コプト教会

本日メッセージで触れるエジプト・アレクサンドリア教会は古代キリスト教にとってはローマ教会と同様に重要な教会でした。

エジプトではイスラム教が支配的になっていく中で、アレクサンドリア教会はキリスト教信仰をコプト教会として守り続けていきます。エジプトではおよそ90%がイスラム教徒であり、10%がキリスト教徒です。エジプト社会ではキリスト教徒に対して様々な形での差別や偏見が残っています。

アメリカの大学に留学していた時に、親友の一人がエジプトからの留学生Haniでした。彼はコプト教会の信徒でありエジプトからの留学生たちの中ではマイノリティでした。私も同じキリスト者として、また理系同士共感し合う部分が多く、よく一緒に食事や映画に出かけたことを思い出しました。けれども、留学先の大学の周りにコプト教会はなく、最寄りのコプト教会は国境を越えたカナダにありました。

9・11同時多発テロが2011年に起こり、エジプトを含む中東からの移民や留学生に対しての差別や暴力が頻発していきました。アメリカ政府はHaniが国境を越えて教会に通うことを許可せず、移動を制限しました。その時の彼の悲しい・悔しい表情が、今もはっきりと思い出されます。

Haniはそのまま大学に残り、生命情報科学で博士号を取得、国立衛生研究所(アメリカのコロナ対策拠点の一つ)でポスドクをし、今はテキサス州立大学で助教授として頑張っていることを知り、とても嬉しくなりました。

世界の教会に集うキリスト者たちの、今日の礼拝が守られ祝されますように。 (有明海のほとり便り no.165)

雨の音や風の音が聞こえる

今日は花の日・こどもの日です。18世紀なかばアメリカの教会で、一年で最も多く花が咲くこの時期に、教会にそれぞれが花を持ち寄り、子どもたちの祝福を祈り、そして礼拝後その花を子どもたちがお見舞いに届けたことから始まりました。

けれども、いま子どもたちを取り巻く日本の社会環境は、決して祝福にあふれたものだけではありません。厚労省の報告によると、虐待による子どもの死亡事例は年間50件を超えています。心中による虐待死もここに含めると、もっと増えます。つまり、私たちが毎週教会に集い礼拝を献げ各々派遣されていくその間に、毎週一人以上の子どもが虐待によって命を奪われているのです。この現実を、忘れてはいけません。

虐待された子どもたちのためにシェルターを造った坪井節子弁護士が、『奪われる子どもたち』という本の中でこのように書かれていました。

子どもを決してひとりにしない、それと同時に支援する大人もひとりにしない。役割、機関は違っても傷ついた子どもに向き合う、弱い大人たちとしてしっかりスクラムを組もう。…どんなに試しても暴れても、このスクラムが崩れないとわかったとき、色々な仕方で子どもが心を開いてくれる瞬間がくるのです。拒んでいた食事を食べ始めたり、ぽつぽつ話を始めたり。「雨の音や風の音が聞こえる」とか「空ってきれいだね。初めて空見た。ずっと下向いて生きてきたから」と語る子がいました。

「雨の音や風の音が聞こえる」社会、小さな花の美しさが感じられる社会を、子どもたちと共につくり出していきましょう。(有明海のほとり便り no.164)

キリスト教保育の祈り

キリスト教保育連盟熊本地区では毎年6月に春季保育者研修を開いています。これは主に初めてキリスト教保育に出会う新任保育者に、キリスト教とは、キリスト教保育とはどういったことなのかを学ぶ場です。いつもとても分かりやすく、学びになり、私自身毎年楽しみにしています。

今年度から地区の会計を担うこととなり、準備に携わったのですが、新型コロナウイルスの影響で物理的に一箇所に集まるのを止めて、オンラインで持つこととしました。

「キリスト教保育への招き」という題で、O先生(九州ルーテル学院幼稚園前園長)がお話をして下さいました。キリスト教保育のキーワードとして①祈ること、②聖書の二つを挙げられました。

