保科隆牧師をお迎えして

本日は、荒尾教会の礼拝に出席するために、わざわざ東京より保科隆牧師がお出でくださっています。わたしが保科先生に出会ったのは仙台で、当時仙台東一番丁教会を牧会しつつ教区副議長をはじめ様々な責任を担われていました。わたしは東北教区被災者支援センター・エマオに遣わされていましたが、様々な課題にぶち当たりました。その度にセンター長・上野和明牧師(当時・仙台愛泉教会)とよく話し合い祈りました。ある時、上野先生が「保科先生に相談してみよう」と提案され、二人で仙台東一番丁教会を訪問したことがあります。多くの課題があり一体何の相談だったのか、定かではありませんが…、中々答えが見い出せない中で、アドバイスをいただき共に祈ったことを覚えています。

以来、保科先生にはエマオのことだけでなく、教区の様々な働き、わたしが出席していた委員会のほぼすべてでご一緒しました。特に、東北教区が2013年10月に放射能問題支援対策室いずみを立ち上げた時には、保科先生が室長という重責を担われました。わたしは海外教会からの献金を集めたり、ゲストをご案内したりするくらいしか、いずみには関わっていませんが、保科先生がユーモアと祈りを持って導かれる姿に励まされていました。

また、東京電力福島第一原子力発電所に最も近く、教会員も原発事故によって離散してしまった小高伝道所・浪江伝道所の代務者として、ずっと支えておられました。

2016年には、保科先生は福島教会に転任されました。正直とても驚いたのをはっきりと覚えています。仙台の大教会の牧師として終えるのではなく、まさに神さまからの呼びかけ・callingに導かれて決断し歩まれたのです。再会に心から感謝いたします。(有明海のほとり便り no.345)

日本文学とキリスト教

日本文学におけるキリスト教の影響は無視できないものがあります。書きすぎでしょうか…。つい文学作品にキリスト教や聖書の痕跡を見つけると、ワクワクしてしまうので、人よりそのセンサーは敏感なのでしょう。

須賀敦子(1929-1998)という文学者の作品を読み始めました。須賀は20代後半から30代が終わるまでをイタリアで過ごし、イタリアで結婚し、日本文学を翻訳し、日本に帰国してからはイタリア文学の翻訳も手掛けました。さらに彼女は最晩年の10年間に数多くのエッセイを書き高い評価を得ます。

池澤夏樹という文学者が『須賀敦子全集第1巻』(河出文庫)の解説に次のように記しています。

須賀敦子自身が、ヨーロッパに行く前に自分の意志で洗礼を受けてカトリックの信徒になった人物である。…この点を須賀敦子は文章の表面には書かなかった。しかし、彼女の文学の全体を統括しているのはこの原理である。人々はよりよく生きよう、より御心にかなうように生きようと努力している。それはむずかしいことだから失敗もあるし脱落する者も出る。それでも、生まれた以上はよりよく生きるという義務を神に負っているのだという原則は変わらない。
神は土地を造って祝福し、人を造って試練を与えた。だから須賀敦子のイタリアは美しく、そこに住む人々は苦難にみちた衰退の人生を送ったのではないか。彼女の文章の魅力はこの構図から生まれるのではないだろうか。(pp.449-450) 

この解説を書いた池澤自身が親戚の旧約学者・秋吉輝雄と共著で『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』を出版し、キリスト教への深い理解を持っている文学者の一人です。だからこそここまで端的に、須賀文学の背景にある構図(信仰)を捉えることが出来ているのだと思います。(有明海のほとり便り no.344)

『浜辺達男の遺稿と想い出集~主と共に~』

先日、東京・世田谷にある代田教会員である、Mさんより、一冊の本が送られてきました。『浜辺達男の遺稿と想い出集~主と共に~』という冊子です。浜辺達男先生はこの荒尾教会の3代目牧師(1957年~1962年)で、2020年4月15日に横浜で召天されました。87歳でした。

荒尾教会出身のMさんは、8月の教団新報に出たわたしの記事を読んで連絡を下さった際に、この記念集の中の荒尾教会時代に関わる箇所を写しで送って下さったのです。ぜひ他の文章も読みたいとMさんにお手紙を書いたところ、早速送って下さいました。浜辺先生は荒尾教会の後、福岡の前原教会、青山学院大学、ドイツ留学、弘前学院大、東洋英和女学院大学と、キリスト教大学の教育に長く関わられた方です。けれども、記念集の中で思いのほか多くの箇所に荒尾教会の名前が出てくるので、驚きました。つまり、周りの友人たちも心配するほど、大変な荒尾時代(5年間)だったのです。荒尾教会50周年誌に浜辺先生が次のように綴られています。

卒業直後の未熟な私が担当した5年間はよき成果を上げたとはとても思えません。
…1959年秋から炭住街を舞台に、指名解雇の是非をめぐって、炭鉱マンとその家族が、隣り同士で口論したり、相互に不信を増していった
…このような嵐の中にあって、附属幼稚園の経営も大きな難問にぶつかっていました。園児募集がうまく行きませんでした。それでもやめなかったのには、教会員の頑張りがあったからだと思います。
…私にとって、荒尾教会での五年間の経験は、それ以後歩んできた私の人生を規定するほどの、大きな影響を与え続けてきました。 

当時の浜本先生や教会員の方たちの祈りと献身があったからこそ、いまの荒尾教会があります。この歴史を覚え続けていきましょう。(有明海のほとり便り no.343)

能登半島地震

1月1日16時10分、石川県能登地方で大地震により能登半島地震が発生しました。この地震によって現在126名もの方たちが亡くなったことが判明しています。依然捜索活動は続いています。また、多くの方たちが避難生活を余儀なくされています。不安や恐れの中にある多くの方たちが、どうか一日も早く、安心して過ごせるようになりますように祈ります。また、わたし達に出来るささやかな一歩として、募金箱を設置しますので、協力をお願いします。

こういった災害が起こった時、情報が行き届かず、支援が届かない方たちがいます。移住労働者の方たちや外国にルーツのある方たちには、言葉のバリアだけでなく文化のバリア、そして差別が日本には根強く残っています。どうか「災害弱者」と言われる方たちに真っ先に必要な助けが届きますように。

被災した教会・牧師には、全国から様々な問い合わせがひっきりなしに来ます。ただでさえ、被災者として、そして同時に支援者として動かなければならない中で、ストレスや疲れでバーンアウトしてしまうこともあります。他の支援者も同様です。どうか支援者の方たちの心・身体・健康が支えられますように。休みを十分に取ることが出来ますように。

能登半島地震によって教会付帯施設である園も被災しています。どうか園児・保護者そして教職員が、園生活を取り戻していくことが出来ますように。子どもたちの笑顔そして豊かな遊びが戻ってきますように。(有明海のほとり便り no.342)