『昭和史1926-1945』

半藤一利(1930-2021)の本を教会員さんのご家族より紹介していただき、読み進めています。

『昭和史1926-1945』は45万部以上売れた代表作の一つであり、「昭和」がどのように始まり終戦に至ったのか、特に軍部を中心に政府そして昭和天皇がどのような考えで太平洋戦争へと突っ込んでいったのかを、とても分かりやすく解説しています。そのような視点で日本の近現代史を学んだことがなかったので新鮮に感じつつ、「上の人たち」と「隅に追いやられた人たち」のギャップを痛感していました。この本では、植民地支配された朝鮮半島の人たちなどの視座にはほとんど触れていません。そこが焦点ではないので致し方ないのかもしれませんが…。

けれども、この「昭和史」を著者は決して肯定しているのではなく、むしろ「政治的指導者も軍事的指導者も、日本をリードしていてきた人びとは、なんと根拠なき自己過信に陥っていたことか」(p.507)と批判的に捉えるのです。

よく「歴史に学べ」といわれます。たしかに、きちんと読めば、歴史は将来にたいへん大きな教訓を投げかけてくれます。反省の材料を提供してくれるし、あるいは日本人の精神構造の欠点もまたしっかりと示してくれます。同じような過ちを繰り返させまいということが学べるわけです。(p.503)

半藤は「昭和史」から学ぶ教訓には、「国民的熱狂をつくってはいけない」「最大の危機において日本人は抽象的な観念論を非常に好む」「日本型のタコツボ社会における小集団主義の弊害」「何かことが起こった時に、対症療法的な、すぐに成果を求める短兵急な発想」などを挙げています。

これらの教訓を、いまの日本政府や日本社会が活かしているとは到底思えない現実があることにも気付かされました。(有明海のほとり便り no.283)

Good enough caretaker

副主幹をして下さっているE先生と月に一度ミーティングを行っているのですが、最初に必ず研修を設けています。少しでもキリスト教の学びもしたいと願い、『神さまが見守る子どもの成長』(石丸昌彦著)という本を読んでいますが、わたし自身学ばされることが多く、とても良著です。

先日一緒に読んだ箇所で、ドナルド・ウィニコット(1896-1971・イギリスの精神科医・小児科医)”Good enough mother(ほどほどの母親)”という言葉を遺していることを知りました。

この言葉は勘違いしないよう注意が必要です。「本当は完璧が良いのだけれど、人間は完璧ではありえないから、ほどほどで満足するしかない」という意味ではありません。「完璧な母親はかえってよろしくない、ほどほどの母親こそ最高の母親」という意味なのです。…どんなに愛情深い母親でも、ちょいちょい失敗をします。子どもが望んでいないのものを与えたり、望んでいるものでも見当外れのタイミングで与えたりすることが、どうしても起きるでしょう。そんな時、子どもは自分の不満を母親に伝えなければなりません。知恵を働かせ、言葉や行動でアピールし、自分の望む方向へ母親を誘導しようとするはずです。その反復こそが子どもを成長させるのだ、ウィニコットはそう指摘したのです。(p.38)

社会に溢れている「〇〇をすれば子どもが〇〇になる」といったようなキャッチフレーズが、保護者(caretaker)に無言の圧力(「完璧を目指せ」)を与えています。それは保育者においても同様です。

けれども、神さまはわたし達を100点満点にかけがえのない<いのち>として造って下さいましたが、同時に「欠けある土の器」として造られました。完璧ではなく「ほどほど」を心がけましょう。そして「ほどほど」だからこそ、祈り・支え・赦し・生かし合うわたし達でありたいと願っています。(有明海のほとり便り no.282)

農村伝道神学校を覚えて

本日は「神学校日」で、関係神学校の働きを覚えて祈る日とされています。

日本キリスト教団には1つの教団立神学校(東京神学大学)と5つの認可神学校(関西学院大学神学部・東京聖書学校・同志社大学神学部・日本聖書神学校・農村伝道神学校)があります。それぞれの神学校に特徴があり、合同教会としての日本キリスト教団の豊かさを表しています。全国の諸教会にそれぞれの卒業生たちが遣わされており、ここ九州教区にも、6つの神学校の卒業生たちが祈り支え合いながら歩んでいます。

