白い磔刑

画家のマルク・シャガールは彩り豊かで明るいと評されることが多い画家です。そのような作品群の中に、ぽつんと「白い磔刑」という作品が残されています。1938年11月ドイツではナチスによってユダヤ人の住居、お店、シナゴーグ等が襲撃され破壊されました。「水晶の夜」と呼ばれるこの出来事を描いたのです。

右手に見えるのは放火殺人犯によって荒らされ燃え上がるシナゴーグ。十字架の上には、旧約聖書に登場する人物たちが嘆きの声をあげています。十字架上のイエスが腰に巻いているのは、ユダヤ教徒が祈りに用いる縞の入ったコートです。足元には、ユダヤ教の燭台が置かれています。そして、イエスの頭上には「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という罪状書きが、ヘブライ語で書かれています。

シャガールは十字架に架かるイエスを通して、迫害の対象とされたユダヤ人たちの苦しみや嘆きを描きました。シャガール自身はユダヤ教徒ですから、イエスを救い主=キリストと信じ告白していたわけではありません。しかし、イエスを同じユダヤ人として徹底的に苦しみ十字架を負われた偉大な先達として描いたのです。

私たちがイエスをキリスト(救い主)だとメシアだと告白する時、それはこの苦しみを一気に解決するような「大どんでん返し」をもたらす存在ではなく、共に苦しみ重荷を負う存在として、まさにこのシャガールが描くイエスこそが、神の救いを指し示す存在だと告白したことを胸に刻みましょう。(有明海のほとり便り no.245)

30日(日)→家庭礼拝へ

キリストの平和がありますように。

新型コロナウイルスに感染されたお一人お一人に、そのご家族に神さまからの癒やしと守りとがあることをお祈りしましょう。

いまも第6波がものすごい勢いで拡がっています。依然ピークが見通せない中で、園でも家庭保育協力を呼びかけ、感染対策しつつ過ごしています。園関係者にも濃厚接触者の方たちも出てきている中で、予断を許さない状況が続いています。

役員で話し合い、1月30日(日)を再び家庭礼拝といたします。どうぞ週報をご活用下さい。

2月6日(日)に関しては、少人数でも山鹿教会との合同礼拝を執り行う予定です。役員会に関してはこれからの感染状況を鑑み判断していきます。

先週の週報が主日までに届かなかったお宅があると伺っています。大変申し訳ありません。今回は無事届くことを願っています。

私たちキリスト者の信仰生活にとって礼拝は欠かすことの出来ないものです。たとえ聖書を読むことだけでも、たとえ心の中で祈ることだけでも、神さまは必ず共にいて下さいます。

皆さまに祝福と守りがありますことをお祈りしています。

2022年1月26日 荒尾教会牧師 佐藤真史

福音の息吹(プネウマ)

2018年9月に生まれてはじめて奄美大島を訪問しました。到着した初日、田中一村記念美術館を訪問しました。絵画に疎い私は、「田中一村(1908~1977)」という名をその時、初めて知りました。水墨画の神童としていち早く活躍した一村でしたが、日本画へと画風を変えてからは、苦労と挫折が続き、亡くなって10年が経ってからようやく再評価され「日本のゴーギャン」とも呼ばれています。

国立療養所奄美和光園内にある和光伝道所も訪問しました。先述の田中一村は、奄美和光園との出会いの中で、近くにアトリエを構えたそうです。名瀬教会の青山実教師から、今は年数回の礼拝を守るのみと説明を受けながら伝道所に入ると、部屋に射し込む光、椅子の並び、講壇、その一つ一つが目に焼き付きました。<ここ>にある福音・恵み。確かに礼拝が守られていた息吹(プネウマ)…。

瀬戸内海にあるハンセン病療養所・大島青松園の教会に通っている、シンガーソングライターの沢知恵さんの言葉を思い出しました。

私はそこの礼拝が大好きだったので、行く度に勝手に掃除をしていたんです。建物は使わないと痛みますから。そうしたらね、掃除機をかけていてふっと振り向くと、天国に行ったはずの入所者の方々がいるんです。えっ!と思って、心臓がドキドキして。私こういう話は苦手で、経験したことなかったんですけど。それで、「あぁ、私はここで礼拝をしたいんだ。お掃除じゃなくて、神様を賛美をしたい、祈りたい、み言葉を聴きたいんだ」と、分かった瞬間だったんです。

本日は家庭礼拝という形になりましたが、同じ神さまの息吹が、各家庭にそして教会に吹いていることを信じています。(有明海のほとり便り no.244)

23日(日)→家庭礼拝へ

キリストの平和がありますように。

新型コロナウイルスに感染されたお一人お一人に、そのご家族に神さまからの癒やしと守りとがあることをお祈りしましょう。

いま第6波がものすごい勢いで拡がっています。熊本県における「まん延防止等重点措置」適用が決定し、園でも急遽家庭保育を呼びかけています。

役員で話し合い、1月23日(日)を家庭礼拝といたします。

来週以降の礼拝については、また追ってお知らせいたします。

私たちキリスト者の信仰生活にとって礼拝は欠かすことの出来ないものです。たとえ聖書を読むことだけでも、たとえ心の中で祈ることだけでも、神さまは必ず共にいて下さいます。

