日本による植民地支配

歴史社会学者マニュエル・ヤンさん(日本女子大准教授)の父は台湾人牧師でした。その父のもと、マニュエルさんはブラジルで生まれ、神戸、アメリカ・ロサンゼルス、台湾、アメリカ・ダラスで育ちます。父のことを次のように振り返っています。

父が生まれたのは1920年、台湾がまだ日本の植民地だった時代です。1920年は、日本の有名なキリスト教伝道者賀川豊彦が一躍ベストセラーになった自伝小説『死線を越えて』を出版した年でもあります。…父自身が伝道者になり台湾語で福音を伝え始めると、彼は抗日活動の嫌疑で日本軍によって一年間以上投獄されました。22歳の時です。「刑務所は労働者階級の大学だ」とマルコムXは定義しましたが、留置所の中で周囲の人たちの苦難や死に直面し、もっとも虐げられた人たちと共に生活したどん底の体験から多くのことを父は学びました。この不正な監禁の日々が彼の人生にとって決定的な瞬間であったことは確実です。ですが、父はこの留置所体験を公に語ることを憚りました。なぜならキリスト教殉教者の苦難に比べ、そして言うまでもなく、裏切り、拷問、磔にいたるイエス・キリスト自身の受難に比べれば、何でもないことだと考えていたからです。
…見えないものは見えるものよりも力があること、霊(スピリット)は唯物的な力(パワー)に絶対に勝利できることを彼は示してくれました。(「福音と世界」)

8月15日を日本では「終戦記念日」と呼びますが、韓国や台湾にとっては「解放記念日」となります。わたし達はついつい日本がどのような被害を受けたのかにばかり目を向けがちですが、同時に日本がどのような暴力を植民地で繰り広げたのかについて、もっと学んでいきたいと願っています。(有明海のほとり便り no.372)

水口教会・水口幼稚園

滋賀県にある水口(みなくち)教会は、2010年夏に教会実習で1ヶ月以上を過ごした教会です。谷村德幸牧師には以来とてもお世話になっていて、年に何回かは電話をしていたのですが、対面でお会いするのはとても久しぶりでした。附属の水口幼稚園は、遊び中心のキリスト教保育の中で、子どもたちが本当に伸び伸びと育っていました。

決して広くはない園庭には「冒険の森」と呼ばれる大型木製遊具があります。簡単には登れないようになっていて、子どもたちのワクワクや挑戦を引き出していました。はて、どこかで聞いたことがあるような…。

いま荒尾めぐみ幼稚園で大切にしている「遊び」「子ども主体」「あたたかいキリスト教保育」、どれもがこの水口幼稚園に詰まっていたのです!実習当時は、将来牧師園長をするとは想像していませんでしたが、水口幼稚園のキリスト教保育に衝撃を受けたことは間違いありません。7名の先生方が荒尾めぐみ幼稚園を訪問して下さいました。最後に礼拝堂で質疑応答の時間を取ったのですが、どの先生からも鋭い質問が出てきてとても刺激的でした。それだけ、先生方が真剣に保育に取り組んでいることが伝わってきました。

谷村牧師からは14年前の実習報告書をお土産に😁

牧師・教師とは何か、何を生活のたつきにしていくのか、という問題を考えてもらいたい。宣教(説教)はよく準備されたものだったが、その分、机(パソコン)に向かっている時間が長かったように感じる。地方の小規模教会で働くなら“説教最優先”という思い込みは卒業前に(いつか)問われなければならないように思う。

この課題を再確認しつつ、大きな励ましをいただいた再会でした。(有明海のほとり便り no.371)

『迷える社会と迷えるわたし』②

4月に紹介した精神科医・香山リカさんの著書です。特に後半に掲載されている賀来周一牧師(1931-)との対談が非常に興味深いものでした。賀来牧師は日本福音ルーテル教会の牧師であり、長くキリスト教カウンセリンセンターの働きにも従事され、日本におけるキリスト教カウンセリングの第一人者です。香山さんの鋭い質問に対し、賀来牧師が答えていきます。

教会の働きは大きく伝道と牧会に分けられます。大まかに言えば、伝道とは教会が社会に向かって呼びかける働きと言えるでしょうし、牧会とは社会が教会に求めることに応じる働きと言えます。(p.116)

宗教でしか解決できないような問題、例えば先ほど申し上げた死の問題、それに不条理の問題ですね。「あなたはもう大丈夫。自分のことは自分で主体的に責任が取れます」では済まされない世界が広がっていて、信仰の世界が必要となる。(p.120)

