狭山ひかり幼稚園

2年半前、霊泉の園舎建築に向けて、関連資料を読み漁った際、特に目を奪われたのが、埼玉・狭山ひかり幼稚園の園舎だった。木を豊かに使った木造平屋園舎は、各保育室を広い廊下やデッキが結び、「これは私の部屋、となりも、そのとなりも全部私の部屋」(HP)になっている。「子ども」「自由」「遊び」を尊重する保育観が写真を見ただけで感じることが出来た。この時受けたショックが、霊泉の新園舎設計に繋がっていることにいま気付かされる。

園名に「ひかり」とあるため、もしやと調べてみるとキリスト教保育の園でさらに親近感を抱いた。また、園長がH先生ということも知って、わたしが山形の独立学園高校でお世話になった世界史のH先生と関係があるのではと思ったが、確信は持てなかった。

この春、キ保連九州部会総会に連盟理事のH先生(仙台・尚絅学院大)が来て下さった際、きょうだいであるH先生が新潟の敬和学園高校からお父様のいる「狭山ひかり幼稚園」へ移ったと伺い、すべてが繋がった。いまH先生は園長として同じキリスト教保育の現場にいるのだ。HPで「『園長!』の写真日記」が日々更新されている。

今は分からなくてもいずれ分かる時が来る。それが、教育の現場の真実です。「教育とは、目の前の生徒が何年後、何十年後かに、大きく成長するための原因となることを、未来を信じて、絶え間なく提供していく業のこと」と先輩教師からかつて教えられました。
今日も、ひかりの子どもたちが、将来大きく成長していくことを信じ、そのために私ができることを精一杯努めよう。(11月13日) 

25年前、このことをH先生から確かに習ったわたしも、荒尾めぐみの先生たちと、できることを精一杯努めていきたい。(有明海のほとり便り no.337)

『真理と信仰』

「真理を求めてよく考えれば必ずキリスト教信仰に至る」

内村鑑三の弟子、鈴木弼美の言葉です。鈴木は東大の助手でしたが、それを投げ捨てて、山形の小国町というとても奥深い山村に、基督教独立学園という全寮制の高校を創設しました。

鈴木先生が生徒たちによく語った言葉があります。それは、「真理を求めて考えなさい」であり、「真理とキリスト教とどちらを取る?」と聞かれれば「真理を取る」と答えたそうです。これは「真理を求めてよく考えれば必ずキリスト教信仰に至る」という信念・信仰に繋がっていきます。

私が 49 期生として入学した時、すでに鈴木先生は召天していました。2 年生の時、私は山ぶどう酒事件を起こし無期停学になったのですが、その時に事務の先生から渡されたのが、鈴木先生が書かれた『真理と信仰』という本でした。高校時代読んだ本の中でも、深く自分自身に刻まれた一冊です。けれども、一般には流通しているものではなく、人に紹介したくとも難しい本となっていました。

今回、一人の卒業生の手によって、pdfデータになってインターネットに公開されました。それも、「21世紀の中高生が読みやすい本」とするために、ふりがなとかなり詳しい註を加えて下さったのです。さらに、原本には未掲載の鈴木先生の文章を4章分も加えてあります。その尽力に心から感謝です。この稀有なキリスト者の信仰と思想そして生き様に、ぜひ一度触れてほしいと願っています。(有明海のほとり便り no.336)

あそびは ごはん

毎年、色々な養成校から実習生が派遣されます。荒尾めぐみ幼稚園での実習が、いい意味でも反面教師的な意味でも実り豊かなものと願っています。実習生はもちろんですが、担当する各担任にとっても、日々実習生のメンター(相談役)となり、日誌へのコメントを返していくことは楽なことではありません。けれども、実習生の受け入れを通してわたし達自身の学びにつながることも多く、依頼があればすべて受け入れるようにしています。また、園長として実際の保育現場にずっと入ることは難しいため、せめて日誌にはコメントを加えるように心がけています。その中で、先日りんごの木代表の柴田愛子さんの文章「あそびは ごはん」に出会いました。

あそびはごはんのようなもの 毎日食べないと 元気が出ない
毎日食べているのに 飽きない 主食のご飯やパンが大事
どんなにおかずが豪華でも どんなに珍しいものでも
そのおいしさがわかるのは 主食があるから
ご飯もあそびも何の足しになっているか 定かではありませんけれど
心が喜んで 前向きに生きていけるには 絶対必要!
あそびのご飯 食べていますか?
私なんて もはや 仕事とあそびの境目がわかりません
あそびっぱなしです! ご飯食べっぱなしです!
だから幸せに太っています。

遊びをご飯のように大切にしていきたいと願っています。(有明海のほとり便り no.335)

若松英輔著『亡き者たちの訪れ』

期せずして、召天者記念礼拝の準備と重なりました。すべてを読み終わってはいませんが、講演録をもとに編まれており、深いテーマを見事に語られており、特に「宗教(者)」へ問いかけが鋭くささりました。

若松英輔は1968年生まれの批評家・随筆家であり、キリスト者です。けれども、3・11という大震災を受けて、キリスト教を含む宗教者からは本当に必要な応答がなかったと指摘します。

鎮魂を論じることと、魂を感じることは別です。魂の実在を信じていなくても、鎮魂を口にすることはできる。それが現代なのかもしれません。文学者ならまだしも、宗教者すらそうだった、と私には思えました。彼らの発言は、現実から離れているだけでなく、冷淡にさえ感じました。冷淡な、と私が言ったのは、彼らが、生者を思う死者の言葉に耳を傾ける前に、彼らを別な次元に追いやることで決着をつけようとした、と見受けられたからです。(pp.18-19)

ここで若松は、オカルト的な存在でも、幽霊でもない「死者」について語っています。この「死者」は沈黙している存在なのではなく、もっと積極的にわたし達「生者」に語りかけてくる存在として描きます。若松にとっての亡き父や連れ合いのような存在です。

死者を語らない宗教など、すでに宗教の名に値しないと私は思います。宗教は、狭義の道徳でも、倫理規範でもありません。どう生きるのが正しいのかを説く思想でもありません。宗教とは、生者と死者がともに超越と不可分の関係にあることを示す契機であり、伝統であり、生きる道です。(p.32) 

「復活した死者」であるイエス・キリスト、そして信仰の先達たちからの語りかけに、耳を澄ましていきたいと願っています。(有明海のほとり便り no.334)