岩高澄牧師(6代目、1971年春~1974年春)

岩高澄(きよし)牧師は、越生教会、東梅田教会、須崎教会を経て71年に荒尾教会に赴任。荒尾教会の後は、郵便局長を引き継ぎ、協力牧師として東梅田教会を支えました。先生より荒尾時代を振り返る文章を送って下さいました。

建物としては礼拝堂が主で、後方に三畳程の集会室と、側面に更に八畳程の部屋、それに隣接した職員室、ここで三歳児までの三クラスの幼稚園の業が行われていたのです…園児数が四〇名にも充たない中、三名の教諭は奉仕的な報酬でそれでも教育熱心な者ばかりです。それだけにこじんまりと母の会を中心に、家族的な雰囲気の幼稚園です。…自由保育、幼児期の発達を考慮した領域的対処教育、思い出すばかりですが、真剣に取り組んでいたのは事実です。…お母さん達の口コミは大変効きました。母の会が集めて来た願書で何と次年度の園児数が増えてしまったのです。

献身的な岩高先生たちの働きがあり、記録によると小平先生が引き継いだ時には100名以上の園児数になっていました。

私にとって或意味で一番充実した時期だったように思います。激しく、戦いのような三年間でしたが、遣り甲斐のある三年間でした。しかし、一段落ついた時期でもありましたから、もしかするとこの上は、私が傲慢になるので、神さまがストップをかけられたのかもしれません。…僅か三年で荒尾を去ることとなったのです。
教会は、私たちのために牧師館まで建てて下さり、今後に期待も寄せていて下さったのです。幼稚園でも、母の会や園児のご家族からどうして辞めるのかと、ある方は転任させないように陳情に行くなどと言われて…一所懸命断りを言ったことでした。私としても去り難い、心残りの思いがつのるばかりでした。

本日は、岩高先生を大阪よりお招きします。何よりもこの出会いをつくって下さった神さまに感謝する時としましょう。(有明海のほとり便り no.237)

樋口義也牧師(5代目・1966年春~1971年春)

樋口義也牧師は、64年神学校を卒業し、坪井教会伝道師また原水伝道所の主任者として過ごします。荒尾教会の後は、大阪相川教会に赴任されます。好善社の働きにも深く関われました。

教会は各聖日毎の御言葉によって立つことを純粋に信じ、ひたすら、説教の準備に多くの時間を用いました。一生懸命説教をしていたら、必ず、聞く耳を持つ人を増して下さる。という思いで、毎週の礼拝を迎えていました。…短い間ですが、若い伝道者を忍耐して、育てて下さったと感謝しています。
…当時の教会付属幼稚園は、無牧の影響で、園児20名にもとどかない、いつ閉園になっても不思議でない幼稚園でした。長老会でも、もし、伝道に不要なら、閉園してもかまわないという、意見も聞かれていました。私にも意見を求められましたが、荒尾市街から、かなり離れたところで伝道の使命を果たしていくには、幼稚園の働きは大きいと考え、めぐみ幼稚園の継続を決意いたしました。とは言え、園児募集の激戦区である荒尾では、駆け出しの若い牧師には、並大抵のことではありませんでした。…ほとんどの園は、スクールバスで送迎していましたから、めぐみは、私がキャロル360を運転して、朝夕の送り迎えをいたしました。

園の歴史の中で、園児20名にも届かない状況になったことがあったことを、初めて知りました。経営的にはどん底であったであろうことが、容易に想像できます。もしこの頃に閉園していたら、今とはまったく違う教会になっていたでしょう。そして岩高牧師や小平牧師が赴任することもなかったはずです。

何よりも伝道の使命として園が建てられていること、そしてどん底にも関わらず、懸命に、祈りながら、樋口先生そして先達たちが園の働きを担って下さったのです。(有明海のほとり便り no.236)

井柳福次郎牧師(4代目・1963年春~1965年春)

