ツバメノート

札幌の義母が牧会の働きのためにと、一冊のノートをプレゼントしてくれたことがあった。ツバメノート「W3011」という種類で、B5サイズで100枚(200ページ)の大学ノート。一枚一枚の質感がとてもよく、説教準備に使わせてもらうようになり、もはや他のノートを使うことは考えられない。すでに2冊目の終盤に入ってきた。

説教は、①釈義→②黙想→③説教作成 という順序をたどる。見開きの左ページで①釈義を行い、右ページで②黙想を行う。そして、①・②のノートをもとにパソコンで③説教作成を行っていく。…というか他のスタイルを試したことがなく、この順序を辿らねばという強迫観念のようなものもある。

辛いのは、月曜から土曜までびっしり園の仕事が入り、取り掛かるのがギリギリになってしまった時。①釈義にどれだけ早く取り掛かれるのかで、土曜の睡眠時間が決まる。場合によっては一睡も出来ず日曜の朝を迎えることもある。目の前に置いてあるツバメノートは、なんとか見開き両ページが埋まっていても、肝心の説教作成に繋がっていかず途方に暮れることもある。

「神ならぬ罪深き人間が神の言葉を語る」プレッシャーを常に感じつつ、「とにかく思いつくまま書きつらねてみる」という先輩牧師のアドバイスを胸にタイプしていくが…。

途方に暮れると、ツバメノートをパラパラとめくって以前の黙想に目を通す。当時、自分が心動かされた思い巡らしや文章を記しているので興味深いのだが、それがそのまま、いま取り組んでいる聖書箇所の黙想とはならない。考えてみれば当たり前で、聖書箇所と「いま」が変わっている中で、まったく同じ黙想はありえないのだ。

ツバメノートが少し落胆しているわたしを、温かく見守っている。(有明海のほとり便り no.306)