  • 子どもたちに対して、時々自分の感情が出てしまう時、後で反省するような時はないだろうか。どうしても愛せない子どもがいるかもしれない。苦しい時、どんな時でも「自分の言葉」で祈ること。言葉は呼吸であるように、祈りも呼吸。それが出来ればキリスト教保育は大丈夫。それが救いでもある。
  • 礼拝ではぜひ「主の祈り」を子どもたちに覚えてほしい。意味は少しずつでいい。卒園してからも子どもたちは覚えている。
  • 礼拝は発達障がいのある子にはじっと静かに座っていることが難しい。けれども、事前の予告・カードや写真の活用など工夫しつつ、あせらずゆっくりとやっていってほしい。

保育者のほとんどはキリスト者ではありません。けれども、洗礼の有無に関係なく、愛し導かれる神さまと共に、キリスト教保育があることを改めて学ぶことが出来ました。(有明海のほとり便り no.163)

濱邊達男牧師

先日届いた教団新報に、4月15日に濱邊達男(はまべたつお)先生が召天されたとありました。先生のプロフィールは次のとおりです。

牧師、神学者。2020年4月15日逝去、87歳。1932年神奈川県横浜市生まれ。1955年青山学院大学文学部キリスト教学科卒、57年同大学院聖書神学科修士課程修了、同年より日本基督教団荒尾教会伝道師、前原教会牧師、1966年青山学院大学経営学部宗教主任、弘前学院大学教授、東洋英和女学院大学教授、茅ヶ崎堤教会を経て14年隠退。遺族は妻・濱邊敬子さん。著書:『滝沢克己とバルト神学』、『バルト神学の出発』

濱邊先生は、戦後の混乱期にあって青学神学部(※1977年に廃止)で学ばれ、初任地がこの荒尾教会でした。計算すると当時25歳です。横浜生まれの方ですから、この荒尾とは直接的な結びつきは何もなかったのではないでしょうか。

創設者である信徒の宮崎貞子先生は、1953年恵泉女学園中高で英語教師として再び招かれ東京へと移られました。そして渋谷にある美竹教会に通われたと伺っています。当時美竹教会を牧会していたのが浅野順一牧師です。著名な旧約神学者でもあり、青学神学部で教えられました。貞子先生が浅野先生を荒尾教会にも招き、特別伝道集会をされたことがあります。

つまり、濱邊先生は浅野先生の教え子であり、私が想像するに貞子先生からの何らかの祈りと働きかけがあって、実現した荒尾への赴任だったのではないでしょうか。まだまだ炭鉱も元気だった時代に、どのような召命を抱きつつ若き濱邊先生は来て下さったのでしょうか。 ペンテコステ礼拝の今日、荒尾教会の草創期に思いを馳せましょう。(有明海のほとり便り no.162)

ロフト

ここに遣わされた初年度、大ピンチの際に大分・中津から園のために来ていただいたY先生から、自身幼児教育の学びを深められている中で、様々なアドバイスをいただきました。読んだらいいと紹介していただいた本の中に、高山静子教授(東洋大学)の著作がありました。いま振り返ればそこからが自分なりに、保育「環境」について考えを深めていくターニングポイントだったように思います。

キリスト教保育では、主体(主役)は先生ではなく、子どもたちです。神さまが子どもたち一人ひとりをかけがえのない存在として愛し、慈しみ、最初から「育つ力」を授けて下さっています。園で子どもたちと出会う教職員の役割は、育ちを邪魔しないで、伸びやかに広がる環境をつくっていくことです。

「それをどう実現していくのか?」が、園長に託されている働きです。高山先生の本を何度も教職員と共有し、他園も訪問させていただきました。特に衝撃を受けた各園に共通することは、園長や先生たち自らが遊具つくりに取り組んでいたという点でした。

とにかくやってみようと思い、おそるおそるインパクトドライバーと丸のこを買ったのがちょうど1年前でした。木工に挑戦するのは生まれてはじめて…。まったくの手探りで遊具作りをはじめました。河内からたち保育園の初瀬園長にはいつもアドバイスをいただきました。 そして登園自粛期間のこの時、先生たちみんなで協力してきりん組(年長)にロフトを作ることが出来ました!まだまだ道半ばですが、これからも子どもたち主体のキリスト教保育を深めていきたいと願っています。

