊本YMCAさんたちのご紹介で2年前から参加しています。今回で3回目ですが、わたしも先生たちもピンク色を着て何だか朝から気分がワクワクでした。Y先生は、年に1回しか着ない(つまりピンクシャツデーのために!)というピンクのパーカーを着てきてくれました。育休中のC先生も、赤ちゃんも一緒にピンク色で来てくれました。

数日後、きりん組へ行くと…、Kさんが緑色の折り紙でみどりシャツをつくり、そこには「みどりシャツデー」と書いていました。Kさんに聞くと、「みんなで美味しいメロンを食べる日」だそうです。子どもが持つ発想力の豊かさに、とっても嬉しくなりました。そして確かな「希望」を感じました。

ウクライナをはじめ世界では子どもたちのいのちが脅かされています。毎日が「ピンクシャツデー」や「みどりシャツデー」となる日を祈り求めていきたいと願っています。(有明海のほとり便り no.250)

『てぶくろ』(エウゲーニー・M・ラチョフ、1965年、福音館書店)

雪が降る森をおじいさんとこいぬが歩きます。その途中、片方の手袋を道端に落としてしまいます。ねずみがその手袋を見つけ、ここを住まいとすることに。そこにカエルがやってきて、一緒に住むことに。今度はうさぎがやってきて、一緒に住むことに。単なる手袋に土台が出来、入り口が作られていきます。でも、もう手袋の中は一杯で、これ以上誰かが入るような余地はありません。にも関わらず…
今度はキツネがやってきて、「わたしもいれて」とお願いするのです。何とそれも快く引き受けます。手袋の中には、これで4匹。今度は、ハイイロオオカミがやってきて、「おれもいれてくれて」と! 「まあ、いいでしょう」と引き受けて5匹。さらに、牙持ちのイノシシがやってきて「わたしもいれてくれ」と! さすがにちょっと無理じゃないかとなりますが、「いや、どうしても」というイノシシの気持ちを引き受けて6匹。手袋には煙突や窓まで作られました。
すると…クマがやってきて、「わしもいれてくれ」と! 「とんでもない。まんいんです」 「いや、どうしても はいるよ」 「しかたがない。でも、ほんのはじっこにしてくださいよ」と引き受けて7匹に。
そこにおじいさんとこいぬが帰ってきて、みんなは逃げていきました。

調べてみると、キツネはねずみ・カエル・うさぎを食べる天敵です。もちろんオオカミもイノシシもクマも。天敵同士の動物たちが、片方だけの手袋にギュウギュウになりながらも、広げ、修繕しながら共に住まう…。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す」(イザ11:6)というイザヤの平和思想・預言に通じます。実はこの絵本は、ウクライナ民話から採られています。

いまウクライナの人々が直面している痛みの中で、「片方のてぶくろ」に込められている平和の実現を祈り求めましょう。(有明海のほとり便り no.249)