井柳福次郎牧師は、静岡県に生まれ、63年日本聖書神学校卒業し、荒尾、鳥羽、四日市教会を牧会し、02年隠退。2018年18年11月10日に87歳で召天されました。

神学生時代、宮崎姉と同じ東京の美竹教会で教会生活を許された私に、荒尾教会を奨めて下さったのは同姉と恩師浅野順一先生でした。先ず、夏期伝道ということになって、1962年の夏に荒尾教会を訪ねた時が最初の出会いでした。ドラマチック?な夏期伝道を体験して帰京し、荒尾教会に赴任しましたのは翌年の4月でした。三池炭鉱労働争議の直後のことでその波紋は教会にも伝わっていました。…その秋、三川鉱の爆発事故があり、458名の犠牲者が出ました。全国からのお見舞品の分配や、関係組合員の御宅にお伺いしました。
…こうした尽きぬ楽しい想い出の背後には教会に仕える諸兄姉の厚い祈りと支えがあったことを忘れません。独身時代の半年、そして結婚後、私共家族が主に仕える諸兄姉から暖かい交わりと励ましをたくさん頂きましたことを合わせて感謝致します。荒尾在任中に生まれた長男(基名)も今は結婚して聖和大学の教師として、妻みどりもささえられてこひつじ幼稚園にそれぞれ勤務しております。

荒尾教会創設に尽くした宮崎貞子先生は東京の恵泉女学園で1953年から1962年まで英語と聖書の教師として働かれました。当時出席されていたのが、著名な旧約学者でもある浅野順一牧師が牧会する美竹教会でした。そこに神学生として出席していた井柳先生が初任地として荒尾教会に遣わされたのです。新任教師として、三池炭鉱労働争議そして三川鉱炭じん爆発事故という激動の中での働きに困難は尽きなかったはずです。けれども何よりも教会員の「厚い祈りと支えがあった」こと、その多くの先達がすでに召されていることを召天者記念礼拝の今日、覚え繋いでいきたいと願っています。(有明海のほとり便り no.235)

田中従夫牧師(代務、1962年度・1965年度)

田中従夫牧師は、1954年春から1966年春まで、熊本坪井教会を牧会されましたが、その間、荒尾教会が無牧師になった際に代務教師となり支えて下さいました。

あのなだらかな丘の上の教会堂内外の光景が目に浮かびます。山羊が飼われていたこともありました。山羊の乳を食料の補給とされた牧師先生のご苦労も想い出します。私も時々御教会が無牧の時などに礼拝説教に招かれ参上したこともあります。…牧師をなさった方の中で唯今東洋英和女学院大学で宗教主任をしておられる浜辺達男先生には、東北で神学会の折にお逢いして、坪井教会と荒尾教会の合同の夏期修養会が楽しかったことなど話し合いました。四日市教会の牧師井柳福次郎先生には改革長老教会協議会で何度かお目にかかり、御健闘ぶりに接し嬉しく思いました。必ず年賀状を下さる工藤真二兄は熊大(花陵会)出身で、唯今も荒尾在住ですね。オーガニストをしておられ、唯今は高松在住の平尾昌子様(旧姓がどうしても想いだせません)が東北旅行の序に、仙台東一番丁教会の牧師館をお訪ねくださいまして、折柄の七夕祭りのご案内をしたこともありました。

田中先生はあくまで「時々」手伝っただけに過ぎないと書かれていますが、実際の働きにはもっと深く多岐に渡ったようです。坪井教会(現・錦ヶ丘教会)との夏の合同修養会は無牧期間中も続き、5代目の樋口牧師の際も聖餐式のために毎月のように通って下さったと記されています。経済的にも坪井教会からの大きな援助がありました。その背景には、田中先生をはじめとする坪井教会の方たちの祈りがありました。