尊厳

敬愛するジェフリー宣教師(桜美林大学・アメリカ合同教会)より一冊の紀要が送られてきました。栃木・那須にあるアジア学院が発行する「euodooユオードー」第4号です。そこに先生が小論文を掲載していました。タイトルは「尊厳という新しい言語」

ジェフリー宣教師は、東北教区センター・エマオで長い間主事として働かれました。東日本大震災が起こった際も、被災者支援センターの立ち上げのために奮闘された方です。

そのジェフリー宣教師が、2011年当時のことを振り返っている文章が胸を打ちました。被災者支援活動を通して「人間とは何だろうか」を考える対照的な2つの経験を述べています。1つ目はある被災者との出会いを通して、「人は多くを失って苦しみの中にあってもなお毅然として周りの人の力になることができる」ということ。2つ目は、エマオというコミュニティで生まれてしまった裁き合いの痛み…。私がエマオに赴任したのは1年後の2012年ですから、直接的にそこに関わっていたわけでありません。けれどもどちらの経験も、深く繋がっており、胸を打ちました。

特に2つ目の痛みを振り返る中で、そこに欠けていたのは「尊厳」だったと気付かされます。

「尊厳」と聞いてまず連想される言葉は「尊敬」である。しかし、この二つの言葉には根本的な違いがある。尊敬とは人の生きる姿勢や成し遂げてきたことに対して与えられるものだ。…これに対し、尊厳とは人間としての存在そのものに備わっているものだ。端的に言うと、尊厳とは生まれ持つ価値である。

神はこの「尊厳」を私たち一人ひとりに与えて下さっているのです。(有明海のほとり便り no.160)

一枚のハガキ

『信徒の友』4月号の「日毎の糧」4月19日は荒尾教会でした。全国の諸教会・信徒の方たちが、祈祷会などで荒尾教会を覚えて祈りを献げて下さいました。新型コロナウイルス禍の中で、家庭礼拝を2週持ち、正直とても寂しい思いをしていましたが、送って下さった祈りのハガキにとても励まされました。その中でも、特に驚いたのは、北海道瀬棚からの一枚のハガキです。

送って下さったのは、利別教会員のKさんでした。もう22年前になります。私が通った山形・基督教独立学園では高3になると、修学旅行を1ヶ月(!)かけて行います。お金はありませんので、山形から北上しつつ、各地のキリスト教施設や教会などで奉仕しつつ、泊まらせていただきました。訪問先の一つに瀬棚(せたな)という酪農地域で2週間ほどいくつかの酪農家のお宅に分かれて実習させていただく時がありました。その時に私がお邪魔したのがKさんのお宅です。広大な放牧地で、多岐にわたる大変な作業を、祈りの中で心を込めて実践されている姿が胸に焼き付いています。そのKさんが、私の名前を見つけ、ハガキを送って下さったのです。私の方は、この22年間すっかりご無沙汰していたにも関わらず…。Kさんはすでに息子さん家族に経営を委ねられ、お手伝いをされているとのこと。次のように綴って下さっていました。

荒尾教会、めぐみ幼稚園、山鹿教会の上に神様の祝福を祈ります。

このような時にだからこそ与えられた、神さまの不思議な守りと導きに心から感謝しています。(有明海のほとり便り no.159)

祈り

マルコによる福音書1章35~39節(家庭礼拝メッセージ)

明け方朝早く、まだ暗いうちに目を覚ましたイエスは、まわりのみんなを起こさないようにそっと動き始めました。向かった先は人のいない寂しい所でした。そこでイエスは一人で祈りました。イエスに従った弟子たちと共にではなく、一人で…。

