日本文学とキリスト教

日本文学におけるキリスト教の影響は無視できないものがあります。書きすぎでしょうか…。つい文学作品にキリスト教や聖書の痕跡を見つけると、ワクワクしてしまうので、人よりそのセンサーは敏感なのでしょう。

須賀敦子(1929-1998)という文学者の作品を読み始めました。須賀は20代後半から30代が終わるまでをイタリアで過ごし、イタリアで結婚し、日本文学を翻訳し、日本に帰国してからはイタリア文学の翻訳も手掛けました。さらに彼女は最晩年の10年間に数多くのエッセイを書き高い評価を得ます。

池澤夏樹という文学者が『須賀敦子全集第1巻』(河出文庫)の解説に次のように記しています。

須賀敦子自身が、ヨーロッパに行く前に自分の意志で洗礼を受けてカトリックの信徒になった人物である。…この点を須賀敦子は文章の表面には書かなかった。しかし、彼女の文学の全体を統括しているのはこの原理である。人々はよりよく生きよう、より御心にかなうように生きようと努力している。それはむずかしいことだから失敗もあるし脱落する者も出る。それでも、生まれた以上はよりよく生きるという義務を神に負っているのだという原則は変わらない。
神は土地を造って祝福し、人を造って試練を与えた。だから須賀敦子のイタリアは美しく、そこに住む人々は苦難にみちた衰退の人生を送ったのではないか。彼女の文章の魅力はこの構図から生まれるのではないだろうか。(pp.449-450) 

この解説を書いた池澤自身が親戚の旧約学者・秋吉輝雄と共著で『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』を出版し、キリスト教への深い理解を持っている文学者の一人です。だからこそここまで端的に、須賀文学の背景にある構図(信仰)を捉えることが出来ているのだと思います。(有明海のほとり便り no.344)