田中先生が赴任された仙台東一番丁教会には、私が仙台にいた際に何度も訪問しお世話になった教会の一つです。

ここにも不思議な導きを感じています。(有明海のほとり便り no.234)

濱邊(浜辺)達男牧師(3代目・1957年~1962年)

濱邊(浜辺)達男牧師は、神学校を卒業してから荒尾、前原を牧会、1966年青山学院大学経営学部宗教主任、弘前学院大学教授、東洋英和女学院大学教授を経て2003年退職。茅ヶ崎堤教会を経て14年隠退。2020年4月15日87歳で召天されました。

卒業直後の未熟な私が担当した5年間はよき成果を上げたとはとても思えません。…地域に伝道を協力に進めるための力が色々の点で不足していましたが、何よりも指導者であるべき私の力不足が大きかったと、悔やまれてなりません。…1959年秋から炭住街を舞台に、指名解雇の是非をめぐって、炭鉱マンとその家族が、隣り同士で口論したり、相互に不信を増していった様子が、あちこちで見られるようになりました。…このように地元を襲った嵐のような社会問題が、未だ十年余の歴史しか経ていない荒尾教会にまで影響を与え、その争いが教会内部にまで浸透してくるのを防ぐのは全く不可能なことでした。
…このような嵐の中にあって、附属幼稚園の経営も大きな難問にぶつかっていました。園児募集がうまく行きませんでした。それでもやめなかったのには、教会員の頑張りがあったからだと思います。妻敬子も幼稚園教諭に加わりました。今日まで幼稚園が継続している様子をうかがい、あの時に細々ながらも続けて来て、本当によかったと思っています。・・・私にとって、荒尾教会での五年間の経験は、それ以後歩んできた私の人生を規定するほどの、大きな影響を与え続けてきました。

このように振り返る濱邊(浜辺)先生の文章を読み、荒尾教会・荒尾めぐみ幼稚園が通ってきた道が決して平坦で順風満帆ではないこと、むしろ葛藤の中をくぐり抜けてきたことに、私は気付かされました。けれども神さまは今日まで繋げられたのです。(有明海のほとり便り no.233)

牧野富士夫牧師(2代目・1953年~1956年)

1953年春、東京で結婚式を挙げたばかりの牧野富士夫牧師が荒尾に遣わされました。先生は静岡県に生まれ、日本聖書神学校卒業後、1952年より沼津教会、荒尾教会、美竹教会、真駒内教会、利別教会を牧会し、2010年5月25日に81歳で召天。50周年誌では特に2名の教会員について綴られています。

堀司馬太郎さん。当時七十歳を越えていました。長洲駅の隣で小さな食料品の店を、朝六時から夜は十時の終列車の通過後まで開いており、奥様はリュウマチで寝たきり、長男は結核で殆ど働けず、一人で店を守っていました。それでも日曜には必ず店を閉じて出席。一番前の席に座って説教が始まるとすぐに大船を漕いでいる。そして、礼拝が終わるとつかつかと前に出てきて、私の手を握り、「先生、今日の説教はよかった。」…。ほかの人なら怒り出したくなるところですが、堀さんの巨体とそれに釣り合ったスケールの大きな人格、老年の逆境と重荷を包み込んで一つの愚痴も言わぬその生き方は、私に無言の力を与えてくれました
白谷マツエさん。当時、宮崎先生のお宅の家政婦のような仕事をしておられましたが、先生が荒尾を去られた後、二・三里も離れた親戚に身を寄せ、そこから、歩いて礼拝。祈祷会には必ず出席、いつも涙を流し熱烈な祈りをして下さいました。説教にも伝道にもいつも行き詰まって、機会があれば夜逃げでもしたい位の私でしたが、「この人を見棄てて絶対に夜逃げすることはできない」と踏み止まらせてくれたのは、重荷を負わされながらも強く信仰に生きる白谷さんの存在でした。
…一緒に幼稚園で働いた大内マサ子さん、松下敏子さん、村上良子さん。私達はその後札幌の郊外で二十六年間、開拓伝道と幼稚園に携わりましたが、あんなに気持ちよく苦労を分かち合ったことはありません