荒尾教会の歴史を振り返っても、一つの神学校出身の牧師だけでなく、いまはもうなくなってしまった神学校も含まれています。岩高澄牧師(6代目)から小平善行牧師(7代目)・星健治牧師(8代目)そしてわたしに到るまでは、すべて農村伝道神学校出身ですので、農伝が特に関係が深い神学校です。

けれども、実際どのような神学校かは意外と信徒の皆さんは知らないのではないでしょうか。農伝は東京都町田市にありますが、東京といっても住宅地からは一歩奥深く入った自然豊かなところに建っています。教団関係神学校の中でも、特に規模は小さく、教職員と神学生の距離はとても近いのも特徴です。

「農」という視点を大切にします。「農村」という現場だけでなく、根源にある「いのち」、そこから派生する「貧困・差別・人権」ということを宣教の課題としています。卒業生の多くは、大きく豊かな教会ではなく、荒尾教会や山鹿教会のような小さな地方教会や、社会的な課題に取り組む教会や現場に遣わされています。そこに農伝らしさがあるのです。(有明海のほとり便り no.281)

運動会?

日本では当たり前のように行っている「運動会」ですが、そもそもなぜ行うようになったのかは常に考える必要があります。

1870年代に海軍兵学寮で「競闘遊戯会」として、軍事教練の一環として取り入れられていきました。身体を「兵隊化」させていくためのものだったのです。「運動会」だけでなく、様々な遊具にもその名残があります。例えば雲梯も、もともとは攻城兵器であり、自然社会にはあのように正確な距離で握り手があることはありえません。

そのような視点から「運動会」や「遊具」を考える時に、いま露骨に使われることはないにしても、簡単に「軍事教練」としての意味合いを帯びてしまう点には気をつけなくてはなりません。キリスト教園として「神の平和」を祈り・願っていますから、子どもたちを誰一人としても戦争に送りたくはありません。

それでは、いまなぜ幼稚園で「運動会」をしているのでしょうか。大きな目的の一つは「子どもたちの育ち」を、子どもたち自身・保護者・教職員みんなで分かち合い、喜び合うということです。けれども、ここでも気をつけなければならないのは、保護者「だけ」のための「運動会」ではないという点です。ともすれば「保護者からの見栄えをよくする」という点を強調し「練習」にのみ力を入れてしまいがちです。すると、子どもたち自身で考え・模索し・遊ぶといった肝心なプロセスがどこかへ行ってしまい、「大人中心の運動会」になってしまうのではないでしょうか。

昨年から「運動会」ではなく「めぐフェス」に名称を変えました。大きく園庭も変わっていますが、あえて同じ園庭で行います。普段の遊びと同じ地平で、子どもたち自身が心・身体を一杯動かし、楽しい親子行事(フェスティバル)になりますように。(有明海のほとり便り no.280)

「窓」 作:Y.H.

小さな部屋の戸を閉め
目を閉じる
小さな感謝を一つ一つ
小さな懺悔を一つ一つ
小さなとりなしを一つ一つ
閉じた目の奥に光が差してくる
大空が見えてくる
この小さな祈りの部屋の中にも
あなたにつながる窓がある

教会員であるYさんの詩が、『信徒の友10月号』で選ばれました!6月に引き続きの選考で、教会としてもとても嬉しくまた感謝です。 この詩の中に「小さな」という言葉が5回も出てきます。神さまを前にして、わたし達はいかに「小さい」存在であるか、信仰者にとって大きな気づきが込められています。また、「一つ一つ」という言葉も3回出てきます。神さまは「小さな」わたし達の感謝・懺悔・とりなしを、見過ごすことはされません。たとえ「小さく」とも、確かに神さまは聞き届けて下さっています。そして、イエスさまの「窓」を通して、神の愛・赦し・和解・希望の「大空」へと導いて下さっていることに、改めて気付かされました。

「祈りのための小部屋が持てれば幸せだが、この詩では、作者自身が光に満ちた部屋になって上昇していくようだ。祈りとは天に近づくことなのかもしれない。」(選者・岡野恵理子)

この祈りを共に分かち合っていきましょう。(有明海のほとり便り no.279)

『LGBTとキリスト教―20人のストーリー』

この本の監修は、敬愛する平良愛香牧師(川和教会・農村伝道神学校)です。20人が通う(関わる)教会は、教団だけでなく、カトリックから福音派教会まで様々です。そしてセクシュアリティも様々であり、神さまの創造の豊かさを表しています

