イエス推し

10月の『信徒の友』の特集「推し活!」が目を引きました。『信徒の友』は、わたしの勝手なイメージでは真面目で穏やかな信仰生活を支える月刊誌のように感じていたので、このようなテーマは久しぶりで、早速読ませていただきました。縄文推し、ディラン推し、ホヤ推し、コナン推し、カブトムシ推し、書道推し、三浦綾子推しなど、一概にキリスト者と言っても、その興味関心の幅は、一般の人と変わらず幅広いことを再確認しました。

興味深かったのは、早稲田教会の古賀博牧師が「そもそもクリスチャンはイエス推し」と題して「推し活」について論じている文章です。古賀牧師は、特にコロナ禍において推し活に励まされた面があったことを指摘しています。

あるテレビ番組で、心理学者が推しや推し活について語った内容は、私の心に深く残りました。「推しの存在や推し活という行為は、どんな時にもその人に大きな喜びを与える。苦境に立たされたり、厳しい状況の最中に置かれても、推しを思うことで、人は繰り返して勇気と励ましを得ることができる」というのです。

「キリスト者(クリスチャン)」という呼び名は、もともとは自分たちで付けたのではなく、周囲の人々から侮蔑のニュアンスを込めて付けられました。

「キリスト漬け」「キリストマニア」「キリストおたく」たちの自主的で熱心、そして喜びをもっての証しが、同信の仲間を起こしていきました。この人たちは、いわば「イエス・キリスト推し」だったのであり、その人々の推し活が異邦人伝道を推し進めました。

推しも熱狂しすぎると問題がありますが、押し付けがましくなく、喜びをもって「イエス推し」を広げていきたいと願っています。(有明海のほとり便り no.328)

十年後、二十年後に向けて

最相葉月著『証し』は、北海道から沖縄まで巡り歩き135名ものキリスト者たちから証しを聞き取った1094ページに及び大著です。ようやく900ページを越えたところですが、これほどまでに豊かなキリスト者達の姿があるのかと、新鮮な驚きと気づきを与えられています。

何人か知り合いもいました。そんな友人の一人が、京都にある丹波新生教会園部会堂で牧会している宇田慧吾牧師です。わたしが神学生時代に滋賀にある水口教会へ夏季伝道実習に行った際、彼は同志社の神学生として近江八幡にあるアシュラムセンターの寮に住んでいたのです。そして、彼が最初に赴任したのも福島県にある川谷教会で、東北教区で再会しました。

けれども、彼が牧師となっていくまでの道のりは決して平坦なものではなく、紆余曲折がありました。簡単には聞いていたものの、かなり突っ込んで『証し』には書かれており、初めて知るようなことばかりでした。その紆余曲折の原因はおそらく、教会側にあります。日本キリスト教団の教会が旧態然としてしまい、本当に福音を必要な人たちに届けようとしていない閉ざされた姿に、彼は失望するのです。

日本の教会がこれまでの体制で継続できないことは、もうはっきりしています。最後まで一生懸命支えていくつもりですが、あと十年もしたら支える対象がどんどん減って、新しい体制にならないといけないことは目に見えています。そうしたら、ずいぶん風通しはよくなると思います。…十年後、二十年後に必要とされたとき、新しい教会のやり方を実現できるように自分たちがしっかり勉強して、仲間を増やして準備しようとは話し合っています。そう、十年後、二十年後に向けてやっていこうと。(p.960)

この呼びかけに応えていきたいと願っています。(有明海のほとり便り no.327)

『Lessons In Chemistry』

わたしの趣味は読書で、隙間時間に読書することが何よりもストレス発散になるようです ; )。出張の合間に大きな本屋の近くを通る事があれば、真っ先に寄ることも。そうすると、やはり今まで出会ったのことのない作品に出会い心ときめくのです。けれども、ある時気付きました。日本の本屋さんに行って出会う心ときめく本は、100%日本語で書かれているものだと…。翻訳された作品も含め、日本語だけで十二分なのも分かっていますが、洋書の世界にはさらに広い大海原があります。残念ながら洋書コーナーが充実している大きな本屋さんがあるのは、大都市だけ。最近はネットで面白そうな洋書の情報を集め、ネットで発注するようにしています。日本語で読むよりもおそらく3倍以上(!)の時間がかかっていますし、難しい単語などは文脈と勘(?)で読んでいるので、あまり効率的な読み方ではないかもしれません。けれども、日本の作品を読んでいる時とは、明らかに一味違う世界観に出会えるため、興味が尽きることはありません。

最近読んだ洋書『Lessons In Chemistry』はそんな本の一冊でした。1960年代のアメリカを舞台に、化学者のエリザベス・ゾットは完全男性社会の中で、様々なセクシュアルハラスメントと立ち向かっていきます。強固な女性差別が、学問の社会にあったことに気付かされます(日本の場合はもっと遅れていますが)。強制的に研究所を辞めさせられたエリザベスは、ひょんなことから料理番組のシェフをすることで生計を立てていくことになります。それもステレオタイプ的な料理番組ではなく、料理を化学的に説明しつつ、そして聴衆の「主婦」たちに自分らしく生きる知恵も添えて。

深い問いかけとともに、心温まる良質な作品です。(有明海のほとり便り no.326)

『「筑豊」に出合い、イエスと出会う』

九州教区平戸伝道所協力牧師である犬養光博教師が2018年に出版した『「筑豊」に出合い、イエスと出会う』を出張の移動中に一気に読みました。犬養先生は同志社を卒業後すぐに筑豊に移り、福吉伝道所を立ち上げ46年間そこで働きを続けました。また、犬養先生はわたしの恩師である故・大津健一牧師(元NCC総幹事・アジア学院校長)とも親しかったと伺っています。

筑豊だけでなく、カネミ油症闘争、指紋押捺拒否闘争、菊池恵楓園にある菊池黎明教会での詩篇の学び、愛農聖書研究会など、その働きは常に現場に根ざしたものでした。

福吉伝道所は、先ほどお話ししたように日曜日には十人足らずの集まりです。けれども、厳しい時代が来て、教会が追いつめられたときにも、今と同じように十名の集会をもてたとすれば、それはとても尊いのではないか。…問題が出てくると消えてしまう「教会」ではなくて、どのような問題に直面してももちこたえ得る「教会」。それは何なのでしょうか。「教会」はどんな現実を拠りどころとし、どんな「現実」から出発すればよいのでしょうか。(p.72)

荒尾教会として、この犬養先生からの問いかけを考えていきたいと願っています。犬養先生は無教会の故・高橋三郎先生からも大きな影響を受けています。

ぼくの信仰は、一方で高橋三郎先生を通して与えられたイエス・キリストと、他方、現場、その現場で出会ったイエス・キリストと、二つの中心をもっている。これが一つになれば良いのだが、ずっと緊張関係を引きずってきた。そして近ごろはそれで良かったのではないかと思うようになってきた。(p.28) 

このような「緊張関係」はわたしたちの信仰生活においても立ち上がってくるものではないでしょうか。(有明海のほとり便り no.325)