『聞く技術 聞いてもらう技術』

東畑開人さんという臨床心理士による新書で、とても読みやすい良著です。傾聴することよりも、ただただ聞くことで人は自ら回復していく力があること、専門家によるカウンセリングも大切だけれども、その前に日常の中で「聞く」があることの方がずっと大切だということが、綴られていました。

神学校では、牧会学牧会心理学という授業があり、カウンセリングの手ほどきを受けました。相手の思いに耳を傾けることの意味や目的そして手法などを学び、いまでも牧会上の技術として重宝しています。けれども、わたし自身どこかで、「聞く」ことの価値を軽んじていたことに気付かされました。

「聞く技術」と「聞いてもらう技術」はセットになっていて、グルグルと回っている必要があります。…目を凝らしてまわりを眺めてみてください。社会のいたるところでモジモジしている人が見つかるはずです。…不安のあまりに暴走したり、痛みのあまりに他者を攻撃している人も「聞いてもらう技術」を使っています。そこには聞かれていない長い話があって、誰かに聞かれることを待っています。「なにかあった?」と声をかけ、彼らの抱えている複雑な事情を、時間をかけて聞いてあげてほしい。白か黒かの極端な結論だけではなく、その裏にある灰色の長い話に耳を傾けてほしいのです。…自分がちゃんときいてもらえているときにのみ、僕らは人の話を聞くことができます。聞いてもらわずに聞くことはできない。(pp.237-238)

牧師は、立場や役割があり、さらに個人の秘密に関わるため、周りに話すことの出来ない悩みを抱えがちで、精神的に病むことは決して珍しいことではありません。牧会において「聞く技術」はもちろんですが、「聞いてもらう技術」をより広げていく必要があると痛感しました。(有明海のほとり便り no.341)

12/24 クリスマス礼拝、イヴ礼拝案内

クリスマス礼拝 12月24日(日)10時半より

クリスマスイブ礼拝 12月24日(日)18時より

※きりんさん(年長)・うさぎさん(年少)によるページェントがあります

世界では戦禍にある人々が沢山おられます。このような時だからこそ、神さまの独り子イエスさまの降誕を共に喜びましょう。神さまは共にいて下さいます。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

マタイによる福音書1章23節

原発をとめる農家たち

ドキュメンタリー映画『原発をとめた裁判長~そして原発をとめる農家たち~』の上映会および講演会(グリーンコープ主催)が福岡でありました。講師は、二本松営農ソーラー代表近藤恵さんと、二本松有機農業研究会代表の大内督さんでした。

2014年、関西電力大飯原発の運転停止命令を下した樋口英明・福井地裁元裁判長に焦点を当てた映画です。3・11で起こった東京電力福島第一原子力発電所事故を経験した日本社会は、脱原発へと舵を切らず、結果的にはまったく逆を行っています。どんどん原発を再稼働させていく流れには、人間の<いのち>の軽視が根底にあります。「コスパ」では測れないはずの人格権(憲法13条)が軽んじられている現実を、映画を通して目の当たりにしました。樋口元裁判長は、いま原子力発電の危険性を伝える活動を続けておられますが、その理論の明快さと、真摯な語りぶりに深く感銘を受けました。

そして、原発をとめる農家たちの姿が、合間合間に挟み込まれていきます。福島県二本松市で有機農業を営む大内さん・近藤さんが、放射能汚染という大きな傷みから、一歩一歩もがきながら歩みだしていく姿に、涙が止まりませんでした。近藤さんはソーラーシェアリングという、耕作放棄地などの上にソーラーパネルを高く設置することで、下の農地も生き返っていくシステムを広めています。内村鑑三『後世への最大遺物』を紹介するシーンなどもあり、キリスト教信仰の証とも言える作品でした。

近藤さんは高校時代の先輩で、寮の二人部屋で同室したこともある親友です。荒尾まで車で案内し、お連れ合いと一泊していただきました。尽きない話に、時間を忘れるほどで、久しぶりの再会に励ましと刺激をたくさんいただきました。(有明海のほとり便り no.340)

私は何も忘れたくない

ドロテー・ゼレ(1929-2003)というドイツの女性神学者がいました。アメリカ・ユニオン神学校でも教え、平和主義者として積極的に政治・社会問題に関わり、20世紀の神学者として大きな影響を与えました。

農伝時代にゼレに出会いましたが、特に思い出深いのは、「神学読書」という授業で、ゼレの主著の一つである『神を考える─現代神学入門を読んだことです。しかも教室は町田の校舎ではなく、日本聖公会東京諸聖徒教会といって文京区にある教会の集会室で、講師は当時牧会されておられた山野繁子司祭でした。日本聖公会では女性司祭実現までの道のりが長かったのですが、1999年に2番目に誕生した女性司祭が山野先生だったのです。その神学読書を受講したのはわたしと山口政隆教師(奄美・徳之島伝道所)の二人だけでした。いま思えば、ものすごく贅沢な学びのひと時でした。

ゼレの回想録『逆風に抗して』が出版され積ん読していたものをようやく手に取りました。ゼレは「アウシュヴィッツ以後の神学」を強く意識して、神学を展開していきます。

私は何も忘れたくない。なぜなら、忘却は死者なしに人間になることができるのではないかという錯覚を育てるからである。事実、私たちは死者の助けを必要としている。私は友人であるアンネ・フランクをとても必要とした。(p.38)
私を捕えて離さない何かがこの伝統の中にあった。それは、イエス・キリストだった。死に至る拷問を受けても、虚無主義者あるいは冷笑的になることのなかったイエス・キリストは、ドイツの悲劇の後、私の周囲にいる多くの人とは違って見えた。(p.55)

現代日本社会において、ゼレを再読(re-read)する必要を強く感じています。(有明海のほとり便り no.339)

アドベントを迎えて

昨日、キ保連熊本地区の合同クリスマス礼拝が熊本白川教会を会場に4年ぶりに行われました。園長会で話し合いを重ね、コロナ禍前のように大々的に行うのではなく、何よりも礼拝を共に守ることを大切にしようと、礼拝と簡単な茶話会というシンプルな形での開催でしたが、荒尾めぐみ・霊泉そして県内のキリスト教園から100名以上が集い、温かい交わりの時となりました。

司式は大田七千夫牧師(武蔵ヶ丘教会)で、そのメッセージが心に沁みました。ルカ福音書2章をもとに羊飼いたちの姿からお話下さったのですが、乳飲み子イエスを羊飼いたちが見つけるのは「飼い葉桶」であり、この「飼い葉桶」は羊飼いたちにとっては、牧畜の現場で日々使う最も身近なものでした。つまり救いはわたし達の日常のただ中にまったく予期せぬ形で訪れるのです。

人類の救い主はベツレヘムに生まれ給うたのである。これによって神の愛が、神の教えが万人に及ぶこと、が明らかにせられたのである。これは大きな福音である。特定の人、特定の才能のある人々だけでなく、むしろそういう人々ではなく、平凡な人々が救いにあずかるのである。キリストは私共のような平凡な取るに足らない者にも降り給うたのである。これがクリスマスの一番大切な意義である。(鈴木弼美「独立時報」第45号1963年) 

今日からアドベントに入りますが、このような時代だからこそ、この「大きな喜び」(ルカ2:10)、救いの訪れを待ち望みつつ過ごしましょう。(有明海のほとり便り no.338)