皆さまに祝福と守りがありますことをお祈りしています。

2022年1月20日 荒尾教会牧師 佐藤真史

16日(日)→家庭礼拝へ

新型コロナウイルスに感染されたお一人お一人に、そのご家族に神さまからの癒やしと守りとがあることをお祈りしましょう。

いま第6波がものすごい勢いで拡がっています。急遽本日の主日礼拝を家庭礼拝に切り替えました。

当日のお知らせとなってしまい大変申し訳ありません。

私たちキリスト者の信仰生活にとって礼拝は欠かすことの出来ないものです。たとえ聖書を読むことだけでも、たとえ心の中で祈ることだけでも、神さまは必ず共にいて下さいます。

皆さまに祝福と守りがありますことをお祈りしています。

2022年1月16日 荒尾教会牧師 佐藤真史

『人新世の「資本論」』

冬休みに積ん読していた本に、ようやく手を付けることが出来ました。その一冊が斎藤幸平著『人新世(ひとしんせい)の「資本論」』です。2020年9月に発行されて以来、すでに40万部を突破したベストセラー書籍で、新書大賞2021を受賞しました。いわゆるベストセラーにはあまり関心がないのですが、マルクスの『資本論』についてであり、知り合いからの紹介もあり購入していたのです。新書なのでページ数はそれほど多くはありませんが、一つ一つのトピックが新鮮で深く、読み込むのに時間がかかりました。

「人新世」とは「人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代」(p.4)を指します。産業革命以降の目覚ましい経済成長が生みだしたこの「人新世」で飛躍的に増えた二酸化炭素が、地球温暖化などの気候変動を巻き起こしています。それはもはや無視して通り過ぎることは出来ず、むしろいますぐに対応しなければ、「人類」全体の存続の危機にさらされているのです。この気候変動への対応として「SDGs(持続可能な開発目標)」を国連などは掲げていますが、著者はそれでは対応として不十分であり、むしろ手遅れになることを指摘します。そして、対案として著者はマルクスの『資本論』を参照するのです。しかも、ここが特に大切なのですが、これまでのマルクス主義の焼き直しではなく、「150年ほど眠っていたマルクスの思想のまったく新しい面を『発掘』し、展開」(p.7)していくのです。それが、中国や旧ソ連の共産主義とはまったく違う、「脱成長コミュニズム」という晩期マルクスが到達したものでした。

資本主義はもはや限界に来ています。その只中で、神の国を建設していくために、様々な知恵を集め、祈りを集めていく必要があることを、この本を読んでつくづく考えさせられる冬休みでした。(有明海のほとり便り no.242)

この風景、この土地を愛して

2017年春に荒尾に赴任する際、それまでにお世話になった方たちに感謝メッセージをメールで送りました。しばらくして、真壁巌牧師(当時・相愛教会、現・西千葉教会)より、お返事をいただきました。そこには、Google mapで荒尾教会がある場所を調べたら、有明海が見渡せる場所にあることが分かったこと。美しいその風景の中で、土地を愛し、真史くん(牧師になるずっと前からお世話になっているのでこう呼んでくれています)らしく、牧会・宣教の業に励めることをお祈りしていることが、綴られており、とても嬉しかったことを覚えています。

先日、ある面談を園で終えてふと外を見ると、美しい夕焼けが広がっていました。対岸の雲仙や諫早、そして有明海の風景を見て、神さまが創造した「すべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創1:31)と言われた「良さ」が凝縮していることを思いました。そして冒頭の真壁先生からのメールを思い出したのです。随分長いこと、この美しい光景を忘れてしまっていたことを反省しました。

毎年与えられる様々なチャレンジ(挑戦・課題)を前に、この5年間は足し算ばかりでやってきました。特に両園において待ったなしの差し迫った状況が広がる中で、きめ細やかな保育の実現、丁寧な保護者対応、教職員との温かい関係づくりを出来るだけ心がけて来ました。その結果、様々なことが出来るようになったことは事実ですが、どうも牧師・園長・理事長として忙しくなり過ぎています。2022年は、引き算も真剣に検討しなければならないと感じています。 2021年も皆さんのお祈りに支えられました。この場を借りて感謝を申し上げます。

2022年が神さまの祝福に溢れた年となりますように。(有明海のほとり便り no.241)

天国ではなく地獄の中に

先日のニュースで、新型コロナウイルスの影響によって、貧困に陥った子どもたちが世界で「1億人」増えたとありました。とてつもない人数に、想像も尽きませんが、日本における全人口1億2530万の内、15歳未満は1492万5千人なので、おおよそ日本にいる15歳以上の人たちすべてに該当する「子どもたち」が、一気に貧困に陥ったと考えることが出来ます。それが子どもにどのような影響を及ぼすのか、私たちはここで立ち止まり考える必要があります。そして、本当にこのままでよいのか、これで神の国を実現できているのかを振り返りたいと願っています。