教会の友と共に祈ること、あるいは家族や友人と共に祈ること、それぞれが私たちにとってとても大切なことです。しかし、一人だからこそ祈れる「祈り」があります。まわりの人たちには、どうしても伝えることの出来ない思いや言葉を、私たちは心の内に抱いています。その思いの丈を、神さまに告白し、神さまに聞いてもらうこと。あるいは、どうしようもない欠けや弱さ、罪を持っている自分を神様の前にさらけ出すこと。それは私たちの信仰にとって、とても大切な祈りではないでしょうか。人と繋がりながら生きつつ、けれども一人に静かに祈り・黙想する「孤独」は大切なのです。イエスの祈りはそのようなものだったのではないでしょうか。

そしてこの祈りからイエスは福音の分かち合いという具体的な活動へと向かっていきました。祈りと日々の働きが循環していくのです。祈りという縦木から、働きという横木へ。

イエス・キリストの十字架を生きること。神さまと私という縦木(祈り)に生きる。同時に、隣人と、この福音を分かち合う、横木に生きる。その中心に、復活したイエス・キリストがいて下さるのです。

みなさんに、神の平和がありますように。(有明海のほとり便り no.158)

真ん中で、共にあるイエス

家庭礼拝メッセージ ルカによる福音書24章36節

「あの日から、なかなか眠れず、薬を飲んでも眠れないんだ…」

仙台で東北教区被災者支援センター・エマオのコーディネーターをしていた時、毎日のように訪問させていただいた仮設がありました。そこに住むHさんが、お茶っこの時に、ボソッと言われた言葉です。「あの日」とは、Hさんが津波に遭い家族を、すべてを失った日のことです。

新型コロナウイルスによる感染が蔓延するいま、世界全体でこれほどまでに多くの人たちが「平和」と「愛」、そして「つながり」を必要としたことは、ないかもしれません。でも実はこれまでも、東日本大震災や熊本・大分地震で、各地の災害で、日本社会の歪みの中で、求めている人たちは沢山いました。そのことも、祈りに覚えていきたいと願っています。

イエスは十字架に架けられ殺され、三日目に復活しました。恐れ逃げ隠れていた弟子たちの「真ん中に立ち」、イエスが言った言葉。それは、「平和があるように」でした。単なる慰めではありません。恐れおののいている人たちの真ん中に、復活したイエスは共にあり、神の平和・愛・つながりを分かち合っているのです。

復活したイエスは、眠れない夜を過ごすHさんと共に、そしていま、病床で苦しむ方たちと、必死に医療活動を担う医療従事者の方たちと、休校・休園になり家で過ごす子どもたちと、不安を抱えている一人ひとりと、共にいて下さっています。

みなさんに、神の平和がありますように。(有明海のほとり便り no.157)

完璧な献げものなんてない

Forget your perfect offering. There’s a crack in everything. That’s how the light gets in.(完璧な献げものなんか忘れなさい。すべてにひびがあり、そこから光が差し込むのです。)”

アメリカ・セントルイスにあるPeace合同教会のウェンディ・ブルーナー牧師により、説教前の短い祈りの言葉が胸に響きました。

私自身を振り返ると、完璧を追い求める傾向が強く、大分そこから自由になったと思ったら、またそこに戻ってくる…の繰り返しです。イエス・キリストの福音宣教についても、完璧さを追い求めがちです。そして、その「完璧さ」が自分を苦しめます。到底そんなことは出来ないのですから。

ちょうどこの言葉をYouTubeで聞いた時、自分の中で様々なことがモヤモヤしていた時でした。新型コロナウイルスの蔓延を目の前にして、様々なことが重なりました。

けれども、ウェンディ牧師が指摘するように、私たち人間に「完璧な献げもの」は不可能であり、「すべてにひび」があるのです。まさに土の器(IIコリ4:7)なのです。「完璧さ」を追い求めてしまうというのは、「すべてにひび」があることを受け入れられていない証拠であり、あたかも「自分が神になろう」としてしまうことです。

「ひび」は私たち人間の目からしたら欠点であり、弱さかもしれません。けれども、神さまはこの「ひび」にこそ光を、愛を注ぎ込む方なのです。ウェンディ牧師の祈りにはその信仰が込められています。 「(神の)力は弱さの中でこそ十分発揮される」(IIコリ12:9) (有明海のほとり便り no.156)