特に心に残ったのはSさんが書かれた「トランスジェンダーの教師と歩む学校―教育現場での取り組み」です。わたしの母校・基督教独立学園高校の後輩で、2009年から教師として戻られました。そのSさんがトランスジェンダーであることを、学園でカミングアウトしていくのです。

うまく説明できませんが、このこと(カミングアウト)をとおして自分は神さまに見捨てられたのではなく、この世界に私の道がきちんと与えられていると感じられました。…それは私にとって、1人で生きる人生から他者と共に生きる人生への大きな変化でした。(p.58)

平和や非暴力、農や環境など非常に社会的関心の高い学校です。けれどもいま振り返れば、セクシュアリティの意識は、まだまだ低いものでした。

あるベテランの先生にカミングアウトをしたときのことです。私の話をいろいろ聞いてもらい、最終的にその先生は「パウロは間違っていたってことだな」と言いました。パウロ書簡の中には、同性愛を否定しているように解釈ができる箇所がありますが、そのことを指してそう言ったのだと思います。私は「私のことを話していたのに、そっち?」と笑ってしまったのですが、聖書を大切にして生きるその先生が、目の前にいる他者の事実を前に、自分が持っていた価値観や聖書の言葉の受け取り方を相対化した。これはなかなかできることではないと思います。(p.61) 

イエスが出会いに生きた人であったことを覚える時、20人のストーリーがキリスト者に投げかける問いと意義は大きいものです。(有明海のほとり便り no.278)

9・11同時多発テロから21年

9・11同時多発テロから21年が経ちました。史上最悪のテロ事件とも言われる9・11で召された人たちは2977人にも及びます。そこからアメリカ主導で「対テロ戦争」が始まり、2003年にはイラク戦争が起こります。その死者は10万人以上であり、不安定な状況はいまだ続いています。暴力では暴力の連鎖は止められないことも、わたし達人類は学ばなければなりません。

2001年当時、わたしはアメリカの大学に留学して初めての新学期を迎えたばかりでした。ニューヨーク州バッファローにいたのですが、あのときの異様な緊張感をよく覚えています。そして「対テロ」の中で、中東諸国からの留学生たちやムスリムの学生たちが、様々な差別やヘイトクライムの不安の中で過ごしたことも。ショックだったのは、イラク戦争が起こると同級生たちが、徴兵されていったことです。アメリカで学生の多くが学費を軍隊から借りる代わりに、有事の際に徴兵される契約をするのです。「経済的徴兵制」の犠牲の多くは貧困層の学生たちであり、アメリカ社会の矛盾を痛感しました。

マイカル・ジャッジ神父は9・11同時多発テロが起こった際、いつも祈る次の祈りを祈ってから出かけていき、最後は世界貿易センタービルの崩壊に巻き込まれ召天されました。

主よ、あなたが行かせたいところに 連れていってください。/あなたが会わせたい人に会わせてください。/あなたが語りたいことを示してください。
わたしがあなたの道をさえぎることがありませんように

荒尾教会ではいま礼拝の祝祷でこの祈りを祈るようにしています。21年前のマイカル神父の祈り、非暴力への祈り、平和への祈りをここに重ねていきましょう。(有明海のほとり便り no.277)

1/100に届く保育を

昨日は学校法人熊本キリスト教学園の職員研修でした。荒尾めぐみ幼稚園と霊泉幼稚園は2013年から同じ学法ですが、両園の園長交代なども重なり、ともに学び交流する場をつくることが出来ていませんでした。そのため、昨年から8月に合同研修を始めました。けれどもあいにくのコロナ禍で、Zoomを使ったオンライン開催となりました。

講師は三浦啓牧師園長(桐生東部教会・高砂保育園)でした。札幌のご出身でHさんとは小さい頃から地区で一緒に過ごし、3・11発災後は何度もわたしがいた被災者支援センター・エマオにボランティアに来てくれました。また、園運営で悩んだ時にいつも相談に乗ってくれる親友です。

リモートでしたが、三浦牧師の「熱さ」をそれぞれがしっかりと受け止めることが出来ました。今回のテーマは「保育観」。どんなキリスト教保育をわたし達が願っているのか問われ考えました。特に響いたのは次の言葉です。

保育観を大切にするのなら、1/100に届く保育をすること。99を追わない。必ずその1が次第に2、3、10に繋がっていく。良いもの(保育)は必ず伝わる、求められる!

