言葉といとなみ

東京・町田にある農村伝道神学校から学報が届きました。巻頭メッセージで、教師の池迫直人牧師(生田教会兼務)が、「身体を動かして」と題し、ひと言で言えば「農村伝道について」とても興味深い論考を寄稿されています。

池迫教師は九州出身で、農伝卒業後は田瀬教会(岐阜)や田名部教会(青森)そしてアジア学院(栃木)などを経て、わたしが在学中には、藤沢大庭教会(神奈川)を牧会しつつ神学校で農業実習などを教えておられました。いまでも親しくさせてもらっています。

そんな池迫教師の牧会の原体験として、田瀬教会の信徒の方たちと、一町歩余りもある広大な教会の傾斜地の整備していく中で、農民として生きる信徒の方たちとの出会いがあったことを知りました。

農村伝道神学校にも広大な土地と木々があり、管理が大変なのですが、特にいまナラ枯れが起こり、環境が悪化してきています。池迫教師はこの課題に取り組む中で、「このようないとなみが神学教育といかに切り結ぶのか、自問」していきます。それは普遍的な「信仰と行為」の問題でもあり、同時に「農村伝道」の問題でもあります。

誠実な農家の皆さんには、語られる言葉を観て、触ることができる、直感的に単なる思弁かどうかは自ずと知れるだろう。そういえば、高森草庵を訪ねた30年前、押田神父が「こんな処に(瞑想をしに)来る前に、そこらの農家に行って、教えてもらって来い!」と喝破されていた。

牧師として語るわたしの「言葉」が、単なる思弁に終わってしまっているのではないか、深い神のいとなみに繋がろうとしているものなのか、改めて問いをいただきました。特に「農のいとなみ」の中に、そのヒントがたくさんありそうです。(有明海のほとり便り no.300)