真駒内教会・利別教会はともに、私にとってもささやかな繋がりのある教会で、不思議な導きを感じています。(有明海のほとり便り no.232)

川崎嗣夫牧師(初代・1951年~1953年)

1947年秋、川崎嗣夫牧師シベリア抑留から復員されました。1948年には日本基督教神学専門学校に復学し、卒業年次の夏期伝道実習先が荒尾「伝道所」だったそうです。そして卒業し初任地として荒尾に遣わされました。富士、本郷、小金井西ノ台教会を牧会し、2015年2月19日91歳で召天されました。

今でも私の脳裏に焼きついていることは主イエスが荒尾の地に立たれて私を差し招いておられるそのみ姿が幻想に思い起こされるのである。
…この小さな群れは是非ともこの地に礼拝堂を建て福音の前進に仕えようという祈りにおいて結集し、その願いの実現のため力を注ぐこととなった。このことのために母教会としての坪井教会(現・錦ケ丘教会)の長老会や教会員の方々の物心両面にわたるご尽力を忘れることはできない。総工費七十万円、礼拝堂並びに牧師館。地元で工費の半分を負担し、二十七年三月に竣工、四月献堂式を迎えることとなった
…教会はこの働きに当たって当初より幼な子達への伝道の志を持ち、幼稚園を建設することが願われていたが、それは荒尾市の希望でもあり、四百坪の土地が与えられた。この業の実現に当たっての宮崎長老のご尽力を忘れてはならない。
…先に述べた献堂式の前、私たちも新しい家庭が与えられ、教会員の皆様も喜びを共にし、将来に向けて希望をもっていただいたのであるが、その数カ月後、病を得、十分な奉仕ができないまま二十八年春御教会を去ることになった。その後、幸いにして健康を回復し、静岡県の富士教会で二十七年間、東京の本郷教会で十六年間と、荒尾教会に仕わされてから、計四十五年間、いとちいさきものながら主の教会に仕えることが許された。

荒尾教会草創期にあっての先達の祈りと働きを覚えましょう。(有明海のほとり便り no.231)

幻の50周年誌

27日に、隈府教会で小平善行牧師に75周年を記念してインタビューを行いました。その際に渡されたのが『荒尾教会50周年誌』の原稿です。小平先生はこの記念誌を発行されるためにご尽力されましたが、お連れ合いの恵子さんが病床にあった時期でもあり、発行までには至りませんでした。

データとして入力したものを印刷したものですが、すでにデータはないとのことで、貴重な1冊でした。すぐにコピーし、スキャンもしてデータにした上で、小平先生へお返ししました。データは近日中にHPにもアップし、教会員の皆さんにも印刷したものをお渡しできればと願っています。

まず驚いたのは、小平先生に至るまでのすべての歴代牧師が原稿を寄せて下さっている点です。川崎嗣夫牧師、牧野富士男牧師、浜辺達男牧師、田中従夫牧師(代務)、井柳福次郎牧師、樋口義也牧師、岩高澄牧師それぞれが荒尾教会・荒尾めぐみ幼稚園時代のことを振り返り書かれています。多くの方はすでに召天していますから、荒尾教会にとっては貴重な遺言になっているのです。

さらには信徒の方たちからの証しも貴重なものです。すでに召天されている方も何人もおられます。召天者記念礼拝でだけでしかお名前を知らない方のことも、証しには出てきます。

どれもまさに「玉」稿で、つくづく、今日ここに荒尾教会が至るまでには、神さまの不思議な導きがあったことを思わされ、畏れと感謝を抱いています。75周年記念礼拝に向けて、毎週一つずつそれらの原稿について紹介していきたいと思います。