考えてわかる、目で見て実証する知の世界では答えがない問題に人はぶつかることがあるのです。それこそ「スピリチュアルペイン(痛み)」の問題でWHOが取り扱うべき問題の中に加えています。(p.145)

私はよく神学生に、牧師になったら絶望と徒労に慣れなさいと言うことがあります。生身の人間としてはそのようなところに身を置くことがしばしばあるからです。 (p.166) 

印象的だったのは、キリスト教カウンセリングはあくまでキリスト教の人間観・世界観に立った上でのカウンセリングであり、信仰を求めるものではないという点です。つまり、賀来牧師の分類で言えば、社会が教会に求めることに応じる牧会の働きだということです。そして、キリスト教保育も牧会の働きの一つなのだと気付かされました。(有明海のほとり便り no.370)

神さまが建てている

高校時代の恩師・F先生から電話が園にあったのだけれど、本当に様々なことが重なり折り返す余裕もなく過ごしていたら、再び電話をいただき、何回か互いに電話をかけあってようやく繋がった。

そもそもわたしが数学を専攻しようと思ったのも、京大卒で受験勉強に詳しい(?)F先生に医学部にいきたいと相談した際に、「毎日数学と英語をしたらいい」と教えられ、まずは数学からとコツコツ問題を解き始めたことが、面白さに気付かされたきっかけだった。数学の問題でドツボにハマった時に、F先生に話すと的確なヒントを与えられた。決して答えではなく、ヒントのみ。さらに数学は鉛筆ではなくボールペンでやったらいいとも教えられた。間違えを「消す」のではなく、しっかりと「受け止める」ことが大切だから。ある時、聖書を片手に握りしめながら、「卒業してもこれだけは、どこに行っても持っていってほしい。必ずあなたたちの支えになるから」と言っていた姿を、25年経った今でも折に触れて思い出す。

そんなF先生との電話での話題は尽きない。その電話口で、「この独立学園が神さまから必要とされなくなったら潰れてもいいんだよ」とサラッと言われ、久しぶりに原点に呼び戻された。もちろん誰一人として学園が潰れていいなどと思っていないし、F先生自身、繋いでいくために日々祈り、懸命に教育に携わっている。けれども、学園を本当の意味で導き繋いでいっているのは、人間ではなく神さまなのだ。そこを見誤ってしまうと、神ならぬものを神にしたり、人が神になってしまう。十戒で示された本当の自由を失ってしまう

この荒尾教会・荒尾めぐみ幼稚園、そして霊泉幼稚園も、神さまが建てていることを忘れてはならないと、再確認することが出来た。(有明海のほとり便り no.369)

『きみのお金は誰のため』

久しぶりの東京出張となりました。一泊ですので荷物はもちろん最小限にするように務めましたが、いつも(?)のごとく、リュックには本がギリギリまで入っていました。飛行機や電車での移動中はひたすら読みまくります。お陰様で、4冊近くの本を読み終わることが出来ました。その中に、田内学さんが書かれた『きみのお金は誰のため』がありました。とても話題になっている本で、多くの本屋に置いてあります。田内さんはゴールドマン・サックスという世界有数の金融証券会社でバリバリ働く中で、そこで矛盾を感じ、いまは社会的金融教育者として活躍されています。

NISAやFIREといった言葉に象徴される「投資」がいま注目されていますが、その前に、そもそも「お金」とは一体何なのか?、という問いに答えようとしている良著です。

優斗くんが年末に買ってきてくれたどら焼きを、二百円で手に入れたと感じるか、和菓子屋のおばちゃんが作ってくれたと感じるかの違いや。

“ぼくたち”の範囲がせまくて、おばちゃんが外側にいる赤の他人やと思えば、二百円で手に入れたと感じる。つまり、お金がすべてを解決したという感覚になる。しかし、“ぼくたち”の範囲が広がって、おばちゃんをその内側にいる仲間やと思えれば、おばちゃんが作ってくれたと感じる。

この“ぼくたち”の範囲は、知り合いかどうかではなくて、僕らの意識次第や。お金の奴隷になっている人ほど、この範囲はせまくなって、家族くらいしか入らへん。いや、家族も入らない人もいるやろうな。(pp.214-215)