早期教育や〇〇式、あるいはキレイな園舎・制服を安易に求めるのではなく、先生たちが子どもたち一人ひとりを本当に大切にしていることに自信を持ち、またさらに研鑽しつつ歩んでいこうと勇気をもらいました!

いま少子化の波がどんどん押し寄せる中で、「経営」責任がある園長としては新入園児が来てくれるだろうかと不安で一杯です。「分かりやすい〇〇」への誘惑は常にありますが、目の前の1人を大切にすることこそがキリスト教保育の原点であること、それを実現してくれている先生たちを祈り・支え温かさを発信していくことが牧師園長の仕事なのだと気付かされました。(有明海のほとり便り no.275)

イエスは中心にではなく

マルコによる福音書10章46〜52節

街外れで道端に佇むバルティマイはイエスに、そしてイエスはバルティマイに出会いました。なぜ彼は街外れの道端にいたのでしょうか?そこにしかいることが出来なかったからです。彼は目が見えず、極貧の生活でした。日々の食事にも困っていました。だからこそ、道の真ん中ではなく道端へ、街の中心部・繁華街ではなく、街外れにしかいることが出来なかったのです。

よく、どこかの国の首相が別の国の首相を表敬訪問することがあります。そういった際、場所はその国の首相官邸だったり、あるいは超一流のホテルだったりします。中心と言われるような所にセットアップされているのです。しかし、聖書に描かれる出会いは中心では行われません

街の外れで、道端で、イエスとバルティマイは出会うのです。私たちは街の外れで、道端で、イエスに出会うのです。街の外れに、道端に気づき出会う感性を、私たちは忘れてしまってならないのです。そこでこそ出会える神さまの息吹があるからです。

しかもバルティマイには、通りがかる一行のリーダーが、「ナザレのイエス」だと知らされます。マルコ福音書の中によく出てくるキーワードです。ナザレは、イエスの生まれ故郷ですが、誰ひとりとして救い主がここから出るなんて思いもしなかった田舎町です。「東京」でも、「大阪」でも、「博多」でもありません。むしろ「荒尾」や「長洲」です。それがナザレです。

でも、そこからイエスは生まれ、福音を分かち合っていくのです。どこか遠くにいるのではない、ここ、荒尾市増永にイエスはおられるのです。私の家に、皆さんの家にイエスはおられます。自分のことで一杯の心の中に、このイエスを受け入れ信じること。ガリラヤ地方を隈なく歩き回り、沢山のバルティマイたちと出会ったイエスの愛・平和を共に分かち合っていきましょう。(有明海のほとり便り no.274)

中田善秋と宣撫工作

終戦=「敗戦」から77年を迎えます。

『BC級戦犯にされたキリスト者―中田善秋と宣撫工作―』(小塩海平著)を読み衝撃を受けました。「宣撫工作」とは「被占領地住民が敵対せず協力するよう住民を懐柔する行為」(p.2)です。キリスト教会は、「福音宣教」の名の下で植民地政策に協力し「改宗」させ、そのためには暴力も辞さなかった歴史があります。日本のキリスト教会においても、日本の植民地政策に積極的な協力をしてしまった歴史があります。

その一つが、1941年26名のキリスト者たちが「宣撫工作班」としてフィリピンに派遣されたという事実です。その中に、当時まだ神学生で英語が堪能であった中田善秋(旧・日本基督教会)がいました。計画は1年でしたが中田だけは「日比両国のかけ橋になりたい」(p.46)と願い、残りました。けれども、戦局が泥沼化していく中で、日本軍は「一般住民の虐殺を行うようになっていった」(p.47)のです。1945年2月24日「サンパブロ事件」が起きます。日本軍はサンパブロ教会に集めた中国人500余名、フィリピン人80余名を教会裏で殺害しました。中田は計画時から反対しますが強行される中で、教会からフィリピン人10余名と華僑協会の元会長を助け出しました。

けれども戦後、この事件に関するBC級戦犯として重労働30年の刑が言い渡されました。直接的な指導者たちが偽り自己保身に努め刑を逃れる中で、中田は日本が犯した罪を正面から受け止めていったのです。10年後、中田は釈放されますが、教会に戻ることはありませんでした。

私は、あの中華系の住民たちが殺されることを確かに肯定を心の中でしていたと、はっきり認めざるを得なかったのだ。私はうなづいていたのだった。その意味において、確かに「有罪」と云われても仕方がない。(p.86) 

わたし達は、このような歴史を繰り返してはなりません。(有明海のほとり便り no.273)