一回一回が仕始めで、仕納め

 渡辺和子シスターが著書『面倒だから、しよう』の中で、次のたとえ話を紹介しています。

江戸時代、堺の町に吉兵衛という人がいました。商売も繁昌していたのですが、妻が寝たきりの病人になってしまいました。
使用人も多くいたのにもかかわらず、吉兵衛は、妻の下の世話を他人には任せず、忙しい仕事の合間を縫って、してやっていました。周囲の人々がいいました。「よく飽きもせず、なさっていますね。お疲れでしょう」それに対し、吉兵衛は、こう答えたといわれています。
「何をおっしゃいます。一回一回が仕始めで、仕納めでございます」
…随分前のことになりますが、一人の神父が、初ミサをたてるにあたっていった言葉も、私に反省を促します。「自分はこれから、何万回とミサをたてることになるだろうが、その一回一回を、最初で、唯一で、最後のミサのつもりでたてたいと思う」

丁寧に生きること、それは神さまに与えられた「いま」を十全に生きることなのだと思います。神さまに与えられたこの<いのち>が、有限であること、そこにすでにかけがえのなさが込められているのです。吉兵衛や、渡辺シスターが出会った神父の言葉が、そのことを思い出させ、そして自分自身、中々丁寧に生きることが出来ていないことを反省させられました。

園では卒園式が間近になり、きりんさん(年長)が旅立つ日も近づいて来ました。残りの日々が、「仕始めで、仕納め」として、「最初で、唯一で、最後」の時として、丁寧に過ごしていきたいと願っています。(有明海のほとり便り no.296)