いま私たちは中々先の見えない混乱の中を歩んでいます。けれども、先達の信仰に励まされつつ、私たちはイエスをキリスト(救い主)と告白しつつ愚直に歩んでまいりましょう。(有明海のほとり便り no.230)

正教師試験、二種教職制

原野先生との会話の中で、一年後に迫ってきている正教師試験について話すことが多くなってきました。正教師試験の範囲は多岐にわたります。

まずレポート課題を4科目「旧約釈義・説教」、「新約釈義・説教」、「神学論文」、「組織神学」、事前に提出します。当日の筆記試験は、「教憲教規および諸規則・宗教法人法」、「旧約聖書神学」、「新約聖書神学」、「教会史」の4科目です。どれも予習がかかせません。しかも最初の3科目は手元に教規や法人法あるいは聖書が与えられますが、教会史は手元に何も(!)ありません。しかも教会史は範囲が広く、私の場合はほとんどカバーしていなかった(過去問にもなかった!)分野で、問題を見た途端、冷や汗をかきました。それでも何とか「書きまくった」のですが、レポート提出が求められました。これら4科目を1日で終わらせるのですから、終わった途端ヘロヘロでした。

試験官の教師たちがひと晩かけて採点・講評を加えていきます。そして二日目。面接試験では、昨日のテスト結果についてコメントをいただき、聖礼典理解や福音理解について問われます。神の愛が広く深いように、それを表す聖礼典や福音も広く深いものがあります。けれども、どうしても教条的な回答のみを求められているように感じ、その点は残念でした。

また、日本キリスト教団が抱える課題として「二種教職制問題」があります。戦時中、国の圧力のもとで日本基督教団が作られますが、その影響の中で、二種教職などそもそも存在しない教派にも押し付けた制度でした。さらに補教師も教師に関わらず聖礼典執行が出来ないという矛盾も生み出しました。あえて補教師のままで牧会を続けている牧師たちもいます。九州教区では教団総会に問題提起を続けていることも覚えていきましょう。(有明海のほとり便り no.229)

『牧師、閉鎖病棟に入る』

「牧師」にとっては、とてもショッキングなタイトルの本が出版されました。しかも、この本の著者は同じ日本キリスト教団の沼田和也牧師です。

恐る恐る本を開くと、沼田先生の経験が自分のものとオーバーラップし、これは買わねばと思ったのです。沼田先生は関西学院大神学部を卒業後、少子化が進む地方にある小教会の牧師と、「それなりに大きな幼稚園の理事長兼園長」(p.12)を担っておられました。

しかしとくにここ数年、幼稚園教育は専門性を増していき…もはや素人の手に負えるものではなくなってきていた。…我が園も来るべき経営難に備えて、県や市からの援助も潤沢な幼保連携型認定こども園への変更準備を進めていたのである。ところがそのための膨大な書類や職場管理の厳密さは、それこそしょせん保育の素人に過ぎないわたしの手に余った。(p.12-13)

その重責の中で、「自分は牧師なんだろうか?むしろ幼稚園職員ではないのか?」(p.130)と迷いながら、沼田先生は常に緊張した日々を過ごし、笑顔も失っていきます。ある日、一気に爆発してしまい園を飛び出します。

逡巡した後に、お連れ合いからの支えもあり、精神科の主治医に相談すると、閉鎖病棟に入院することになります。教会と幼稚園は辞されました。特に私に響いたのは、一人の牧師として自分自身を振り返る姿でした。

牧師として、悩んだり苦しんだりしている人をケアしたり指導したりしているとこれまで思ってきたが、それは神の前で思い上がることであった。わたしもまた、弱い一人の人間に過ぎなかった。(p.204) 

牧師園長として「相応しい振る舞い」があり、自分なりに努めてはいるつもりですが、神の前で思い上がっているのではないか、重荷を重荷として分かち合い、弱い一人の人間として歩めているか、振り返る機会となりました。(有明海のほとり便り no.228)