わたし達は「お金の奴隷」になっているのでは?「お金」が万能だと思いこんでしまっているのでは?この本で与えられている問いかけは、どこかイエスの問いかけにも繋がっています。(有明海のほとり便り no.367)

預言者をめぐって

「預言者をこの世界は求めている」。そのように感じることが度々あります。日本社会も世界も、暴力と傷で溢れています。宗教も政治も行政も、それぞれが出来ることをなしているとはいえ、不十分なものであり、時に自らも過ちを犯すものです。旧約学者・並木浩一と文学者・奥泉光の対談で預言者を次のように描いています。

並木 預言者は国家機構の外に身を置く個人です。そして国家と社会、宗教のあり方に痛烈な批判を展開する。…彼らは社会を捨ててしまった宗教者ではない。この世界における社会倫理の実践を重視する者たちです。彼らは、民や指導者が社会倫理の実践を怠って不正を行うと、神の怒りと裁きを招くということを強烈な言葉で語った。

奥泉 これがすごいですよね。普通は神が怒るのは、儀式で失敗するとか、聖所を汚すとかですよね。しかしそうではない。問題にされるのは、要するに人々の日常の倫理です。日常のモラルが退廃していることが神の怒りの根拠となる。これは人類史上、画期的です。

並木 …現実を重視するということですね。それはまた現実のあり方の破壊、もしくは理想の完成としての将来に注目する姿勢をも生む。「終末論」という独特の見方を生み出した。その伝統の出発点が預言者にある。…「神の国」として、新約聖書にも引き継がれていくし、キリスト教に引き継がれていく。 (『旧約聖書がわかる本』pp.150-151) 

毎週の主の祈りでは、「御国が来ますように」、つまり「神の国が来ますように」と祈っています。預言者はモーセのような偉大な人物ばかりではありません。わたし達も小さな預言者としてこの祈りを分かち合っていきましょう。(有明海のほとり便り no.365)

キリスト教のエッセンス

昨日はキリスト教保育連盟熊本地区の春季保育者研修会でした。春の研修ではいつも「キリスト教理解」といって、会場となった教会の牧師が、とても分かりやすくキリスト教のエッセンスを解説して下さいます。同じ「牧師」として、その伝えた方も含め学ばされることの多い時となっています。

昨日の会場は神水ルーテル教会であり、角本浩牧師が「聖書(キリスト教)から示されているもの」と題してお話し下さいました。

・キリスト教のエッセンスは「神を愛しなさい」と「隣人を愛しなさい」の両方に集約される。
・聖書の道徳律や励まし(doing)、慰めの言葉は受け入れられやすい。「キリスト教の園に預けると優しい子に育つ」と信頼されている。
・けれども「神を愛しなさい」は宗教性を持つ言葉として一般的に受け入れ難い。
・こちらはbeing(存在・根源・そのままの自分…)を表す
・神さまは愛するために創られた。失敗作は一つもない。あなたはonly oneでbest one。
・「感謝は足し算のようなもの。すべてのことに感謝すると、そこには神様の祝福が増し加わる。どんなことでも、どこででも感謝すると、プラスの祝福が訪れる。しかし反対に恨みと不平は、引き算のようなもの。ある物まで奪い去られてなくなってしまう。」(マシューヘンリー)

最後に角本牧師が、ハラスメント相談窓口としての働きの中で、保育現場ではパワハラが多いと実感していること、まずはハラスメントとは何かをしっかり学び、もしハラスメントを受けた時に、どこにどうやって相談したらよいか知っておく大切さを語られ、胸に響きました。荒尾めぐみ・霊泉も取り組んでいきたいと願っています。(有明海のほとり便り no.364)

シャガール『ノアの箱舟』

漫画もテレビもない(もちろん当時スマホなど存在すらしない)全寮制の高校生活でよく行っていたのが、学校の図書館でした。教職員合わせて100人くらいの規模の共同体でしたが、図書「室」というよりも図書「館」といった方が相応しい空間と充実した内容でした。奥へ奥へ進むと出会ったことのないような本に出会う設計になっており、いま振り返れば、真理を探求する・学問をすることを身体で体験するような場所だったことに気付かされます。

そもそもアートにほとんど出会ったことのなかった自分が、様々な絵画に触れたのもこの図書館でした。『現代世界美術全集』が何冊も所蔵されており、絵画が持つ力に驚きクラクラしました。特に深い印象を抱いたのが、マルク・シャガールの作品でした。