この日本でも新型コロナウイルスによる傷は広がっています。特に非正規雇用をはじめとする不安定な雇用環境で職を失った人たちも増えています。自死された女性たちの数も増加しています。そのような中で、札幌北部教会の久世そらち教師(教団副議長)が、ブログに次のように綴られていました。

数十年前、日本基督教団では「職域伝道」を掲げ、労働者の課題を担おうとしていました。そんな中で炭鉱での働きに携わった矢島信一牧師が、芦別で目のあたりにした炭鉱事故を報じ、「地獄化した様相は、炭鉱のみならず各方面で進行している。教会の使命と責任は天国ではなく地獄の中にある」と記しました。いま、まさしく「地獄化した」労働の現場に、教会の使命と責任があることを自覚すべきではないでしょうか。
救い主キリストの到来をまず知らされたのは、夜通し働いていた羊飼いたちであったことを思うのです。

「教会の使命と責任は天国ではなく地獄の中にある」という深いメッセージを、このアドベントのひと時、改めて胸に刻みましょう。(有明海のほとり便り no.240)

『宣教の未来 五つの視点から』

教団出版局より、『宣教の未来 五つの視点から』という本が出版されました。5名の方たちがまったく異なる視点で宣教について論じています。

実は先週教区の委員会があった際に、著者の一人である深澤奨教師(佐世保教会)から近々出ることを伺っていたので、早速読みました。深澤教師は「教会のダウンサイジングと持続可能性」というタイトルで、九州教区教会協力委員会(教会同士の互助を呼びかけ運用する)の働きを通して考えたことを綴られています。

能楽師の話しが紹介されていました。能楽師の世界では、師匠から笛を引き継ぎますが、すぐにいい音は鳴りません。何年も稽古を積み重ねてようやくいい音が鳴るようになります。鼓の革も「この革は今は鳴りません。でも、毎日打ち続けて50年経てば鳴り始め、一度鳴れば600年は使えます」と言われたりするそうです。

これは能の世界のお話しですが、教会においても全く同じだと思いながら読みました。今はまだ良く鳴らない笛や鼓のような教会が、九州にはたくさんあるのではないでしょうか。伝道を始めてから50年経っても、100年経っても、思うような福音の音色を町に鳴り響かせることができない。でも、鳴らないかと言って吹くこと打つことをやめてしまったら、それが鳴り始めることは絶対にないのです。いい音を出すのは100年、いや150年後かもしれません。もしかしたら、わたしたちの代では成し遂げられないのかもしれない。そうであってもあきらめずに、信じて吹き続け、打ち続ける。次の代に引き継いでいく。それができるように互いに支え合い続けるのが、わたしたちの互助の働きだと思うのです。(p.58-59)

荒尾教会のような小さな地方教会が、それぞれの地で福音を高く鳴り響かせる時を信じ、互助献金を捧げていきましょう。(有明海のほとり便り no.239)

創立75周年記念礼拝を終えて

創立75周年を迎え、先週は岩高澄(きよし)牧師を大阪よりお招きし無事創立記念礼拝を行うことが出来ました。礼拝には小平善行牧師もお越し下さり、愛餐会では丁寧なご挨拶をいただきました。

岩高先生を新大牟田駅にお送りした次の日、先生より御礼のメールをいただきました。

私にとっては、懐かしさと、旧知との出会いと、新たな出会い。
荒尾教会の今日の姿と佐藤先生の働き、75年の歴史。からだ一杯に感謝と喜びを頂いた3日間でした。

3年間という短い間だったにも関わらず、ものすごい熱意を持って荒尾教会・荒尾めぐみ幼稚園のために尽くされ、寝る間を惜しんでの日々でした。その頃に教諭として働かれた、Nさんのお話しを一緒に伺う機会がありました。すると涙ながら岩高先生との当時の出会いを語って下さったのが心に響きました。

また、最終日のインタビューを通して驚いたのは、岩高先生が目指された幼児教育も、小学校のような一斉保育ではなく、素材(遊具・環境)を整えて子ども自らが遊びを深めていく教育だったということです。子ども自らに育つ力があることを信じ、応答的・対話的に関わっていく保育は、いままさに注目されている保育ですが、元来キリスト教保育が願ってきたことです。なぜならキリスト教保育において、子どもたちは神の子(かけがえのない命)であり、豊かな賜物(タラント)を一人ひとりに授けて下さっているからです。岩高先生が始めていった保育は後に、小平善行牧師にも継がれていきますし、まさにいまのめぐみ幼稚園が目指しているキリスト教保育です。

最後に、記念礼拝の準備のために祈り多くのご奉仕をして下さった、教会員の方たちに心より感謝いたします。(有明海のほとり便り no.238)