最近『ノアの箱舟』という作品があることを知りました。旧約学者・並木浩一と文学者・奥泉光の対談で触れていたのです。

並木 人間のために巻き添えを食らったんだ。それはそうなんだけども、動物たちを巻き込んだ責任を、やはりノアが背負っていた。動物たち雌雄を残していかなければならないという仕事をやった。そういう場面をシャガールが描いている。

奥泉 いろんな動物が列をなしていて、そこに象がいれば、人間のほうが小さく描かれたりするだろう。ところがシャガールは全然違っていて、箱舟の前方にどんとノアの姿が描かれる。変な絵ですよね。

並木 人間の尊厳と責任が問われているから。それが確立されていないと、そういう絵は描けない。(『旧約聖書がわかる本』pp.117-118) 

聖書とアートは深く繋がっているのです。(有明海のほとり便り no.363)

『春いちばん』

作家・玉岡かおるによる、賀川豊彦の連れ合い・ハルの物語です。豊彦のことはかなり知られていますが、ハルのことはほとんど知られていません。わたし自身、この本を読んで初めてその姿に触れることが出来ました。

賀川豊彦(1888-1960)は、キリスト教社会運動家・牧師として数多くの働きをなしました。初期の労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動(生協)を立ち上げていきます。豊彦は神戸・新川地区を拠点にまず当時の貧困問題に取り組んでいきます。ちょうどその頃に、ハルとの出会いが与えられ結婚します。すでに有名になりつつあった豊彦ですが、決して自分たちのために財を蓄えるわけでもなく、収入の多くは社会運動に消えていく中で、ハルはまさに豊彦と二人三脚で歩んでいきます。豊彦は新川の人たちに向かって

「病気や急用で手がいる時は遠慮なく言ってください。このお嫁さんはおたくの女中になって働きます」(p.256)

と紹介したそうです。「女中」と言われたハルを含めて周りの人々はもちろん驚き戸惑います。言い方によっては、かなり差別的な発言とも取れます。けれども、ハルは「神と人とに仕える」めざましい働きを豊彦と共に実践していったのです。トラコーマ感染症が広がる中で、予防に尽力したハル自らも感染し右目を失明したにも関わらず、ハルは新川で貧困層の生活を共にしていきました。

豊彦がアメリカ留学中には、ハル自身も神学校で学び、さらには「覚醒婦人協会」を設立します。1922年の演説の中でハルは次のように言っています。

男子の人格を認めると同様、女子の人格を認めなくてはなりませぬ。覚醒した婦人は自分の人格を尊重すると同時に、他人の人権も尊重せねばならぬことを忘れてはならぬ。(新婦人協会の演説会にて) 

このようなハルあっての豊彦でもあったのです。(有明海のほとり便り no.362)

三津教会・教会子ども食堂

荒尾めぐみ幼稚園では毎週月曜日に献金をお捧げしています。コツコツと貯めた献金は、クリスマス献金と併せて毎年10万円近くにもなります。献金先として、子どもと関わるキリスト教関係の諸団体へ送らせていただいています。その一つが、尊敬するM牧師が牧会する日本キリスト教団三津教会が運営する「教会子ども食堂」です。

今年も荒尾教会のイースターにはクッキーをプレゼントに選びましたが、森分先生が関係する福祉作業所に発注しています。すると先日、今度は森分先生から荒尾めぐみ幼稚園の子どもたちにペンテコステクッキーが届いたのです!

森分先生からのお便りには次のように綴られていました。

…過日には教会子ども食堂に大切な献金をお送り下さりありがとうございました。地域の子どもたちや、今、心や身体、生活が苦しい方々を支える働きができるように、いっそう力を合わせてイエス様の温かいまなざしを届けられるように大切に使わせて頂きます。佐藤先生、先生方、子どもたちの上に神さまのお守りを心よりお祈り申し上げます。

毎月の子ども食堂では年間380人もの子どもたちが利用しており、さらにフードバンクにも取り組み、寄付などで集めた食料品などを生活が苦しい方々に無償でお渡しもしています。子ども食堂を利用されている方のメッセージが心を打ちました。

いつも楽しみにしています。シングルで大変な毎日ですが、ここにくることで心が救われます。いつもありがとうございます。

教会員だけでなく近隣教会や地域の方たち、大学生・高校生もボランティアに来られている子ども食堂は、まさに教会の働きです。機会を作って荒尾教会のみんなで学びに行きたいと願っています。(有明海のほとり便り no.361)